第11話
魔王ナラクデウスの現在の根城は、ヴェナントの繁華街にあるこの閉店した宿屋だ。
「おれたちがこの店に来て、もう一か月は経っちまったか。あー、こればかりはやってらんねえ。月あたり銀貨五枚で返済できたとしても、借金が消えてくれるのはいったい何年後になるんだか……」
考えたくもなかった。ナラクは窓辺に腰かけて、朝の表通りを行き交う住民たちを眺める。
この店に立ち寄ろうとする冒険者がいないのは、ただ入り口に〝閉店中〟の看板が下げられているからではない。この古びた宿屋がかの魔王の根城であることは、領主直々の通達によって、今や町の住人たちにとっても周知の事実となっていた。無用な衝突が起きないようこの一帯を巡回する憲兵の姿は、夜明け前ですら見ることができる。
「……いち、にい、さん……たくさん。むー、ミュゼにもわかりません。……はむはむ」
本日の朝食は、固いライ麦パンを薄切りにしてバターで焼き上げ、目玉焼きを添えただけのものだが、カウンターについたミュゼは美味しそうに口もとへと運ぶ。先の大戦後に豊かになったヴェナントでは孤児院で配給される貧困食の類だが、彼女がさっき消し炭にしたものよりはましな焼け具合だ。それに、もともと食にこだわりの薄い娘だ、なにせ吸血鬼なのだから。
「ったく、あのクソ領主め。たんまりカネ持ってんなら、せめて住む家くらい無償提供しやがれっての。いくらウチのミュゼがすげえポテンシャルを秘めていようが、活動資金が足りなけりゃ、クソ領主プロデュースの上流アイドルども相手に最初から負け戦じゃねえか――なんて、さすがの魔王さまでもぼやきたくもなるわ」
食費のことは、まあいい。ただアイドル活動には、潤沢な資金が必須なのは事実だ。芸術王ラパロが直々にプロデュースする噂のヴェナント代表アイドルたちは、言わば国家事業ともいえる予算が投じられていると聞く。レッスン施設や機材環境だって段違いの規模だろう。
そう、そもそも闘技場戦争とは、武力紛争を回避するための国際ルールなのだ。小国ヴェナントが他の強豪国とやり合うための近衛騎士団こそが、くだんの代表アイドルたちであって。
そんな連中が跋扈するアイドリア・クラウンという戦場で、自分はどうすればミュゼを勝たせてやれるのだろうか。
「……でもでも、ミュゼだっておとなしく〝かませいぬ〟なんかにはなってあげないのです。アイドルとわ、みんなを元気にしてあげられなきゃ嘘、なのです」
健気にも揺るぎない意思を表明してくれるミュゼ。ミュゼ自身の潜在能力もあるが、彼女は人一倍努力を重ねてきた。富や名誉のためにではなく、彼女自身が小さいころからアイドル文化に触れ、アイドルに憧れ、そして心からアイドルを愛してきた影響だ。
「でもでも、お金ばっかりは、まだミュゼの頑張りだけではどうにもならないのです。アイドルがプロデューサーの稼ぎに頼ってるこの状況……だめアイドル……がっくり……」
「んなことは気にすんな、ミュゼはまだ軌道に乗れていないだけだって」
「いっそ、ここを宿屋として営業を再開して副収入としては、と思ったこともあります……はむはむ」
「残念だがなミュゼよ、宿屋ってのは二人ぽっちで経営できるほど甘くはねえんだ。まず従業員を雇うカネがねえ。それに仕事に追われて、レッスンの時間なんてろくにとれなくなるしな。まあ、アイドル活動を諦めて、宿屋で一旗揚げるってんなら話は変わるが……」
「――それはだんこ却下なのです! ミュゼ、アイドル以外ではたらく気なんて、もーとーないのです!」
言葉のトーンはいつもながら眠たげだが、溢れんばかりの熱意だけは伝わってきて。
「……ハハ、ミュゼよ、お前も言うようになってきたな。その調子で朝のレッスンも頼むぜ?」
言いながら、この食堂の奥を見やる。そこはテーブルが全て壁際に追いやられ、木箱を並べただけの仮設ステージができあがっていた。
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