第39話 相利共生
「おや?」
いつの間にか、倒れている猿木の傍に一人の人間が立っていた。
「お前、刺されたのか。せっかく私が見逃したというのに……『運』がないな」
その人間は刺されている猿木を見ても驚きもせず、平坦な声で話し掛けてくる。猿木は自分を見下ろす人間の名前を呼んだ。
「か、華我子……麻耶」
どうして、ここにいると考えるよりも早く、猿木は華我子麻耶の足を掴んでいた。
「た、助け……助け……て」
「殺すと言っていた私に助けを求めるとはな。『溺れる者は藁をもつかむ』という言葉はこういう時に使うのか?いや、違うな。誤用だ。『溺れる者は藁をもつかむ』とは、非常事態の時、人は役に立たないものに縋ってでも助かろうとする。という意味だったはずだ。今の状況には当てはまらないだろう。はて、では『憎いものに縋ってでも助かろうとすること』は、諺では何というのだろうか?そもそも、そんな諺はあるのか?小説に使えるかもしれないな。今度調べておくことにしよう」
華我子麻耶は全く関係ない独り言を呟く。
「助け……助けて……お願い……」
猿木は何度も華我子麻耶に「助けてくれ」と懇願する。しかし、華我子麻耶はただそこにいるだけで何もしない。
猿木は思う。こいつ、私を見殺しにする気か。
だが、考えればそれは当然のことだ。華我子麻耶───『白い大蛇』にしてみれば、ここで猿木を助けても何のメリットにもならない。自分に殺意を持つ人間など助けてもデメリットにしかならない。
猿木は必死に考える。華我子麻耶が自分を助けたくなる何かを。
「よ……米田!」
猿木は自分の友人の名前を出した。米田の名前を出すと、華我子麻耶はピクリと反応した。
(良し!)
華我子麻耶と米田がいつ接触したのかは分からない。だが、華我子麻耶は猿木のことを『お前』と呼ぶのに対して、米田のことは『あの人』と呼ぶ。
猿木を殺さなかった理由を、米田に嫌われたくないからとも言っていた。
華我子麻耶は米田を好意的に見ていると考えたが、間違っていなかったようだ。
猿木は必死に声を振り絞る。
「あ、あいつは……アヤカシを引き寄せる体質だ……いつも、私が……あいつに憑くアヤカシを封じ、祓っていた……わ、私がいなくなれば……あいつは……いずれ……い、命を落すことになる」
猿木を見殺しにすれば、米田はいずれ危険なアヤカシに憑かれた時、祓う者がおらず死ぬ。
華我子麻耶が米田のことを好意的に見ているというのなら、ここで猿木を見殺すという選択はしないはずだ。
だが、猿木の考えは華我子麻耶のこの言葉によって粉々に打ち砕かれる。
「心配しなくていい。これからは私がいる 」
「えっ……?」
無表情な華我子麻耶は、ほんの少しだけ唇の端を上げた。
「あの人に憑くアヤカシは、私が全て喰う。あの人とはそういう約束をした」
「なっ⁉」
猿木は目を見開いた。米田に憑くアヤカシを『白い大蛇』が全て喰う?それは何を意味するのか?
もし、『白い大蛇』がこれから米田に憑くアヤカシを全て喰うとなれば、米田は猿木にアヤカシを祓ってもらう必要はなくなる。
つまり、米田は猿木を必要としなくなるということだ 。
猿木は、米田が自分を必要とする以上、どんなことがあろうと最後には自分を許し、自分の元に戻ってくると思っていた。
だが、米田が猿木を必要としなくなった場合、米田には猿木を許す理由がなくなる。
「私は二つの食事を取らなければならない。一つは『この娘』の体を維持するための食事、二つ目は私自身の食事だ。『この娘』の食事は普通の人間のものでいい。だが、私自身の食事は今まで通り、アヤカシを喰う必要がある。」
憑いている人間『華我子麻耶』の肉体を維持するための食事と、アヤカシである『白い大蛇』としての食事。その両方が必要だと『白い大蛇』は言う。
「例え、『この娘』が満腹な状態であっても私が空腹ならば私は他のアヤカシを喰う必要があり、反対に私が満腹な状態であっても『この娘』の体が空腹なら、『この娘』に食事を取らせる必要がある。面倒くさいことだ」
人間のエネルギーを吸うアヤカシならば、そんなことをする必要はない。だが、『白い大蛇』は憑いた人間からエネルギーを吸うことができない。
だから、人間と『白い大蛇』。二つの食事を取る必要がある。
「私は『この娘』の体から離れられない。だからアヤカシを喰う場合、『この娘』の体ごと獲物に近づく必要がある。だが、人間の体は素早く動くことができない。『この娘』に憑いてから、獲物との距離を詰める前に、逃げられることが多くなった。以前に比べ、狩りが非常にやりにくい」
だが、と『白い大蛇』は続ける。
「あの人がいれば、私は獲物を探す必要がなくなる。あの人が獲物を引き寄せてくれれば、私は苦労せずに獲物を喰うことができる。あの人も私がいれば、死ぬ心配はなくなる。あの人の存在は私の利益になり、私の存在はあの人の利益となる。つまり───」
私とあの人は『相利共生』の関係となる。
別種の生き物同士が同じ生活圏内で暮らすことを『共生』という。特に相手と自分、双方に利益のある共生を『相利共生』という。
「あっ、あああっ……」
華我子麻耶は足を掴む猿木の手をそっとはがした。
「お前がここで死んでも、お前を殺したのは私じゃない。私があの人に嫌われることはないだろう」
華我子麻耶は、猿木の耳元にそっと囁く。
「お前はもう、いらない」
そう言い残し、華我子麻耶は猿木の元から離れていく。
「い、嫌だ……置いていかないで……助けて……」
猿木は必死に手を伸ばすが、その手はもはや届かない。
不意に猿木の体から痛みが消えた。代わりに凄まじい寒気が襲う。
「うううっ……うううっ……うう」
体温が失われ、指を動かすことすらできなくなる。
やがて、寒気さえも猿木の体から消えていく。体の感覚そのものがなくなり掛けていた。意識も、もうすぐ消える。
それは二度と目覚めない眠り───「死」を意味していた。
(嫌だ……嫌だ。怖い。怖い。死にたくない。嫌だ。嫌だ。助けて、助けて、父さん、助けて……助けて……父さん助けてよ……イヤだ……いやだよ……死にたくない。死にたくないよ。)
猿木は必死に手を伸ばす。
「よね……だ」
最後に猿木は自分の友人の名を呼んだ。大切な友人の名前を。
だけど、この場に彼はいない。伸ばした手を優しく握ってくれる人間は誰もいない。
体から力が抜ける。伸ばした手が血だまりの中に落ち、ピチャと跳ねた。
そのまま猿木の意識は真っ暗な闇の中に消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます