第3話【変わり始めた世界】
私達のポケットの中の携帯から、街中の防災スピーカーから一斉に響いて来たのはけたたましい音量のアラーム音だった。そして、耳を塞ぎたくなるような騒音の中、突然地面が跳ねた。跳ねた後、今度は左右に揺れ始めた。坂の下にある住宅街では幾つもの悲鳴が聞こえたし、家々の軋む嫌な音もそこら中から響いてた。
「きゃぁああああ! ムリ! 私、地震ムリ!!」
「大丈夫、ここは外だから大丈夫だから!!」
咄嗟に地面に蹲り、頭を押さえて叫ぶ幸っちゃんと、それを庇うように膝をつくケント君が見えた。私は体が硬直しちゃったみたいに動けなくて、ただただ茜色に染まる揺れる街並みを見ている事しか出来なかった。そんな中、長沼さんだけがハンディでその様子を撮っていた。そして、私はその光景を忘れないと思う。あの夕日を背にカメラを構える横顔を…。そう、興奮して口角がつりあがったあの横顔を。
移動砲台KOZAKURA
第三話 【変わり始めた世界】
(一)
「小桜、大丈夫? もうすっかり暗くなっちゃったけどお店、間に合う!?」
「…う、うん。忙しくなるのは七時くらいからだし、今から自転車こげば大丈夫。それに、今日から文化祭の準備も始まるから、少し遅れるかもって言ってあるし」
すっかり日の落ちた暗い公園の中を、私達三人は街燈に照らされて歩いた。本当なら、撮影が終わったらそのままこの公園のトイレで着替えて解散する予定だったんだけど、きっと誰もが一人になるのが怖かったんだと思う。そのまま『さよなら』が言えすに並んで歩いたんだ。自転車を押す私の手が、さっきから震えて止まらなかった。
結局、さっきの地震は、長沼さん曰く震度2とか、3くらいという事で、私達の脳裏をよぎった『大震災』と呼ぶものには程遠かった。そう、普段から日本の至る所で起きている『わりと普通の地震』だったんだそうだ。
「しかし驚いたよ、青空市って地震が無いって思ってたから」
「いやいやいや、こんなに揺れたの私だって初めての経験だよ…て、言うか…うわっ!?」
「ど、どうしたの幸っちゃん!?」
「いや、これちょっとヤバくない?」
「…え?」
「さっきの地震以外もお昼過ぎから一時間置きくらいにずっと揺れてるよ、青空市。しかも、ここらへんが震源だし!」
その言葉に私もケント君も慌てて携帯の地震速報を確かめてみると、確かにそれは幸っちゃんの言った通りだった。ただ、一番大きく揺れたのはさっきの地震の震度3が最高で、後の殆どが震度1ばかりだった。どうやら忙しく走り回っていたから、それにまったく気が付かなかったみたい。
そんな中、急に幸っちゃんがクスクスと笑いだしたものだから、思わず私もケント君も顔を見合わせてしまった。
「…ど、どうしちゃったの幸っちゃん!?」
「あのね、確かにさ、地震は怖いけれど、この群発地震が今回の災害対策シフトの元だったとしたら、いろいろ良い事ずくめじゃない?」
「ちょちょちょ、幸っちゃん。いくらなんでもそれは不謹慎だよぉ」
「いや、だってね、災害対策シフトって10年以上当たったためしがないじゃない? それがようやく当たったんだよ? この前テレビで偉い人がテレビで言ってたんだよ『当たらない予報に振り回されて大規模な疎開を繰り返すのは税金の無駄遣いだー!』って! きっと、去年疎開が無かったのもそのせいなんじゃないのかな? だからさ、今回、ほとんど被害のない小さな地震で予測が当たったのは儲けもんだよ。だって、これなら来年からもまた今まで通りに三人で会えるじゃない!?」
