第52話 ファントム 後編
「どうしたの?初美。なんかご機嫌じゃない?」
あの少女に会った数日後。私は古い友人、岬と会っていた。
岬は大学の頃からの友人だ。今では超一流の会社に努めるエリートと結婚している。前に会ったことがあるが、俳優と思えるぐらいカッコいい人だった。
「何か良いことでもあった?」
「まぁね」
私は笑顔で答える。私の中からあの怪物が居なくなったことは、何より嬉しいニュースだ。
「彼氏でも出来た?」
岬は楽しそうに聞いてくる。私は首を横に振った。
「……ううん。前の彼氏と別れて以来、出来てない」
「そっか……まぁ、これからまた良い出会いがあるよ!」
「……うん」
「さぁ、今日は飲もう!」
私たち二人は、昔話や会社の上司の愚痴を言いながら、数時間ほど飲んだ。
「う~ん」
「大丈夫?岬?」
「も、もういっへん、いこおうほうう」
「ダメ、今日はもう帰るよ」
私はベロベロに酔っ払った岬を肩に担ぐ。まったく、岬は昔から変わらないな。
自然と私の口から笑みが零れた。
『殺せ』
「えっ?」
耳元で声が聞こえた。それは、いつも聞いていたあの怪物の声。
「嘘、うそ?なんで?だって、だって、もう……」
食べられて居なくなったはずじゃ───。
『殺せ、その女を殺せ。殺せ!』
「いや、やめて!」
私は耳を塞ぐ。でも頭の中で何度も『殺せ』と言う声が聞こえる。
ふと、気配を感じ、横を見た。そこにはあの二本の角を生やした怪物がいる。
「あっ、あああ……ど、どうして?どうして?」
全身がガクガクと震えた。私の目と怪物の目が合う。
怪物は私と目が合うと、ニタァと嗤った。
「ごめん、岬、ごめん……」
気づけば私は裏路地にいた。足元には胸にナイフが刺さり、倒れている岬がいる。
「は、初美、どうして……」
岬はまだ生きている。それを見た私の体が勝手に動いた。上から全体重を乗せ、ナイフをさらに岬の体の奥へと押し込もうとする。
「やめて……初美……やめっ……ぐふっ」
私の全体重を乗せたナイフは、根元まで岬の胸の奥へと深く突き刺さった。
「ごめんなさい、岬、ごめんなさい……私にはどうしようもないの」
岬は口をパクパクさせ、そのまま動かなくなった。
私の中から出てきた怪物は、岬の死体を見て満足そうにニヤニヤと嗤っている。
まただ。また私はこの怪物のせいで人を、それも大切な友人を殺してしまった。
「ごめん、岬。本当にごめん」
私は涙を拭う。その時だ。
「約束を破ったな?」
聞き覚えのある声に私は全身を強張らせた。体を震わせながら、ゆっくりと後ろを振り返る。
「あ、あなたは……」
そこにはあの、『白い大蛇』の少女が立っていた。
「ど、どうしてここに?」
少女は私の質問に答えず、ただ無表情に私を見る。
「お前は約束を破った。お前は危険だ。あの人に危害を及ぼす可能性がある。だから排除する」
少女はそう言うと、私に近づいてきた。
「ま、待って!」
私は手をかざし、何とか少女を止めようとする。
「わ、私じゃない。怪物がやったの!私の中にいる怪物が私を操ってやったの!だから私のせいじゃ……」
「お前に憑いていたアヤカシは私が喰った。もうお前の中にアヤカシは居ない」
「違うの!まだいたの、私の中に怪物が……ほら、そこに……」
私は自分の隣に目を向けた。だけど、さっきまでそこにいたはずの怪物が居ない。
「……」
「さっ、さっきまで確かにそこに怪物が居たの。本当よ!」
私は少女に信じてもらおうと必死に訴える。
「きっと、私の中にまた戻ったのよ!怪物はまだ私の中にいる!わ、私の中に居る怪物は一匹だけじゃなかったのよ!もう一匹いたの!も、もしかしたら私の中には何匹も怪物が……」
「いいや。お前に憑いていたアヤカシは一匹だけだ。その一匹は私が喰った。だからお前の中にもうアヤカシはいない」
「いいえ、居るわ。私の中には怪物がいるの。今は、私の中に入っているから視えないかもしれないけど、確かに怪物は私の中に……」
「人間の中に居ようと私には分かる。お前の中にアヤカシは居ない」
「居るのよ!」
「居ない」
