第2話 静かなる覚醒
男が居なくなってから少しすると、イナバはゆっくりと目を開けて自分が地面に倒れこんでいる事に気づく。
「オイ、兄ちゃん大丈夫か?」
顔を真っ赤にした年寄りが、汚い顔を近づけてヘラヘラしながら聞いて来る。この辺りでは有名なホームレスであった。無視しながら起き上がると、シャツや先程倒れていた場所が血で染まっている事が分かった。
「殺人事件か何かか?まあ、だとしたら兄ちゃんが生きてるのはおかしいな。へへへへ」
無視をされたにもかかわらず、老人はめげずに近づいてくる。酒臭かった。
「大丈夫だから…すいません、ちょっとどいて」
「なんだあ、冷てえなあ」
老人を押しのけて朦朧とした意識の中、イナバは自宅に戻る。猫の額ほどの大きさの居室とバスルームしかなく、空調すらまともに動かない粗末な場所ではあったが、贅沢は言えなかった。洗面台に近づき、改めて自身の体を確認すると喉仏から胸元にかけて奇妙な傷跡が出来ていた。体のだるさを堪えながら服を着替た時、自分の皮膚に何かが引っ付いている事に気づく。砂の様な銀色の粒子がへばりついていた。
不思議に思っていた直後、銀色の粒子が皮膚から溢れ出してきた。溢れ出したというよりは、体から溶け出たというのが適切であったが、水に入れた錠剤の様に粒子が散らばって辺りを舞い、体を包んだ。慌てて振り払おうとするが、どうしようも出来なかった。しばらくすると、粒子達は体へ潜り込むようにして姿を消す。
全裸になっていた。先程まで確かにあったはずのTシャツやジーンズ、靴までもが消え失せ、一糸纏わぬ裸体が鏡の前に曝け出されている。
「何で…!…とにかく服を…」
服を着なきゃと頭の中で強く思っていると再び粒子が現れ、体を包んだ。そして消え失せた後には先程着用していた服が元通りになっている。イナバはさらに混乱した。
結局そのまま街に繰り出したイナバは、何をするわけでも無くスカーグレイブの中央、巨大なホログラムが名物となっている広場で黄昏ていた。相談をしようにも相手がおらず、家族に伝えるというのも尚更できなかった。イナバはホログラムに映し出される映像をジュースを飲みながら延々と眺め、溜息を幾度となくついてしまう。近年、各地で出没しているという未確認生物による犯罪についての報道が生物の解説と共に行われていたが、途中でヒーローアニメのキャラクターが宣伝をしている炭酸飲料のコマーシャルへと切り替わった。それを眺めていた時、イナバは自身の幼少期をふと思い出す。
(ヒーローになりたい…か)
何の番組かは思い出せなかったが、そんな夢を良く周りに言っていた事だけは覚えていた。カッコよさだけじゃない。前向きで明るい主人公の姿は自分にとっての理想だった。
「…クヨクヨしても仕方ないな」
まずは行動しようと勢いよく立ち上がった時、グシャと何かが潰れた音がした。手を見てみると、先程飲み終わった缶をうっかり潰してしまったらしい。
(そんなに力入れたつもり無いんだけどな…ちゃんと仕事しろよ飲料メーカー)
そんなことを思いながら、イナバは少し遠くにあるゴミ箱に向かって狙いを定めると、軽く放り投げた。ちょっと弱すぎたかと思ったが、缶は勢いよくゴミ箱の内側の壁面に当たり、中へと落ちていった。
「よっしゃ!」
思わず小さくガッツポーズをしながら、幸先が良いと自分に言い聞かせてイナバは立ち去る。ゴミ箱の中では、潰されたスチールの缶が街の煌びやかな灯りに照らされて鈍く光っていた。
――――気晴らしにイナバは街を歩き続けていたが、気が付くとデルモーテ通りへと足を踏み入れていた。水商売や如何わしい店舗が軒を連ねているこの通りは、犯罪の温床だと指摘されることも珍しくはない場所であった。未だに無くならない理由は、おおよそ見当がつくが。
案の定、お世辞にも人が良いと言えなさそうな者達があちこちでたむろしていた。絡まれないようにとだけ思いながら通り過ぎようとした時、道の端でビジネスマンらしい服装をした男性が二人程のチンピラに殴られていた。