そう言うと幸っちゃんは、またしても鼻から息をふんすふんすって出しながら、両手でガッツポーズを作ってた。一見それはすごくお気楽な、いかにも『ハイテンションな時の幸っちゃん』って感じだったけれど、私には見えてたんだ。力強く握ってる両手が小刻みに震えているのが。そして、やっぱりケント君もそれに気付いてた様子で、強がる彼女をとても優しい目で見ていたかと思うと、静かな声で「そうだね」って言って、その手を自分の両手で包んだんだ。
お店へと続くすっかり真っ暗になってしまった田んぼの中の農道を、秋の虫が大合唱する一本道を、ポツン、ポツンと灯る街燈を目印に私は自転車を漕いだ。結局、あの後私達はすぐに解散した。…というか、さすがにあの雰囲気の中、いつまでもお邪魔虫してるのはいたたまれなくなっちゃって、慌てて『また明日!』って逃げ出すように自転車を漕ぎだしたんだ。それにしても、今まではずっと三人で一組だったのに、完全に幸っちゃんはケント君のものになってしまったのだなぁ、と改めて思うと心の中にすきま風が吹き込むようなスカスカしたもの悲しさを覚えた。ただまあ、あの仲睦まじい様子や、長年両想いなのが傍から見ててバレバレだったのに、なかなかスムーズにくっつけなかった二人を知っているから、これはこれで良かったのだ…と、後は私がこれから変わって行く三人の関係を受け止めるだけなのだ、と夜風を切ながら考えた。そして、ぽっかりお空に浮かんだ満月と呼ぶにはまだ少しだけスマートな月を眺めていると、私にもいつか、ああやって心細い時に震える手を取ってくれる人が現れてくれるのだろうか? と、ついつい考えてしまうわけで…。大きなため息を一つつき、そのあと秋の夜風を胸いっぱいに吸い込んで瞳を閉じると笑顔が見えた。それは、眩しいくらいのお日様を浴びて、私に向かって手を伸ばす爽やかな笑顔だった。
橘君は、小学校五年生の時に転校してきた。正直、転校生自体はあまり珍しくはなかったんだよ。だって、マチュピチュのラボが大きくなるにつれて、旧穂高村の端に出来た新市街がどんどん面積を増やすにつれて、私達の学校はいつだって転校生に溢れていたのだから。ただ、珍しい事があったとすれば、それは彼が移民系ではなくて、久しぶりにやって来た純日本人の転校生だったって事だったと思う。そう、たぶん最初はそのちょっとした違いとうか、違和感で気になり出したんだ。
橘君は、なんというか垢ぬけていてお洒落だった。でもね、別にわざとらしいくらいに着飾っている。っていうんじゃないんだ。いつだって普通に普段着なんだけど、とりわけ高級品を身に着けているってワケでもないんだけど、なんだか彼が着ると、そんなどこにでもある服が、すごく爽やかでおしゃれに見えたんだ。そんな彼を、クラスの男子達は『都会モンは気取ってる』って言って、最初は面白くなさそうにしてたけど、結局私と違ってイジメにあう事はなかった。なんて事は無い、彼はすごく優しくていい人だったんだ。すぐに皆の人気者になってしまったんだ。私にはそれが、不思議で不思議でたまらなかった。だって、だってだよ? あんなに皆に注目されてて、『鼻に着く』ってまで言われてたのに、私とは違って、いつだって笑ってるんだ。いつの間にか彼の周りには人が集まって来てたんだ。
『―ひょっとして、私にもそうなれる可能性があったんじゃないか?』
彼を見る度についついそう思ってしまった。そして、その度に胸が痛んだ。私は、イジメられるのが嫌で、目立つのが嫌で自分の殻に閉じこもった。じっとして目立たなくする事を選んだんだ。そして自分の外見にコンプレックスを持った。でもあの時、ひょっとしたら私には見えなかっただけで、気が付かなかっただけで本当は目の前には二股に分かれる分岐点があって、違う方を選んでいたのなら、ああやって皆に囲まれて笑っていられる『今』があったんじゃないか? そう思ったら…
