第2話
故地屋崇子は、横須賀の海辺にあるマンションの一室で自身の手で書いたノートを眺めていた。崇子の視線は、故地屋圭介という文字で止まる。崇子は顔の向きを変えて自分の左側にあるベッドの上を見た。
「圭介。早く目覚めなさい。お母さんがこんなに待ってるのに。あなたにはいくら謝っても足りない。だけどこれじゃ、謝る事もできない。いいわ。私は決めたんだから。私は一生を賭けてあなたを守る」
ベッドの上には一人の男の子が寝かされている。体にはなんの外傷も見られない。長めの黒髪に色白の肌。少し気弱そうな優しげな形の閉じられている目。崇子は椅子から立ち上がると男の子に近付く。
「圭介。どうして目覚めてくれないの? まだ、お母さんの努力が足りない? あなたには」
崇子は言葉を切った。崇子は圭介の目が開くのを見ていた。
「圭介!」
崇子の上げた大きな声に圭介が声を出す。
「あ、う? え?」
崇子は抱き締めようと広げた腕を慌てて下ろした。
「目が覚めた? 何か言ってみて」
感情を殺した冷静な声。圭介がもごもごと口を動かす。
「う。い、言、う?」
崇子は自身の顔が綻ぶのを感じた。
「いいわ。大丈夫。徐々に慣れる。体を起こすけど、いい? それとも自分で起こせるかしら?」
圭介が小首を傾げてから、のろのろと上半身を起こした。
「うん。いいわね。何から話そうかしら。圭介は、何か聞きたい事ある?」
圭介がまた小首を傾げた。子犬か、子猫か。生まれたばかりの愛玩動物を髣髴とさせる動きだった。
「けいすけ? ぼ、く?」
崇子は頷いた。
「そう。そうよ。あなたは圭介。故地屋圭介よ。私のかわいい一人息子。事故にあってしまって。記憶を失ってるのよ。でも、なんの心配もいらないわ。お母さんがいるから」
お母さん? と圭介が反復する。崇子は頷いた。
「そうよ。それは分かるでしょ?」
しばし間をおいてから圭介が頷く。
「う、うん。分かる。僕は故地屋圭介っていうんだ? そっか」
圭介の口が滑らかに言葉を発し出した。崇子は圭介の頭を優しく撫でた。
「うんうん。いい子いい子。もう立って歩けるんじゃない?」
圭介が立って? と小首を傾げた。
「そう。私みたいに足で立つの。あなたにも足があるでしょ?」
圭介が自身の体の方に顔を向ける。掛けられている布団を崇子がまくった。
「ほら。やってごらん」
崇子が言うと圭介がのろのろとベッドの下に足を下ろす。床に足の裏を付けると、少し驚いたような顔になってから腰を浮かせた。どたり。圭介はすぐに床の上に倒れてしてしまった。
「お母さん。立つのって、難しいよ。もう一度やってみる」
崇子が頑張りなさいと言うと圭介がベッドの端を掴んで起き上がる。ゆっくりとバランスを取りながら圭介が立ち上がって行く。最後にベッドの端を離し、圭介は自力で真っ直ぐに立った。
「できた。どう、ちゃんと立ってる?」
崇子は圭介を抱き締めた。
「痛い。痛いよお母さん」
崇子は名残りを惜しみながら圭介から体を離す。
「ごめんごめん。でも、嬉しいの。圭介がまた元気になったから。えいっ」
もう一度圭介を抱き締める。
「わう。お母さん~」
嬉しそうに悲鳴をあげる圭介を抱きながら崇子はノートの方に視線を向けた。不意に呼び鈴の音が部屋の中に響く。
「何? なんの音?」
圭介が不思議そうな声を出す。崇子は圭介から離れるとノートが置いてある机に近付いてノートを手に取った。
「誰か来たみたいね。あれは呼び鈴の音。外から来た人が家の中の人を呼ぶ物よ。圭介はここで待ってる。好きに歩き回ってていいよ」
崇子はうん、と頷く圭介の返事を確かめてから部屋を出た。ドアを閉めると施錠してから玄関に向かう。玄関のドアを開けると茶色のスーツを来た男が立っていた。
「崇子さん。おめでとうございます。起きましたね」
男は軽薄そうな浅黒い顔をくしゃくしゃにして心底嬉しそうに微笑んでいた。崇子は無意識に腰まである自身の髪を手首に巻いていた皮紐でポニーテールに結ぶと男の顔を睨み付けた。
「三鷹。もう少し気を使え。折角の親子の対面だ。無粋にもほどがある」
三鷹と呼ばれた男が姿勢を正す。真っ直ぐに立った三鷹がきりっとした表情で言う。
「申し訳ありません。ですが、有益な情報を手に入れたのでつい急いで来てしまいました」
崇子はこくんと頷いた。
「よろしい。崩せ。中に入れ。一人で来たのか?」
真っ直ぐだった体を心持緩めた三鷹が返事をする。
「一人じゃないです。研究所の者が二人ほど下にいます」
崇子がそうか、と言って踵を返すと、三鷹が靴を脱いでついて来る。
「まあ、座れ。下の奴らは圭介の事を知ってるのか?」
玄関から入って短い廊下を抜けた先にある客間のテーブルの前に腰を下ろすと三鷹が頷いた。
「はい。流石にばれますよ。圭介君の部屋には監視カメラが三台もあるんですよ。それも、ライブ中継です。隠しようがないですって」
崇子は思わず笑い声を上げてしまう。
「な、なんです?」
問うて来る三鷹に崇子はインスタントコーヒーの入ったカップを差し出した。
「お前の話し方。すっかりできなそうな会社員だな」
三鷹が苦笑した。