「そんなあ…一杯で二十万テソだなんて、ぼったくりじゃないか!!」
「ああ?店のメニューにも書いてたろ。見なかったオッサンが悪いんじゃねえのか?」
「うう…あ!そこのお兄さん、助けて!」
「え?」
男性はヒィヒィ言いながらイナバの元へ近づき、あろうことか後ろへ隠れた。
「おいオッサン、ふざけんなよ…!」
「何だぁ?こいつの知り合いか?」
当然だが目を付けられ、二人の派手な髪型をした厳ついチンピラが目の前まで詰め寄って来る。これまでも喧嘩は何度か経験があるとはいえ、流石に相手は選んできた。イナバはどうにかしようと考えたが、それより先に胸倉を掴まれて一発殴られる。
「ちょうど良い。てめえの連れの落とし前一緒につけてもらうぜ」
「やめろよ…このっ!」
話を聞かない男達にそう言われて再び殴られようとした時、イナバは抵抗しようと腕を振り回した。自身の握りこぶしが裏拳の様にして相手の脇腹に当たり、勢いよく吹っ飛んだ。吹き飛ばされたチンピラは、付近の店に置かれていた立て看板にぶつかり、勢い余ってそのまま店の外壁に叩きつけられる。そして地面にずり落ちると、ピクリとも動かずに突っ伏していた。
「…へ?」
もう一人のチンピラも呆気に取られていたが、ハッと我に返りってから仲間に近づいた。気を失っている事を確認すると、怒り心頭にポケットから折り畳み式の警棒を取り出す。電流が流れているらしく、バチバチと音を立てており、時折プラズマらしい閃光が迸った。
「何されても文句言えねぞクソガキ…」
気が付けば既に絡まれていた男性は姿を消しており、先程の浮かれ気分はすっかり消え失せていた。だが相手が警棒を振ろうとした時、イナバはようやく体に起きた異変に気付き始めた。
(何だか…凄い遅く見える…)
スローモーションとはいかないが、相手の動きがハッキリと見えた。流れるような軌道さえも次にどこに来るかが分かり、何なら欠伸をする余裕さえあると感じてしまう程であった。振り下ろされた警棒を右に避けて躱すと、チンピラは諦めきれないのか立て続けに振るって来る。だが、当たる筈も無かった。
「何なんだよ…お前」
そうやって驚く相手に対して自分だって知りたいとイナバは思ったが、間髪入れずに攻撃が来ることが分かり、今度はやり返してみようと考えた。先程腕を振り回した時よりも優しく、力を入れずに拳を握り、躱したタイミングで相手の頬に一発パンチを放つ。
見事に命中すると先ほど吹き飛ばしてしまった男とは違って少し宙を舞い、そのまま地面に打ち付けられる。地面で呻いているチンピラを余所に、イナバは思わず両手を見つめた。あの夜に起きた出来事が原因である事は疑いようも無かったが、これが一体何なのかはてんで見当がつかなかった。
「そこの君、ちょっと話を良いかな?」
後ろから声を掛けられ、ドキッとしながら振り向くと警官が立っていた。おおよそ騒動を聞きつけてやってきたらしく、パトカーも停まっていた。付近に倒れている人影を確認しながらイナバの元へ近づいていく。とりあえず正当防衛を主張しようとイナバは言い分作りに思いを馳せていたが、突如警官が腰に装着していた奇妙な黒い機器から電信図の様な音が聞こえ始めた。一定間隔で音が鳴り続けていたが、次第にそのテンポは速まっていく。遂にはブザーの様な甲高い警報が鳴り始めた。警官の顔は強張り、右腰のホルスターに手を伸ばそうとしている。イナバは彼が自分を恐れているという事を直感で判断した。そして恐怖で高鳴る動悸を抑えつつ、背を向けて無我夢中で駆け出す。
「緊急事態発生!大至急レギオンに連絡しろ、アマルガムが出現した!」
拳銃を発砲し、警官は耳に付けている通信機に大声で呼びかけながら逃走した青年の後を追いかけた。
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