…いつの間にか私は彼が苦手になった。
なんだが、不器用な立ち回りしか出来ない私に模範例を突き付けられているような気がして辛かった。辛かったけれど、気が付くと、いつもクラスの中で彼の背中を探すようになっていた。
あれは忘れもしない、六年生の時の運動会だった。『おとこおんな』と呼ばれて、小さいくせに無駄に足だけは速かった私は、クラス対抗リレーの選手に選ばれた。と、言うか、今思い出すと、あの時も幸っちゃんが、恥ずかしがって縮こまってる私をむちゃくちゃ強引に推薦した結果だったような気がする。そして、事もあろうか私がバトンを渡す相手は、アンカーの橘君だった。
本番までの体育の授業で、何回かバトンを渡す練習をした。今考えたら、その時だって沢山話し掛けるチャンスはあったと思うけど、引け目ばかり感じてた私にはそれが出来なかった。ただ、黙ってもくもくと走り、そして淡々とバトンを渡す事しか出来なかった。バトンの先、ほんの10センチ先にその手があるというのに、私にはそれがすごく遠くに感じられたんだ。そう、上手に出来てる人と、出来てない惨めな私との距離だ。
そして、当日が来た。走った。私は今までで一番一生懸命走った。もちろんそれはクラスのためってのもあったのだけど、正直、自分の中では橘君の前で無様な姿は見せたくない、これ以上負けてみじめな思いはしたくない。そんな気持ちでいっぱいだった。おかげで途中で2人抜かした上に、ぶっちぎりのトップで橘君にバトンを渡した。…ううん、渡せるはずだった。そう、なんて事ない、私はあまりに力んじゃって、バトンを渡す瞬間に盛大に空振りをした挙句に転んでしまったんだ。転がり、廻る景色の中、オレンジ色のバトンが無情にもクルクルと青い空を舞うのがスローモーションで見えた。そして、次から次へと転がる私を飛び越えるように追い抜いていく他のクラスの子達の足音と、カランコロンと転がるバトンの音がした。
「バトン! 橘君、バトンを!!!」
今思うと、それが私の初めて彼にかけた言葉だった。五年生の一学期に転校してきて、何度か班だって一緒になった事だってあるのに、まさかはじめてかける言葉が六年生の運動会での『バトン!』だとは思わなかった。そして、痛みをこらえて顔を上げた時、私は目を疑ったんだ。だって、橘君はとっくにバトンを拾って走り出しているって思ったのに、転がる私に向かって手を伸ばしているのだから。
「橘、お前ほんっとーにスゲーな! 普通、あそこから一番になるか?」
「いやぁ、偶然だよ。ギリギリだったし、正直追いつけないかと思ったよ」
リレーが終わり、橘君に向かって皆が駆け寄るのを土だらけに汚れた私は、一人、遠くから見てた。耳の奥ではまだ
『大丈夫、佐倉さん!?』
という優しい声が響いていた。そして、その時知ったんだ。ううん、気付いちゃったんだ。私がずっと彼に抱いていた『苦手』という感情は、なんて事はないただ単に『好き』という感情が裏返っていただけだったんだって。人混みの中、照れくさそうに笑っている横顔にくぎ付けになって動けなかった。擦りむいた膝よりも肘よりも、頬と耳が熱かった。、そして胸が締め付けられるように苦しかったのを私は今でも覚えてる。
自転車のカゴの中で、鞄とショップの袋が揺れていた。そしてその度にチラチラと中の赤いドレスが見えて私は思った。
『―これで私も少しは変れるのかな?
いつもより前向きになれるのかな?』
って。
(二)
お店に到着して携帯の時計を確かめると、時間はすでに七時半近くになっていた。真っ暗な田園風景の中、ガラスの引き戸からは明りだけじゃなくて、いくつもの賑やかな笑い声もこぼれてて、改めて自分が大遅刻をしてしまった事を痛感した。それにしても、この賑わい、いつにも増して忙しそう。きっとお爺ちゃんもお婆ちゃんも今頃大忙しに違いない。て、言うか、忙しいだけならいいけれど、お爺ちゃんとか機嫌が悪くて遅刻した事をめちゃくちゃ怒られちゃうんじゃないだろうか? って思ったら、そのまま引き返してしまいたくなる衝動を覚えた。…覚えたけれど、さすがにこれは手伝わないわけにはいかない…でしょうねぇ。
こっそりこそこそと、足音を忍ばせてお店の前までやってくると、私は引き戸に手をかけた。運よく皆は何かに夢中になって盛り上がってる様子。これなら、こっそりお店に入ればバレないような気がする。だけど、よくよく考えると何か様子がおかしい。だって、こういう居酒屋さんみたいな雰囲気ってウチの店にしては珍しいのだから。そう、一応は食堂ですからね、ここ。皆が皆、淡々と晩御飯を食べて帰るのが普通なのに、中から聞こえる熱狂度合いは私の記憶にはない物だった。『テレビで野球の試合でもやってるのかな?』そんな事を考えながら、音がしないように静かに引き戸を開けて、顔を覗かせる。そして、その瞬間、お店の中から大きな歓声と拍手、口笛が鳴り響いて、私はまったくもってワケが分からないまま固まってしまったんだ。
「やっと帰ってきやがった、おめでとう看板娘!!」
「おめでとう小町ちゃん!」
「凄いよ小町ちゃん! 感動した!!」
引き戸の隙間から頭だけ出してる私に、無数の歓声が降り注いだ。本当にホント、すぐにはワケが分からなかったけれど、ハイディさんの『看板娘!』という声で、何となく事情が呑み込めた。
「ハ、ハイディさん! オーディションの事、言いふらしたでしょ!!」
思わずカチンときて、カウンターで楽しそうにビールを飲んでる赤髪のお姉さんに向かって歩みよった。すると、返ってきた言葉は想像にもしてない物だった。
「ち、違うよ看板娘! あれだよ、あれ!」
ヒョイヒョイと、立てた親指で後ろを指してるもんだから、それにつられて目をやると、そのまま私は愕然としてしまった。
『スクープ映像!
十二年越しの成果、災害対策シフト的中!
長野、飛騨地方に群発地震発生!』
それは、そう書かれたテレビの情報番組で、夕焼けに染まる私達の町が揺れている映像が流れてた。そして、写ってたのはそれだけじゃなかったんだよ。そう、さっきからしっかり画面に写ってるんだよ、街を眺めている赤いドレスを着た私が! しかも、途中でアップまで入ってるし! そういえば長沼さん、あのあと凄く嬉しそうな顔で「臨時収入! 臨時収入!」とか言いながら中継車に飛び込んでた。どうやらあれは、この事だったんだと、今さらながらに納得した。
「なあなあ看板娘ぇ、ちょっとこれ見てみ?」
突然、テレビにくぎ付けになっている私の腕が突かれたから振り返ると、そこにあったのはハイディさんのスマホだった。
「…え? スマホがどうしたんですか?」
「これこれ、この検索サイトよく見てみ!」
そう言ってハイディさんがワードを入力する欄にちょいちょいっと『地震』の『地』って一文字入れただけで、欄の下には
『地震 美少女』
『地震 赤いドレスの少女』
『地震 夕焼けと美少女』
と、次から次へと検索ワードが現れた。
「いやあ、この地震のニュース、さっきまでどのチャンネルでもやってたからなあ、しかもゴールデンタイムの全国放送だぜ! いやあ、まさかこんなに早く1万円の元が取れるとはあたしも思わなかった。これは当分ネタになる、むしろ1万じゃコスパ良すぎるぞ!」
その高笑いに私はまたムっとして、思わずハイディさんの手の甲をつねってやった。すると赤い髪のお姉さんは痛がりながら
「いてててて! でも安心しなよ看板娘、あれ、化粧もしてたし、いつもと全然雰囲気違って良く撮れてたから、よほどの身内でもなきゃ、あんただって気が付かないって!」