「くっ、だっ、だったら証明するわ!」
私は体の中にいる怪物に呼び掛けた。
「お願い。出てきて!お願い!」
私は怪物に何度も呼び掛ける。だけど怪物は姿を現さない。
「……」
少女の冷ややかな目が私を映す。
「こ、これは……そう!あなたよ。貴方を恐れて怪物は姿を現さないのよ!貴方がいなくなればきっと……」
「いくら待っても、お前の中からアヤカシが現れることはない」
少女は断言する。
「だっ、だったら誰よ。か、怪物が居ないのなら、一体誰が私を操って岬を……」
「お前だ」
「えっ?」
〇「お前だ。お前を操っていたのはお前自身だ」
少女は人差し指を私に向ける。
〇「お前には、確かにアヤカシが憑いていた。だが、お前に憑いていたアヤカシはお前を操ってなどいなかった。お前はお前自身の意志で人間を殺していた」
***
「待って、待ってよ……私が自分の意志で人を殺していた?」
少女を睨みながら私は叫ぶ。
「嘘よ!そんなはずがない!私は怪物に操られていたのよ!私は悪くない!」
怪物が言うのだ。『人を殺せ』と。そして怪物は私を操って人を殺させる。
その間、私は何もできないのだ。自分の意志で人を殺していたんじゃない。
「昨日、お前は私と会った時、操られていたのか?」
「───……っ!」
「答えろ」
「───正直に言うと操られそうにはなった。貴方のことを殺せって怪物は私に言って、私を操ろうとした。でも、必死に抵抗したら抗うことができた。だから、操られてはいない」
「では、その前は?」
「その……前?」
「私に会う少し前はどうだ?操られていたか?」
私は首を横に振る。
「いいえ、操られてはいなかった」
「ならば、何故お前は昨日この場所にいた?」
「……えっ?」
「アヤカシに操られていなかったお前は、昨日この場所で一体何をしていた?」
言われて初めて気が付いた。ここは、数日前、『白い大蛇』の少女と会った裏路地だった。
「何をって……そんなの……」
あれ?そういえば、昨日、この少女に会った時。私はどうしてこの裏路地にいたのだろう?思い出せない。
「疑問に思っていた。あの時、お前はこの狭い裏路地で一体何をしていたのだろうか?……と。そして、こう考えた。お前はこれから行おうとしている殺人のために、犯行現場の下見に来ていたのではないのかと」
「犯行現場の……下見?」
「お前は最初から、今、お前の足元で死んでいる人間を殺そうと考えていた。そのためにあらかじめ犯行現場を下見していたのではないか?」
「そ、そんな訳……」
ない。と言おうとした私の脳裏にザッと映像が浮かんだ。それは私の目線で私自身がこの場所の周囲を見回している映像だった。
同時に「この場所が一番良いかな」と言っている声まで聞こえた。
その声は……私のものだった。
「何?これ?」
眩暈を覚えた私は頭を押さえ、ふらつく。
「連続殺人犯は二つのタイプに分けられる。一つ目は場当たり的に無差別に人間を襲うタイプ。二つ目は入念にターゲットを選び、準備をしてから犯行に及ぶタイプ。どうやらお前は後者のようだな。この場所は人がやって来ることもほとんどない。犯行現場としてはうってつけだ。お前はこの場所で、その人間を殺そうと考えた。そして実行した」
「ち、違う!」
私はドクン、ドクンと高鳴る自分の胸を押さえながら少女に言った。
「わ、私は本当に怪物に操られて……」
否定しようとするが、私の中には確かにこの場所を『私自身の意志』で下見している記憶がある。
私の言葉を無視して、少女は淡々と話す。
「お前に憑いたアヤカシを喰った後、私はアヤカシを失ったお前がどのような行動をとるのかしばらく監視することにした。私の考えが間違っているのなら、お前はもう人間を殺すことはないだろう。だが、私の考えが正しければ、お前はまた人間を殺すだろうと考えた。結果、アヤカシがもう憑いていないにも関わらずお前は人間を殺した」
「ハァ……ハァ」
私は自分の胸を押さえた。少女が言葉を発する度、胸がどんどん苦しくなる。
「まっ、待って!私はいつも『人間を殺せ』って怪物の声を聞いていた。そして私を操って人を殺させていた。これは、確かよ!」
