まおう、異世界転移する。

石野路傍

第1話 まおう、戦う。

 轟々と燃え盛る炎を背に、赤髪の魔王は勝ち誇るかのように笑った。

「智の勇者よ、お前も取るに足らない存在だったな」

 俺は傾いた兜を直すと、目の前の魔王しょうじょを見やった。


 その体躯は魔王の呼び名に似つかわしくない、小柄な少女のそれであった。しかし眼前から放たれる威圧感は巨大な竜をも上回る、まさに魔王と呼ぶにふさわしいものだった。

 そもそも、俺がここにいること自体が不本意な事態でしかないのだ。基本的に書物に囲まれて暮らすことさえ出来れば、他には何も望まないのが俺の生き方なんだ。……だが力の勇者は返り討ちに遭って田舎に引っ込んでしまい、心の勇者は魔王側に寝返る始末だ。こんな時に考えることじゃないが、何だ心の勇者って。力が強いとか、智恵があるとかならまだわかりやすいが、心を売りにしているのは意味が分からんぞ。『心』変わりのしやすさは実際一番だったわけだが……。

 とにかく、この国に残っていた勇者は俺しかいなかったのだ。

 そして王命は別にして、止むに止まれぬ個人的事情もまた、ある。

「何を突っ立っている!」

 赤髪の魔王が剣を振り上げ、爆風を身にまといながら矢のように斬りかかってきた。俺は構えた剣でそれを弾き返すが、魔王は返す刀で地面を大きく斬り裂いた。地面が赤熱し、刻まれた亀裂から溶岩が噴出する。

堅牢なる盾の魔法ソリルド!」

 とっさに唱えた防御魔法に応じて、俺を庇うように光の防壁が展開される。詠唱が間に合っていなければ、そのまま煮えたぎる溶岩に身を焼かれていただろう。

猪口才ちょこざいな!」

 罵りのことばとは裏腹に、魔王は笑みを浮かべている。戦いが楽しくて仕方がないといった様子だ。

 彼女は攻撃の手を緩めることなく、火炎魔法を次々と放ってくる。燃えたぎる火球が防壁や地面に着弾した瞬間、間欠泉のように火柱が上がる。火薬を樽に詰めて火をつけたとしてもこうはなるまい。無詠唱でこの火力の爆発魔法を連発できるのは、まさしく魔王の業でしかない。

 ――あまりの猛攻に、俺の防御魔法にヒビが入った。

「しまったッ!」

 ……再展開が間に合わない! この機を逃すまいと、赤髪の魔王は火炎魔法が付加エンチャントされた剣を防壁にねじ込んできた。

 防壁が、壊れる!

「魔法一辺倒じゃないのが、お主の良いところよなっ!」

 無意識に剣の柄を握っていた。

 俺はこちらへと振り下ろされた強烈な一太刀を剣でいなそうとする。――が、少女とは思えない膂力で無理やりつばり合いへと持ち込まれてしまった。恐らく高度な筋力強化バフをかけているのだろう。しかしこちらも曲がりなりにも勇者である。剣技くらい一通りこなせなくて、何と言う!

「楽しい! 我は楽しいぞ!」

 全身をバネのように使い、力のこもった剣を何とか弾き返す。しかし赤髪の魔王は筋力強化バフに物を言わせた剣速で次々と攻め立ててくる。魔法で反撃しようにも、詠唱の隙を与えてもらえそうにない。手数に押され、俺の剣筋がほんのわずかにブレた。魔王はその隙を逃さなかった。

「智の勇者よ! その顔を見せてくれ!」

 斬り上げられた剣が、俺の顔を覆っていた兜を弾き飛ばす。

 ただそれだけの出来事。それだけなのに。

 まるで時間が凍ったようだった。

 俺の素顔を見た魔王は、瞳孔を大きく開かせている。口を真一文字に結んでいるが、驚きは隠しきれていない。

 油断は油断、俺は素早く後ろに下がり距離を取る。

「お、お主は……! 町で――」

 苦々しい記憶が脳の奥から浮き上がってくる。 

 

 新たな魔法を生み出すために長らく研究室に籠りきりだった俺はある日、気分転換のために町へ出た。そして偶然にも、変装した彼女まおうに出会ってしまう。その正体に気付くことの無かった俺は、つい見た目が好みだったばっかりに、うっかり軟派な真似をしてしまったのである。


「町で我を口説いてきた男ではないか!」

「そうだ! お忍びで街へと下りて来たお前を! 魔王と知らずに口説き! 同じ皿のパイを突っつき! 可愛い服を見立て! あろうことか日が暮れるまで一緒に楽しく過ごした俺だ!」

「……フッ、フハハッ。愚かだな、我もお前も。お互いが宿敵であるとも気付かずに」

「まったくだ」


 少しだけ言い訳をさせてほしい。

 というのも、魔王の元に向かった冒険者は魔王の眷属たる強大な魔物によってことごとく道半ばで退けられていた。初めて魔王その者と対峙したのは力の勇者率いる討伐隊であったが、彼らがその姿を映結晶クレフィアに収めるまで、赤髪の魔王の顔は割れていなかったのである。それ故、それ故だったのだ。

 しかしいくら言い訳を重ねても、勇者が魔王を口説いたなど、決してあってはならない事実だ。挙句の果てに、これ以上ないくらい楽しく過ごしたなど……! あぁ……すごい楽しかった……!