だなんて言うもんだから、一瞬ほっとした後に、何故だかますますムカっとして、つねった手の甲をそのまま90度ばかり捻ってやった。視界の端では、赤いドレスを着た私が、風に吹かれながら揺れる街並みを眺めてた。
(三)
夜も九時が近づいて、お手伝いタイムも終盤になる頃には、あれほど賑やかだったお店にはいくつもの空席が目立つようになっていた。私はセーラー服の上に付けていた赤いエプロンを畳むと、こっそり冷蔵ショーケースからビールの中瓶を一本取り出して栓を抜き、そのままハイディさんの目の前にそっと置いた。
「…ん? どうした看板娘、あたしゃ頼んでないよ、これ?」
「…いいんです、今日のお昼のお礼です」
「お礼って、さっきのテレビで充分お釣りがくるんだぜ?」
ハイディさんはそう笑った後に小さく一つ深呼吸すると、ちょっとだけ真面目な顔を作って私を見た。
「で、どうだったんだい、肝心の撮影の方は?」
そして私は、ことの経緯を説明し始めたんだ。幸っちゃんの気まぐれで、あの後四軒もお店をハシゴして、結局最初の店に戻ってあのサマードレスを買った事。服に奮発しすぎちゃって、靴はいつものローファーだった事。遅刻しそうになって、あの姿のまま自転車で全力疾走した事。そして、結局セーラー服で撮り直しだという事を説明し始めた時、長沼さんに出されていた宿題がある事を思い出してズンと胸が重苦しくなった。
「…どうしたんだい、看板娘? 急にため息なんてついてさ?」
「いや、その、ちょっとした宿題出されてるのを思い出して…」
「…宿題?」
「そう、宿題。ディレクターさん、もう一日滞在する代わりに、マチュピチュの科学者さんを紹介して欲しいって…。でも、私が知ってる人も柳川さんくらいしかいないし、せっかく明日撮りなおしてくれるっていうのに『宿題出来ませんでした』ではなんだか行きづらくて…」
そう言って、もう一度大きなため息を溢した。そして、ハイディさんも
「科学者ねぇ…」
と、腕組みをしたその時だった、突然後ろからガラス戸が開く音がして、冷たい秋の夜風が私の首を撫でた。『おあいそ』の声は聞こえなかったから、私は新しいお客さんがやって来たのだと直感して咄嗟に厨房の中の時計を見ると、ほんの少しだけどラストオーダーの九時を回ってたし、お爺ちゃんもお婆ちゃんもここ数日のてんやわんや続きですっかり疲れ切ってる様子だったから、お手伝いごときの身分ではあるけれど、独断でお断りをする決断をした。
「あのぉ、ウチもう看板なんですけど…」
そう言いながら振り返ったその時、私は思わず悲鳴を上げそうになった。
だって、そこにはとんでもなく不気味な人が立っていたのだから。
「…ああ、そうですか… それなら帰ります…」
痩せてやつれた生気の無い声、丸まった背中、元の色が何色なのか分からないくらいに汚れてヨレヨレのジャージは所々やぶれてて、モジャモジャした髪の毛でどこを見てるのか分からないその姿は、一言で言うならまさに『変質者』だったんだよ。
…ん?
…もじゃもじゃ頭??
『そういえば、あの頭は知っているぞ?』そんな事に気が付いた時、厨房の中からお爺ちゃんの声がした。
「あ、いいよいいよ、金田一君なら構わんよ、早く席についておくれ。いつもの鯖味噌定食でいいんだよな?」
「…あ、はい、ありがとうございます…。でも、僕、金田一じゃなくて小金沢です…」
お爺ちゃんに引きとめられて、その幽霊みたいな男の人が恐縮そうにモジャモジャ頭を掻き毟ると、まるで雪が降るみたいにフケが落ちるのが見えたから、大量の鳥肌と一緒にまた背筋に寒気が走った。そして、その後、ハイディさんの
「よう、遅かったじゃねぇか太久郎!」
という声が聞こえたから、私の中で全てが繋がった。そう、いつもは白衣姿しか見た事が無かったからすぐには分からなかったけど、それはあの食べ方が破滅的に汚いお兄さんだった。
「良かったじゃねえか、看板娘!」
隣で、ほろ酔いのハイディさんが笑ってた。
「はぁ!? 勘弁してくださいよ、なんであのお兄さんが来ると私が喜ぶって話になるんですか!?」