「本当にそれは、アヤカシの声だったのか?」
「えっ?」
「お前に憑いていたアヤカシは、本当にお前にそんなことを言っていたのか?」
「ど、どういうこと?」
私は少女に叫ぶ。
「それは妄想だったのではないか?」
少女は表情を変えずきっぱりと言った
「お前が聞いていたアヤカシの声、そして先程、お前が視たアヤカシ。それはお前の脳が創り出した幻……ファントムだったのではないか?」
***
「まぼ……ろし?」
「お前がアヤカシに憑かれていたのは事実だ。実際、私はお前に憑いていたアヤカシを喰ったからな」
少女は自分の頭を指で差す。
「だが、お前が聞いた声は、アヤカシのものではなく、お前が自分の頭の中で作り出した幻聴ではないか?そして、お前が言っている『アヤカシに操られる』というのもお前の思い込み。自己暗示ではないのか?」
「な、なんでそんな……」
「アヤカシに責任を転嫁するためだ」
私は目を見開いた。責任を転嫁?
「おそらく、お前は殺人に快楽を覚える人間だ。だが、同時に殺人を犯すことに否定的な感情も持っているのだろう。人間を殺したいが、罪の意識を抱きたくはない。お前は矛盾する二つの感情を抱えていた。だが、お前はその矛盾から逃れる方法を思いつく。それが自分に憑いたアヤカシを利用することだ」
少女の話を聞いて、私の心臓の鼓動はさらに大きくなった。
「殺人を犯したお前は、罪の意識から逃れるために『自分は、本当は人間を殺したくないが、アヤカシに操られているため、仕方なく殺人を犯している』という自己暗示を己に掛けた。殺人の責任は自分にはない。全てアヤカシのせいだとな。実際には、お前に憑いていたアヤカシに、人間を操る力はなかったのにも関わらずだ」
私は声を震わせながら、少女に反論する。
「でも、私は怪物を食べてもらうように貴方にお願いした。もし、貴方の言う通りなら、私が貴方にそんなことをお願いするはずがない!」
少女が私の中にいる怪物を食べようかと聞いてきた時、私はそれに同意した。それは、もうこれ以上怪物に操られて人を殺したくなかったからで……。
「確かにお前は、私がお前に憑いているアヤカシを喰うことに同意した。だが、それはあくまで『アヤカシに操られて仕方なく人間を殺している』という自己暗示のためだと考えられる。これ以上、人間を殺したくないと思っている者が、自分を操るアヤカシが居なくなることを拒否するのは、おかしいからな。だから、お前は本心では自分に憑いているアヤカシを喰われたくはなかったのだとしても、自己暗示の矛盾を避けるため、無意識に私の提案に同意した」
少女はまるで私の心を覗いたかのように話す。
「さらに、私はあの時、お前にこれ以上人間を殺すならお前を排除するつもりであることを伝えた。私の提案に同意したのは、自身の身を守るためでもあったのだろう。お前は無意識の自己暗示と無意識の自己保身のために、私の提案に同意したのだ」
「───……うっぐうっう。」
少女は、どんどん私を追い詰める。
「しかし、私がお前に憑いたアヤカシを喰ったことで、お前は自分の殺人の責任をアヤカシに転嫁出来なくなってしまった。そこで、お前は空想のアヤカシを創り出したのだろう。自分の殺人の責任を空想のアヤカシに転嫁するために」
「……───ッ!うううっ……」
強烈な頭痛と共に私は思い出す。最近殺した女の家にあった大きな鏡のことを。
私は鏡に付いた血を拭った。その時、私は鏡に映る自分の顔を見た。
鏡の中の私は……嗤っていた。殺しが心底楽しい。とでも言うように。
「そんな、私は……私は……本当に?」
違う、違う。そんなはずがない。私は人殺しなんかじゃ……。
「そして、お前がアヤカシに操られていなかったと考えられる一番の根拠は……」
『殺せ』
声が聞こえた。あの怪物の声が。
『この女は危険だ。殺せ、殺せ!』
私の中から二本の角を持つ怪物が出てきた。怪物は私の横にじっとたたずむ。
「やっぱり、やっぱり怪物は居たんだ!」
私は怪物を指差し、少女に言う。
