記憶の商人

本田翼太郎

第1話 昏睡

 立ちこめる白いモヤの中に、少年が横たわっていた。薄く開かれた目は焦点を結んでいない。時おり、全身が引きつけを起こした。丸みをおびた額にふきだした汗が、毛髪のない頭部へと流れている。


――気がついたか。


 モヤの中から、しゃがれ声が聞こえた。


――三日も眠ったままだったんだよ。


 少年は返事をしない。赤い瞳がぐるぐると廻っている。


――しゃべってみなさい。声は出るから。


「……あう、あ……なたは、だれ?」


 たどたどしい発音だが、言葉になった。


――長老と呼ばれているよ。もしくは、ただ老人とね。ほかに聞きたいことは?


「ここはどこ?」


――スクラップマウンテン。非公式だが、そうよばれている。


「このニオイはなに?」


――ティーだよ。水よりも清く、血よりも汚れたものだ。


 しばらく会話が途切れた。湯を沸かしているらしい。コトコトと土瓶の蓋が踊っていた。


 おもむろに少年が口をひらく。


「僕はだれなの?」


――さあ誰だろうね。だいいち知ってどうする? そのことを正しく理解している者なんて、どこにもいない。だけど、みんな上手にやっているよ。


「つらいんだよ、自分が誰なのかを知らないことが。たぶん普通の人が知らないよりも、僕は自分のことを知らない」


――なぜそれがわかる? 他者の内面などわかるはずもないのに。


「たくさんの人たちが教えてくれているんだ。だけど、そのたくさんに僕はふくまれていない」


――そうか、たしかに。いや、おもしろい


 何を合点したのか、しゃがれ声がはずんだ。


――それでは失礼して、君の頭をのぞかせてもらおう


 たちこめる蒸気から伸びだした手が、少年の頭を押しはさんだ。しわがれた手が側頭部にずるずると埋まっていき、頭蓋の中心にある記憶片セルをつかむ。


 記憶片セル――それは個人の記憶を蓄積する媒体、抜け殻の肉体に人生をもたらすものである。


――これはなんと、すばらしい感受性だ。


 少年の細い手足が統率をもたずに暴れた。糸がからまったマリオネットのようだった。


――きみはこの先、良質な経験を得るだろう。


「それは、どれだけの犠牲のうえに?」


 少年の声は怒気をふくんでいた。


――考えないでいいことのほうが、この世には多くあるんだよ。


「抜け殻として生きていくべきか。サナギのなかで死ぬべきか」


――偏狭な二択だな。


 長老は声にだして笑う。


――もう眠りなさい。それこそが君に必要なことだから

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