咄嗟に生理的な拒絶感を覚えて声を荒げると、ハイディさんは空になったコップにビールを注ぎながら
「一応、あいつもある筋では有名な科学者だぜ。まあ、どの筋かはちょと言えないけどな」
ってめいっぱい含み笑いしてた。私は…嫌な予感しかしなかった。
(四)
翌日、水曜日の放課後、私はこそこそとしながら校門を出て、そのままやっぱりこそこそしながら隣にあるラボの通用門まで人目を忍んで進んだ。茂みから茂みへ、物陰から物陰へ小走りするその姿は、自分でも情けなくなるくらいに昭和のコソドロみたいだと思った。でも、でもね、こうするにはそれなりのワケがあったんだよ。
まず、一つ目は、待ち合わせしている場所と、その相手。そう、学校と隣接するラボの通用門前、ウチの学校の校門からも見える所で、長沼さんと、あの小金沢さんの二人と会う約束になってたんだから。片や、お髭にサングラス、そしてアロハシャツの怪しいお兄さん。もう一人は、見るからにバッちいお兄さん…。そんなの、どちらか一人だったとしても、『校門前で男の人が小桜を待ってた』って噂が流れだけで残り二年半もある私の高校生活が確実に消し飛んでしまうくらいの破壊力があるっていうのに、それが、よりにもよってダブルなんだから。
そして、あともう一つ…。うん、実はこっちの方が理由としては大きいかもしんない。そうそれは今日一日、学校中があの『赤いドレスの少女』の噂で持ちきりだった事。確かに、幸か不幸かハイディさんが言った通り、あれが私だって気付いた人は居なかったけれど、とにかく皆がその話ばかりしてたんだ。とくに、うちのクラスの移民系、中でもラテン系の子達は盛り上がってて、それこそいつの間にか、クラスの出し物が『アイドルコスプレ喫茶』から『赤いドレスの美少女喫茶』に変っちゃってたくらいなんだよ。ただまあ、あの子達の『私、あの手のドレスなら持ってるよ』『うちは確か、ママがあんあの持ってたと思う!』って楽しそうに話してるのを聞いていると、あとはほっといてもウエイトレスまでやってくれるような気がしてホっとしたんだけどね。ただその反面、私の個人的な心情としては、気付かれなくて嬉しかったような、悲しかったような複雑な気分だったんだ。まあ、そんなこんなで、今日一日、私は生まれ変わったように胸を張って前向きになるどころか、いつにも増してコソコソ、びくびくしながら過ごす羽目になっちゃったんだ。
背後の校門から生徒が出て来る度に私は街路樹に身を隠した。そして、一気に次の街路樹へと駆け出して、また身を隠す。幸い、確かに下校する生徒は多かったけれど、通学路とは反対のラボ側へと進む私には誰も気が付いていない様子だった。そして、何度かそれを繰り返した時、私の視界にラボの通用口できょろきょろしている怪しい男の人の姿が一度に二つも飛び込んで来た。
「小町ちゃーーん!! こっちこっちー!!!」
不意に目が合った瞬間に、長沼さんが両手を振りながら私に向かって大声で叫んだ。そして、それと同時に、下校中の皆が一斉にこっちを向いたから、私は慌ててまた街路樹に隠れた。…はみ出してた両腕は、とりあえず枝のフリをした。長沼さん、あなたは私を社会的に抹殺する気ですか?
(五)
「ほほう…、それでは開発一課さんの最新研究は、ハイブリッドの小型ガスタービンエンジンで、二課さんが特殊樹脂…と。そりゃまた凄い発明ですね、さすがマチュピチュ」
「…な、何をおっしゃいますやら。い、一課にしろ、二課にしろ夢が無さ過ぎですよ…。実用的すぎて、か、悲しくなりませんか?」
「…は、はあ。確かにまあ、ハイブリッド機構も、ガスタービンエンジンも、物自体は昔からあるっちゃあ、ありますからねぇ…」