「ほら、やっぱり居た!視えるでしょ?私の中には、まだ怪物が居たのよ!」
私が正しかった。今まで人を殺していたのも、大切な友人である岬を殺したのも全て怪物のせいなんだ!私のせいじゃなかった。
だけど少女は首を横に振る。
「お前の隣には何も居ない。お前の隣にはコンクリートの壁があるだけだ」
私は横を向く。やっぱり怪物はそこに居た。
「嘘を付くな!怪物は私の隣に居る。居るんだ!」
『殺せ!』
怪物が叫ぶ。同時に私は岬の胸からナイフを引き抜いた。ドバッと大量の血が岬の体から流れる。私はそれを無視してナイフを持ったまま少女に走った。
私のせいじゃない。全部、怪物のせいだ。妄想なんかじゃない。今、私は怪物に操られているんだ。
だから、悪くない。私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない。悪くない。悪くないんだ。
「うわああああああああああああああ!」
少女の目と鼻の先まで近づくと、私はナイフを振り上げた。
「……」
少女は無表情のまま、スッと私に向かって人差し指を向ける。
その瞬間、私は動けなくなった。
「えっ?な、何⁉」
腕を動かそうとするが動かない。足を動かそうとしても動かない。
まるで蛇に締め付けられているかのように、私は動けなくなってしまった。
「何故だと思う?」
少女は動けない私に質問した。
「お前は言ったな。最初に私と会った時、アヤカシがお前を操って私を殺そうとしたと。だが、お前は必死に抵抗したら抗うことができたと」
「そ、それが何?」
「何故だと思う?」
「えっ?」
「何故、お前はあの時、私を殺すことを止められたのだと思う?」
「……───ッ!」
少女の言葉を聞き、私は目を大きく見開いた。そうだ。どうしてあの時私は───。
「『怪物に操られている間、私は抗うことも、何もできなくなります。ただ怪物に操られるがまま、人を殺してしまうのです!』……これはお前自身の言葉だ。しかし、どうしてあの時に限って、お前は私を殺すことを止めることが出来た?お前は今まで、アヤカシに操られている間、自力でそれを止められたことが他にもあるのか?」
「そ、それは───」
ない。怪物に操られている時、私はそれを止められなかった。なのに、どうしてあの時、この少女を殺すことを止められた?
「それは今までお前が犯してきた殺人が、アヤカシの意志によるものではなく、お前自身の殺人衝動によって行われていたからだ」
少女は、はっきりと言う。
「お前が私を殺すのを止めたのは、お前自身の本能だ。私を襲ったら、自分の身が危険だとお前の本能が感じたからだ。私を殺したい殺人衝動よりも、自分を防衛する本能が勝ったからだ。アヤカシに操られていたのだとしたら、そんなことはできない。私を襲うことを止められた。それこそが、お前がアヤカシに操られていなかった一番の根拠だ」
「違う。だって今、私は怪物に操られて……」
「今、お前が私に襲い掛かったのは『アヤカシに操られていた』という自分の妄想を否定する私に対する怒りが、私への恐怖を上回ったからに過ぎない。決してアヤカシに操られているからではない」
「うわあああ!」
私は叫ぶがやはり、どんなに体を動かそうとしても、体は全く動かない。
少女は動けない私の額に人差し指を当てた。
私は「ひっ!」と、悲鳴を上げる。
「お前は人間を殺す大義名分を得るために妄想のアヤカシまで創り出した。お前はこれからも人間を殺し続けるだろう。野放しにしていたらあの人にも危害が及ぶ可能性がある。だから、私はお前を排除する」
「わ、私を殺す気⁉」》
〇「いいや、私はお前を殺さない。お前を殺すのは人間だ。お前が自分以外の人間を殺し続けたのと同じように、今度はお前以外の人間がお前を殺すのだ」
少女は私の額を人差し指で軽く押した。
「少し眠れ。起きた時にはお前は終わっている」
少女のその言葉を最後に、私は意識を失った。
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