「勇者よ。あの時は楽しかったぞ。……だが私は赤髪の魔王。せめて苦しませずに、地獄の業火をもって瞬く間もなく灰燼へと還してやろう」

「ああ、来いよ。こっちもお前を討伐しに来てるんでな」

 赤髪の魔王が手のひらをこちらに向け、詠唱を始めた。この時を待っていた。俺は腰に結んでいた薬液ポーションを急いで飲み下し、剣を地面に突き刺した。

灰燼に帰す業火の魔法エクスプロイデス!」

祝福されし堅牢な盾の魔法エイル・ソリルド!」

 爆炎が津波のように俺を襲う。俺は両手を空に突き出し、防御魔法を展開させる。これさえ、これさえ耐え切れば勝機が見えるんだ。灼熱に喉が渇く。熱された大気が渦を作り、暴風が防御魔法の展開されていない側面から俺を殴りつける。相変らず馬鹿げた威力だ。だが、俺の防御魔法はさっきとは一味違う。

 業火が光の壁を削りとるかのように侵食してくる。このままだと割れてしまうだろう。――このままだったら。損傷した箇所に魔力を集中させると、時間が巻き戻ったかのように防壁が回復する。

 本来、一度詠唱して展開した魔法は摩耗し切ればそれまでだ。最も、魔法に長けた人間は再び同じ魔法を展開することで疑似的に魔法を継続させる。あくまで同じ魔法を詠唱する隙があれば、の話だが。本来なら戦闘中であったとしても優れた腕前さえあれば、相手の呼吸を見て魔法を展開し直すのは難しいことじゃない。だがそれは常識の中の話だ。少なくとも、魔王レベルの攻撃を捌きながら再詠唱するのは現実的じゃない。俺の見出した策は、半ば無謀に思えるほど緻密な魔力操作で一度展開した魔法を修復し続けることだった。

「!」

 火の勢いが弱まってきた。もう少しの辛抱だと、歯を食いしばりながら防壁の修復に意識を向ける。涙が溢れてきた。先ほどから今の今まで、一度も目を瞑っていなかったようだ。当たり前だ。そんな暇などない。火の渦は飽きることなく、狂ったように防壁を叩き続ける。

 長い……! あと何秒だ……? 俺は気づく。防壁に酷く薄くなっている箇所がある。――修復が追いついていない! 意識を分散させろ。それでいて、繊細に魔力を注ぐんだ。魔力の歪みは、防壁の決壊に繋がる。落ちついて、各箇所に、均等に、魔力を注ぐんだ!

 流れていく思考が、ふいに滞った。

 意識を分散させ、繊細に、各箇所に、均等に、魔力を注ぐ?

 果たして、そんなことができるのか?

 自らを疑ってしまった瞬間だった。

「あ……」

 今まで防壁に注がれていた意識が散逸してしまった。

 光の防壁は、音もなく塵と化した。

 剣を構える暇もなく、両手で身を庇う。

 ――しかし、そこに吹いてきたのは灼熱の業火ではなく、ひりつくような熱風だけだった。

 顔を上げる。目の前にあるのは、荒野と化した大地と赤髪の魔王のみだった。

「フフ……耐え切ったか。しかし再び魔法を展開する余裕はないと見た。死ね!」

 魔王がこちらに手のひらを向けた。

 それだけだった。

「……何故だ。何故魔法が発動しない」

 魔王しょうじょは何度も手のひらを閉じたり、開いたりしている。しかし、何も起こらない。

「使い切ったんだよ。辺り一帯の魔素マナを」

「は?」

 乾ききった喉で俺は喋り続けた。

「いくら魔王と言ったって、体内から無尽蔵に魔力が湧いてくるわけじゃない。大気中の魔素マナをタンク代わりにして、暴力的ともいえる魔力量で魔法を行使する。これがお前の魔法が馬鹿みたいに強い理由だ。――最も、お前自身は意識してその力を振るってたわけじゃないみたいだがな」

「馬鹿め! 魔力がなくとも、我は魔王!」

 赤髪の魔王は剣を構えようとした。しかし、猛烈な剣戟を振るった時と違い、その腕は震えていた。

筋力強化バフなしにその体格で両手剣が使えるわけないだろ」

「う、うるさい!」

 焼き焦げた地面を踏みしめながら、魔王の元へ歩いていく。

「もう、終わりなんだ」

「終わっていなどいない!」

「終わりなんだ」

 俺はポーチから魔譜スクロールを取り出した。

「これは俺が今までの研究成果の全てを応用して作り上げた魔譜スクロールだ。と言ってもここに書かれているのは呼び出しの術式だけ。連携リンクされた術式の本体は聖堂の書庫に収められた二千枚の魔譜スクロールに記述してある」

「な、何なんだ!」

 俺と魔王との距離があと一歩というところまで縮まったとき、彼女は決死の表情で剣を振り上げた。しかし、その大ざっぱな一太刀を躱すのは、あまりに簡単すぎた。そのまま足をかけて、彼女を転ばせる。

っ!」

「悪い」

「え?」

扉を開く魔法アザー

 虚空に魔譜スクロールを押し当てると、何もなかったはずの空間が『開いた』。

 開かれた空間には、ドア一枚ほどの大きさをした真っ暗な平面が顕現している。

「これしかなかったんだ。俺が一人だけでここまで来たのは、全部、このためだったんだ」

 赤髪の魔王が立ち上がろうとしながら言う。

「な、何を言ってるの――ひぁっ!」

 俺は彼女を抱きかかえた。

 そして――。

 真っ暗な扉の中へと、放り投げた。

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