マチュピチュからほど近い、丘の上の喫茶店。小金沢さんを長沼さんに紹介した私は、夕暮れ時までの間、メロンフロートを御馳走になりつつインタビューに同席する事になった。…なったはいいんだけれど、やっぱり専門的な話はチンプンカンプンで、さっきから出来る事と言ったら、なるべく隣に座る汚い小金沢さんとの距離が近づかないように注意する事と、メロンフロートのアイスクリームと氷の間に出来たシャリシャリしてる部分を探す事、それと、頬杖をついてカウンターの上にあるテレビを眺める事くらいしかなかった。ちょっと心配したけれど、さすがに一夜明けるとあの赤いドレスの映像はテレビのニュースでは流れてなかったんだけど、代わりにさっきから保険金殺人で身元不明の邦人男性の死体が東南アジアで発見されたとかいう物騒な話題やら、この前見た外国の飛行機墓場の痛飛行機が金曜日にはお金持ちの家に目がけて出発して、給油でセントレアに立ち寄るとかいう、わりとどうでもいい内容だったから、私はすぐに退屈を持て余しちゃったんだ。そんなこんなで結局そのまま頬杖をついて、窓から見える丘の下の街並みを眺めてた。隣では、相も変わらず魔法の呪文みたいにチンプンカンプンな言葉の羅列が聞こえてた。それにしても、小金沢さんってもっと無口な人だと思っていたけれど、これってきっとヲタク気質ってヤツなのかな、自分の専門分野についてだと随分饒舌なんだなって思いながら、聞こえる意味不明な話題を右から左へと聞き流してた。
「ところで二課さんの特殊樹脂ってのは何なんです? それも何かのマイナーチェンジなんですか?」
「…いいや、タ、タイヤですよ」
「…タイヤ!??」
「そ、そう、タイヤ。機動戦闘車専用の」
「…えーっと、機動戦闘車って言うと、ああ、あの小型の戦車ですね。キャタピラの代わりにタイヤ履いてるっていう」
「…そ、そうですそれ。総重量が20トン切ってて、C‐2輸送機どころか、ヘリでもペイロード(持ち上げ)出来るやつです。確かに、履帯(りたい(キャタピラ))で動く戦車が活躍したのなんて、もう半世紀以上昔で、状況が今とは違いますからねぇ…」
「アスファルト舗装…ですか?」
「そ、そうです。昔と違って、今では世界中が舗装されてるから履帯は不便なんですよ。路面は傷つけるし、燃費はリッター500メートルも走らないし、何よりスピードが出ない。下手したらドローンの方が早いですよ」
「でも、確か、タイヤで動く機動戦闘車って欠点がありましたよね? 大砲を撃った時にタイヤじゃ滑るからあまり大きいのは撃てないとか、そういうやつ?」
「…そうそう、だから二課は特殊樹脂なんですよ。カウンターを当てればアスファルト上で120mm砲を撃っても滑らないやつ。どうです夢がないでしょ?」
「…ゆ、夢が無いって、それってとんでもない発明なんじゃないですかッ!? ヘリや輸送機で直接目的地まで移動出来て、燃費が良くて速くって120mm撃てちゃうとか、今後の戦争が変っちゃいますよ?? じゃ、じゃあ、一課の小型のエンジンはそれ専用って事ですか!?」
「一応、その予定みたいですけどねぇ。あいつらガメツイから、下手したらエンジンシステムだけでも売ろうとかしてるみたいですよ。何せ小さいから、退役した古い戦車にもスワップ出来るだろうとか何とか…」
「ちょちょちょちょちょちょ、小金沢さん! 守秘義務、守秘義務!!」
半分、上の空で聞いてたけれど、さすがに途中から『喋り過ぎなんじゃない、この人!?』って思って、私は思わず二人の会話に割って入った。でも、当の小金沢さんは、キョトンとした顔のままで、ちっとも悪びれた様子がない。
「…い、いや、一課も二課も月曜日にプレス用の公開実験してたから、マ、マスコミはもう知ってると、お、思うよ? 機動戦闘車だけじゃなくて、自慢げにエンジンスワップした七〇年前の六一式戦車まで走らせてたからね」
「…い、いえ、そ、そこまで具体的な話は初耳です…」
「…あれ? そうだっけ?」
……ほら、いわんこっちゃない。
「ところで、先ほどから『夢が無い』『夢が無い』とおっしゃってますが、開発三課…小金沢さんはいったいどんな研究されているんですか!?」
「巨大ロボットです!」
私は突然飛び込んで来たそのトンでもワードに思わず口の中のメロンソーダを盛大に吹き出しそうになった。でも、同じく呆気に取られているだろう長沼さんを見ると、意外や意外、まるで子供のように目をキラキラさせてるんだよ。
「巨大ロボットというと、あのガムガムみたいなヤツですか!」
「いや、確かに実用的に考えると、ガムガムの十八メートルってのも大きすぎると言えば大きすぎますが、やっぱり夢を追うとなると最低57メートルは欲しいですね」