「それを言うなら崇子さんだって、すっかり主婦じゃないですか。このコーヒーを入れる手際のよさ。もうびっくりですよ」
崇子は三鷹を睨んだ。
「私は元々主婦だろう。一児の母だぞ。あの頃からそうだったんだ。今更じゃないさ」
三鷹がそうすでね、と言ってからコーヒーを啜った。
「大上……。財閥を出てからお互いに職を変えましたからね。今思えばあの頃の方が楽しかったなぁ。生きるか死ぬか。剣林弾雨の中を駆け回ってた方が、性にあってませんか? お互いに」
崇子は苦笑してみせる。
「ないな。私は今の方が幸せだよ。圭介の事もある。それにやりがいはこっちの方があるだろう。お前は、私と一緒じゃ不満か?」
三鷹が軽薄な顔を綻ばせた。
「嬉しいお言葉です。まあ、大上の私兵よりはましですかね。理不尽な指令はもう受けなくていいですから。そういえば。大上は何も言っては来ないんですか?」
崇子は台所に行き、自分の分のカップを手に取った。
「ああ。だが、そのうち接触して来るだろ。圭介の事があってから三年。大上から接触がない方が奇跡だ。まあ、あっちはあっちで、大上一蔵が死んだりしてるからな。後継者の選定で揉めてたのだろう。後継者も決まったと聞いている。時間の問題だ」
三鷹が顔を引き締めた。
「どうするんです?」
崇子はわざと不思議そうな顔をしてみせる。
「どうする? とは?」
三鷹が圭介のいる部屋のドアの方に顔を向けた。
「決定事項でしたか。無論、私もお供しますよ。隊長の行く所なら地獄の果てまでも」
崇子は苦笑した。
「隊長はよせ。お前には苦労を掛けるな」
三鷹が恥ずかしそうに後頭部を軽く掻いた。
「ありがたきお言葉。隊長には、おっとすいません。崇子さんには、命を何度も助けられてますから。当たり前です。あっと、そうだ。用件を忘れる所でした」
崇子はコーヒーを一口飲むとカップをテーブルの上に置いた。
「聞こうか」
三鷹が頷く。
「B02の件です」
崇子は自身の表情が険しくなるのを感じた。
「死体が見付かったか?」
三鷹が首を左右に振った。
「いいえ。捕まりました」
「どこに?」
思わず声が大きくなる。三鷹が落ち着いて下さい、と言ってから言葉を続けた。
「それが。米軍から依頼を受けているショウヨサノという名の傭兵の所です。今朝方うちの方に連絡が入りました。本人、ショウヨサノからですよ。引き渡してもいいと。条件付きですが」
崇子はコーヒーを口に含んだ。苦味ばかりが気になった。
「金か。それとも技術情報の開示か。まあ、どっちも私には関係のない事だが……。圭介の事がある。気を付けた方がいいな」
三鷹が言葉を続けた。
「ショウヨサノ自身と常葉青、B02が名乗っている名前ですが、この二人が直接研究所に来て中を見る、というのが条件です。どうする気ですかね。全てを処分する気かな」
崇子は溜息をついた。
「そんな事か……。B02は、今は常葉青か。あれはそうかも知れん。かわいそうに、あれには過酷な事ばかりさせたからな。だが、傭兵の方はどうだろうな。乗り込んで来るメリットが浮かばない。自分で中を見て、研究でもするのかな」
三鷹が静かに笑った。
「有り得るかも知れませんよ。崇子さんみたいな人でしたらね。ブロワープロジェクトは崇子さんなしではできなかった」
崇子は目を細めて三鷹を見た。
「私はそういう才能に恵まれただけだよ。なるほど。冗談のつもりだったが、そうなのだとしたら、会ってみるのも悪くない。どう転んでもこっちが有利だろう。どうせ研究所には柄の悪い連中が来るのだろう?」
三鷹が軽薄な笑みを顔に貼り付けながら頷く。
「ええ。それはもちろん。隊の選りすぐりのがわんさか。ただ。大っぴらに手出しはできないそうですけど」
崇子は二回頷く。
「だろうな。米軍が後ろにいるんだ。だが、こっちも国の未来を賭けている研究だと思われてるからな。各国がこぞって軍事に力を入れている昨今だ。B03さえ、渡さなければいいさ。見せるくらいなら構わん。いい情報だった。ありがとうな、三鷹」
三鷹が困った顔になる。
「すいません。私もこのまま帰りたいのですが。圭介君をすぐにでも連れて来て欲しいと」
崇子は圭介のいる部屋のドアに視線を向けた。
「私の意向は無視か。まあ、止むを得んのだろう。所詮は雇われ者だ。どこにいても変わらん。だが、嫌なタイミングだ。常葉青の発見と圭介の覚醒。これで大上が噛んで来たら完璧だな」
三鷹が椅子から腰を上げた。
「全力を尽くします」
右手を上げて敬礼をする。崇子は思わず三鷹の頭を撫でてしまった。困惑顔になる三鷹。
崇子は慌てて手を引いた。
「おっと、すまん。つい圭介に接するようにしてしまった。許せ。ふふふ。だがな。今のは私の最上の愛情表現だぞ。圭介もお前も。揃って私が守ってやる。安心して戦え」
はい、という三鷹の凛とした声を受けて、崇子は圭介の部屋に向けて歩き出した。髪型は戻さなかった。圭介に母の別の顔を見られるのは正直面白くなかったが……。それは、これからを考えれば見せなくてはいけない姿なのだ。崇子は表情を引き締めてから圭介のいる部屋のドアをノックした。
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