日常に射し込む影
森屋靴下での盗難事件から一週間が過ぎた。甘司ゆうかもとい上司は写真集に載せるグラビア写真の撮影を行っていた。
この日の撮影は屋内のシチュエーションを目的としていて、彼女の格好も胸と腰の下着だけだ。
ソファの上で床に足を放りだして浅く腰かけるという、どこにも艶やかさのない姿勢をとっていた。
「うん、オーケー」
撮影者がカメラを覗きながら腕を挙げて、指先で丸をつくってみせた。
上司はきちんと座り直した。
「これで最後でしたか?」
撮影する写真がもうないことを撮影者に訊ねた。
彼女の問いに四十代半ばの短く顎髭を生やした撮影者の男は、どっちともつかない顔で答える。
「これで終わりでも構わないんだけど、写真集だからね、まだ少し撮っておきたいポーズとか服装があるんだよ」
「どんなのですか?」
「そうだね、甘ちゃんが今までやったことない黒下着とか」
「黒下着ですかぁ」
上司は童顔の自分が黒い下着を着けている姿を想像してみたが、大人の女性のような色気はなかった。
しかし撮影者は彼女と考えが違って、黒下着での撮影にやる気を見せ始める。
「うん、今頭の中で甘ちゃんが黒下着を着けているのを思い浮かべたけど、今までで一番の艶やかな甘ちゃんが撮れそうだよ」
えっー、と上司は相手が本心で言っているのか疑ったが、大丈夫大丈夫、俺の腕なら甘ちゃんがどんな格好だろうと綺麗に撮れるから、と自信たっぷりに促されては、黒下着を着けようという気にもなる。
「それじゃ、撮ってもらっていいですか?」
「おーけー、今すぐ準備させるから」
撮影者は上機嫌にそう言うと、後ろに控えていたスタッフの女性に言いつける。
「近くで黒い下着を一式と今回はストッキングも買ってきて」
スタッフの女性は指示を聞くと、駆け足で黒下着を買いに出かけた。
「多分、三十分もしたら帰ってくるからね」
撮影者の男は上司にそう伝えたのだが、その予想は大いに外れてスタッフの女性は帰ってこないまま二時間が経過した。
照明係の男性スタッフが、腕時計で時間を気にする。
「遅いですね、どうしたんでしょう?」
「衣装選びに関しては彼女は優秀なんだけどな」
撮影者の男も首を捻る。
なにが三十分もしたら帰ってくるからね、なんですか。と上司は下着にブラウスを羽織った格好で暇を持て余した。
それから十分経って、撮影場所のドアが開いて下着を買いに行っていた女性スタッフが息を切らして帰ってきた。
「はあ、はあ、すみません」
手にはランジェリーショップの袋を持っている。
「おお、やっと帰ってきたか。早速、甘ちゃんに着けてあげて」
「それが、ストッキングだけ買えなくて」
「ええ、どうしてだい?」
「いろいろ店を回りましたが、どこもストッキングを切らしてるそうです」
「なぜ、ストッキングだけが品切れしてるんだろ」
撮影者はどうしてこんな事になっているのか、疑問を投じたい風に言った。
「撮影はどうするんですか?」
上司は撮影車に訊ねた。
「ストッキングなしでやるしかないわな」
撮影者は答えた。
ストッキングがないだけじゃ取りやめにしないか、と上司は内心落ち込んだ。
上司がグラビア撮影した日の翌日、栗山は自宅のリビングで家族と朝の食卓を囲んでいた。
栗山の真向かいで新聞を広げていた父親が、あまり関心なさそうに記事の見出しを読んだ。
「女性用靴下が消えた、だってさ」
トーストを手に載せて栗山は訊き返す。
「女性用下着がなんだって?」
「消えた、だって。女性用靴下とは言ってもストッキングだけが、工場から盗まれているらしい。しかもこれで先週に続いて二件目だそうだ」
記事の文面を読み、詳しく補足した。
「そりゃ、またなんでだ?」
「お父さんが知るわけないだろう。犯人じゃないんだから」
新聞から顔を上げて栗山の父親は、なんでもかんでも訊くなという目をした。
母親がコーヒーを注いだカップを持って父親の隣の席に座すと、話に入り込んでくる。
「妙な泥棒がいるのね」
「ほんとだな」
父親はすでにストッキングの事件については興味をなくしてしまい、また新聞に目を走ら始めた。
「あたしゃ、ストッキングを履かないから関係ないけどな」
栗山も事件に興味がなく、程よく焼けたトーストに齧りついた。
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