「キョンバトラーX!」
「そう! レッツキョンバイン!」
熱弁に熱弁を重ね、とうとうドモりもしないで大声で語りだした小金沢さんを見ていると、昨日のハイディさんの言葉が蘇った。そう『ある筋では有名な…』というあの言葉。あの時は『どの筋かは言えない』とか言ったけれど、それが何を意味していたのかが分かった気がして頭が痛くなってしまった。そうだ、おそらくこの人はあれだ、間違いなくマッドサイエンティストとかいうやつだ…。それにしても長沼さんも長沼さんだ、呆れるどころかますます話題がエキサイトしてるんだから。ホント、男子ってヤツは…
結局、二人の話題は盛り上がりに盛り上がり、喫茶店の窓から見える景色が茜色に染まるまで続いてしまった。その後、私達は慌てて喫茶店の隣にある小さな公園に移動して、ようやくそこで私は、プロモーションビデオのような物と、何枚かのスナップ写真を撮影される事になった。長沼さんの指示通りに動くのが難しくて、ちょいちょい挟んでくる褒め言葉が恥ずかしくて、丘の上から大声で叫ぶシーン以外はいったい自分が何をやっていたのか正直覚えてない。小金沢さんは…と、言うと、とっくにインタビューは終わったくせに、よっぽど長沼さんが気に入ったのか、それとももっと巨大ロボットの話をしたかったのかは分からなかったけれど、とにかく用もないはずなのに私の撮影に最後まで付き合ってたんだ。というか、そもそも小金沢さんまだ勤務中のはずだし、この前の合同発表会でもハブられてたみたいだから、よっぽど三課って暇なのかしら…と、思わす考えてしまったのはここだけの秘密にしておこう。
「ありがとう! おかげで良いインタビューも撮れたし、いい絵も撮れた。それに昨日の地震のスクープも何社にも良い値で売れたし、ホント、小町ちゃんには感謝しかできないよ! まあ、後は編集して朝の番組のオーディションに出すんだけれど、赤いドレスの少女はかなり巷で話題になったからねぇ、ひょっとしたらひょっとするかも知れないんで、期待して待っててよ!」
最後の最後に、長沼さんはそう言って笑った。私はドレスの映像の事を思い出して、ますます恥ずかしくなってしまった。それと、今までは撮影に夢中で思いも付かなかったんだけど、よくよく考えると、この段まで来てしまったってことは、確実に学校の皆にあの女の子の正体が実は私だったとバレてしまうのだというのに気が付いて、恥ずかしさを通り越して『もう後には戻れない…』というプレッシャーで胃が痛む想いがした。そして、私と小金沢さんは、薄暗くなった公園の前で走り去って行く長沼さんを見送った。途中、何かを見つけて手を振りながら方向転換をしたと思ったら、その先にラボの駐屯所で働いている軍人さんが歩いてた。そして、それを見ていた小金沢さんは急に面白くなさそうな顔をして
「…な、なんだアイツ。あれ、科学者じゃないじゃないか…。結局、インタビュー出来れば、だ、誰でもいいんじゃないか…」
って愚痴を溢したもんだから、私は心の中で『だって、あんな内容、半分も使えないじゃない…』って思ったけれど、さすがにそれは言えないから
「ほら、長沼さん『取れ高』『取れ高』ってよく言うから、ついでに他のインタビューも撮るんじゃないですか? 出張費を捻出するために。ほら『マチュピチュを守る日本軍!』みたいな?」
って、私なりのフォローを入れてはみたんだけど、小金沢さんから返って来た言葉は無情にも
「…じゃ、じゃあ、ますます的外れだ、ザマアミロ。だ、だってあれ、ただの管制官だから」
というものだった。
…ド、ドンマイ、長沼さん。
こうして、縮こまり、コンプレックスばかりを抱えてた私の時間は動き出した。どれくらい動き出してしまったのか、この時の私にはまったく持って想像なんて出来るはずも無かった。そう、例えるならそれは、数日後、橘君からポケをプレゼントされてしまった…くらいにとんでもない未来が私を待ってたんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます