種子島

北城 真

第1話 壊れた日常

 毎朝のルーティンも、つい忘れてしまうってことあるよね。オレのルーティンは、登校前にアレルギーの薬を飲むことと、内ポケットにお守りを入れることだったんだけど、…今日は、両親が早朝から出勤したり、授業で使う柔道着を用意しなきゃいけなかったりして、慌てて高校へ行ってしまったんだ。でもこんな些細なことが、これまで平和だったオレ、児玉心日こだましんかの日常を破壊してしまうなんて、この時は夢にも思っていなかったんだけど…




「今日はグループに分けて、団体戦やるぞお。」


 柔道担当教師の佐川が、各グループのメンバーと組み合わせを書いた紙を広げた。


 生徒全員が畳一畳分くらいの紙の周りに集まり、それぞれの所属を確認した。


 心日の名前はCグループにあった。グループのメンバーが集まり、順番について話し合うと、心日は全員一致で先鋒に決まった。身長は185センチと高いが、63キロと軽量な上、柔道があまり得意ではなかったためだ。心日にしても、あまり強いやつが出てこない先鋒はありがたかった。


 試合が始まると、武道場がざわついた。Dグループの先鋒が、インターハイ確実と言われる高橋だったからだ。


「先生、高橋が先鋒って、おかしいですよ。」


「心日がびびって漏らしちゃうから変えてください。」


 高橋は、身長こそ心日と同じくらいだったが、体重は倍近くの120キロはあった。心日にとっては、いかにケガをせずに終わらせるか。それしか考えられない相手だった。


「これも作戦だからな。Dグループそのまま行っていいぞ。」


 佐川先生の無情な言葉と共に、団体戦はスタートした。


大外おおそとかけるから、怪我するなよ。」


 高橋も相手のけがを心配してか、決め技を心日に予告してきた。しかも試合開始直後には、両手を広げて心日に突き出し、釣り手(右手)引き手(左手)ともしっかり組ませてくれた。心日も負けを覚悟して、高橋と組んだ。


「シンカ!瞬殺でもいいから、きちんと受け身とって、けがするなよ。」

「抱きついてでも、高橋の体力そいでくれよー。次鋒の俺のために頑張ってくれー。」


 Cチームの応援とも冷やかしとも思える声が、聞こえてきた。


 相四あいよつになった心日は、違和感を覚え始めていた。組む前には、高橋のことを熊か関取かと思っていたが、いざ組んでみると意外なほど彼の強さが伝わってこなかったのだ。本当に強い相手は、組んだ瞬間に分かるものだというが、120キロもある柔道選手とは思えないほど軽く、そして動きも遅く感じられた。


「そろそろ技かけるから、バッチリ受け身をとれよ。」

 心日の体を前後に揺さぶりながら、高橋がささやいた。これも相手にけがをさせないための配慮だった。


 高橋は、心日の体を引き寄せ、技に入った。武道場が静まり返り、全員が高橋の技を期待して凝視した。しかし体が宙に浮いたのは高橋だった。120キロの体は大きな弧を描き、畳に打ちつけられた。それはあまりにも大きく速い背負い投げだった。


 グシャ!


 首か肩の骨が折れる音が心日に聞こえ、高橋は力なく倒れた。


「栗田!職員室行って、救急車呼んでもらってこい!」


 高橋の異常を察知した佐川先生が指示を出したが、恐ろしさのあまり悲鳴をあげるものや、高橋の様子を見ようと集まってくる生徒がいて、武道場は騒然となり、授業はそのまま終了した。



 教室に戻ると、心日の周りに人だかりができた。


「どうやったんだ、心日!」


 親友の日下くさかも聞いてきた。


「分からない…体が勝手に動いて…でも、どうしよう。死んだりしないよな。」


 心日自身、とっさに体を動かした結果起きたことであり、信じられない展開であった。心日は体が震え、高橋が死んだのではないかという思いで、頭がいっぱいになった。そしてしばらくは居ても立っても居られない気持ちで落ち着かなかった。




 帰り際、担任から「高橋は首の骨を折って、全治1ヶ月だ。」と知らされた。気の毒だと思ったが、回復可能だと聞いて、正直安心もした。そして、試合中の出来事だと自身に言い聞かせて、今日のことは忘れようと心がけた。


 心日は、複雑な思いで、1人バスに乗り、家に向かった。


 帰りのバスはいつも通り満員で、心日はつり革を持って立った。そこへ、ガタイの良い2人の高校生が入ってきて、心日を挟みこむようにして立った。2人は心日に肩を押しつけながら言った。


「ちょっと付いて来いよ。」

「次のバス停で降りろ。逃げるなよ。」


 2人とも柔道部の2年生だった。その顔つきから危険を察知した心日だったが、逃げることも叶わず、言われた通りにバスから降りた。降りるとすぐに、両側からガッと肩をつかまれ、身動きも取れないまま、人影のない高架下まで連れてこられた。


 2人は、心日の体をコンクリートの壁に押しつけ、涙目になりながら、大声で訴えてきた。


「お前、高橋先輩がどんな思いでこれまで練習してきたか分かるか?」

「お前のせいで、予選も出られなくなっただろうが。」


 骨折するかと思うほどの圧力が心日の肩にかかってきた。こんな事をされたら、いつもならビビって体の震えが止まらなくなる心日だったが、今日の心日は違っていた。恐れも震えも感じず、むしろ、理不尽に訴えてくる男2人に対する怒りだけがこみ上げてくるのだった。


 心日は2人の腕を持って押し返し、睨みつけて言った。


「高橋はなあ、そりゃあ気の毒だと思ってるよ。でもなあ、試合中のことだろ。お前らみたいに、人気のない所に呼んで、何かしたってわけじゃねえ。それにな!さっきからオマエオマエって、お前ら2年坊主だろ。えらそうにするんじゃねえぞ。」


 心日は自分でもこんな挑発的なセリフが言えるのが不思議だったが、もし目の前にいる重量級の2人が掴みかかってきても、今なら100%負ける気はしなかった。


「なんだあ、先輩に聞いてたのと違うなあ。おれら相手に反抗してきたぞ。ちょっとビビらせれば土下座でもするかと思ったけど、バッチリケジメ取らせてもらおうか。」


 涙目で訴えていた2人が、怒りをあらわにして心日に近づいてきた。2人は目を合わせると、挟み込むようにして、掴みかかってきた。心日にはその動きが遅く、まるでスローモーションのように感じられて、簡単に払いのけた。1人目を足払いで倒し、2人目は後頭部を掴んで地面に叩きつけた。


 2人は心日の予想外の反撃と、戦い慣れているようにさえ見える余裕たっぷりの姿に一瞬たじろいだが、次の心日の言葉が、2人の怒りと闘争心をさらに燃え上がらせた。


「やめとけ、そんな遅い動きだと、倒してくださいと言っているようなもんだぞ。それでも柔道やってるのか?」


 1人が心日の両腕を掴み、羽交い締めにした。


「ムカつく奴だな。だったら本気で相手にしてやるよ。」


「お前には分からないだろうけどなあ、高橋さんは、インターハイのために、必死で練習してきたんだぞ。それをお前みたいなやつに全部台無しにされて!」


 そう叫びながら、もう1人の2年生が、大振りのパンチを、心日の顔めがけて繰り出してきた。心日は、たやすく反応し、閃光一蹴せんこういっしゅう、右足を振り上げ、相手の左アゴを蹴り上げた。


 グシャ!


 強い衝撃で相手の顔面は180度回転し、巨体は吹っ飛び、頭から地面に落ちた。


 落ちた先には運悪くブロックがあり、鼻先と口を強く打ち付けた。骨が折れる鈍い音が響き、大量の血が辺りを染めた。


 心日の後ろにいた2年生は、恐れのあまり羽交い締めを解き、腰を抜かして倒れた。


「おま、おま、おまえ、なんてこと…。」


 それ以上は声を発することもできず、這いずるようにして逃げていった。


 心日も自分がやったことに驚愕した。確かに力を込めて蹴ったのだが、相手の首が回転することなど、もちろん予想していなかった。


 蹴られた相手は、確実に死んでいた。それでも信じられない心日は、病院に連れて行けば蘇生できるかもしれないと考え、携帯を取り出した。


 震える手で「緊急」をタップしようとした時、スマホの向こうに信じられない光景が見えた。


 絶対に死んだと思っていた2年生が、ゆっくりと立ち上がったのだ。


 心日は、その人間とは思えぬ2年生の行動に、我が目を疑った。血まみれで立ち上がった2年生は、180度回転した頭部を、両手で挟みこみ、バキバキと音を立てて回転させ、正面に向けたのだ。あまりのおぞましい姿に心日は吐き気を覚えた。


 心日と向き合ったそいつの瞳に黒目はなく、目の周りからは、血がにじみ出ていた。鼻は認識できないほどに変形し、ぽっかり開いた口からは泡のようなものを吹き出し、欠けた歯が何本かぶら下がっていた。もはや死人としか思えない生き物?がそこにあった。



 ♪♪♪♪♪ 目の前で起こっていることに対処できずにいる心日のもとに、母親からの着信音が聞こえた。


「心日、家に向かって逃げなさい。」


 母親(幸枝)からの突然の指示だった。母はこの状況をどこかで見ているのか、不可思議なことが続けて起きる中、心日の頭は混乱した。しかしこんな状況だからこそ、信じられるのは電話の先にいる母親しかなかった。心日はとっさに後ろを向き、家に向かって走り出した。今やモンスターのようになった2年生は、やる事も人間離れしていた。足元の大きなブロックを片手で持ち上げ、逃げる心日に投げつけてきた。10キロはありそうなブロックが、まるでドッジボールのように飛び、心日の足元で砕けた。心日はいくつものブロックをかわしながら、家に通じる広い道路に出た。


「母さん、僕がどうなってるか分かるの?」


「細かいことまでは分からないけど、あなたは今戦ってるでしょう?」


「戦ってる?正確には襲われているんだけど、…どうしてそんなこと分かるんだよ。」


「それは後で説明するから、今は逃げて。」


 後ろを見ると、ブロックを持った2年生が、すごいスピードで追いつこうとしていた。


「うわ!」


「どうしたの?」


「今、変なのに追いかけられて、…追いつかれそう。」


「心日!あなた力をセーブして走ってるでしょう。かまわないから全力で走りなさい!運動会でかけっこするみたいに…。今のお前なら短距離走のペースで何キロだって走れるはずだから。」


 心日はその言葉を信じて、大きく腕を振って走った。


 ぐんぐん離れていく2年生を確認しながら、まるで100メートル走の時のようなスピードで走り続けた。心日は、自分でも信じられないほど、スタミナが切れることなく走り続けた。家までのおよそ4キロの距離を、息も切らさずに…。



 家に着くと、両親が揃っていた。


「父さんまで、どうして…。」


 ドンドンドン!


 親と会話する間も無く、2年生が家にたどり着き、ブロックを持った手で、リビングの窓ガラスを叩いてきた。顔中血だらけになった高校生が、狂ったように窓ガラスを破ろうとしている。そんなありえない光景を見ても、心日の両親は落ち着き、表情1つ変えなかった。


「あいつなんなんだよ。母さんたち知ってるんでしょ?電話だって、変だよ。」


「あいつらは、操られている死体。私たちは餓鬼と呼んでいる。」


 幸枝は最低限のことしか教えてくれなかった。


「それって、ゾンビと同じじゃあ…。それに呼んでいるって、…私たちって、何だよ。こんなの普通じゃないだろ!」


 父親(和久)が、心日を落ち着かせようと、肩をさすりながら話した。


「そうだ。普通じゃない。だけどこれが現実だ。しかも奴のことをゾンビと呼んでもいいが、映画のゾンビのような緩慢な動きはしない。死体だから疲れないし、力をセーブすることもしない。むしろパワーもスピードも人の限界を超えた動きをする。うちは防弾ガラスだから割れないが、普通のガラスならとっくに割れている。…そしてやつらは、首をはねるまで、動き続ける。」


 和久は、心日から手を離すと、左手に日本刀を持ち、1人でリビングを出た。


「心日は母さんとそこにいろ。」



 しばらくすると、窓や壁を叩く音が止んだ。和久もリビングに戻り、幸枝に言った。


「どうやらあの一体だけのようだ。もっと集まる前に、心日を逃がす。いいか。」


 幸枝はお守りを心日に渡し、抱きしめた。


「これは持っておいて。…行くよ、しんちゃん。…必ず守るからついて来るんだよ。」


 心日でなく、小さい頃に呼んでいた『しんちゃん』という呼び方で語りかける母親に安心感と強い愛情を感じた。聞きたいことは山ほどあったが、まずは逃げることが最優先なのだということも、心日は理解した。


 両親は玄関に向かい、心日も続いた。


「開けるぞ。」


 和久は幸枝と心日の顔を見た後、体で扉を押し、ゆっくりと開けた。


 和久は、開けた扉を背にして、辺りを見回した。門扉もんぴの周りに異常はなく、幸枝と心日に出てくるように手招きした。…その時、


 ドン!


 餓鬼が屋根から飛び降り、和久の正面に立った。


 餓鬼に、もはや人間の面影はなかった、制服を着ていること以外は、人というよりは、獣に近かった。さらにその動きも人ならざる者、人外という言葉がぴったりと当てはまる個体に変わり果てていた。


 飛びかかる餓鬼に、和久は刀で切りつけた。刃先が胸をかすめたが、痛みを感じない餓鬼は、そのまま突進し、100キロはある巨体をぶつけてきた。和久の体が、心日達に覆いかぶさるように飛ばされた。心日の上に倒れた和久は、その目を見て言った。


「心日は、母さんについて行け。絶対に捕まるな。」


 和久はスッと起き上がると、再び刀を構え、餓鬼に向かっていった。精神一刀せいしんいっとう、餓鬼の右腕を突き刺し、切断した。幸枝は、心配そうに父親を見つめる心日の腕を持ち、玄関を抜けて走り始めた。


「父さん、血をはいてたよ。」


 心日の言葉を打ち消し、励ますように、母親は力強く言った。


「心配しなくていいよ、心日!父さん、餓鬼なんかに負けないから。」


 心日は、それでも心配でたまらなかったが、今はどうすることもできなかった。




 右腕を失った餓鬼は、和久には目もくれず、心日を追いかけようとした。


「行かせはしない。」


 和久は後ろから斬りつけ、1振ひとふりで餓鬼の首をはねた。


「後ろから斬る卑怯者、なんて言わないでくれよ。背中を見せたお前が悪いんだからな。」


 首をはねた和久の刀には、大量の血が付いていた。


「餓鬼に成り立てだったか。…しっかり成仏するんだな。」


 和久は、首をはねた相手の成仏を願いつつ、大きく血振りをし、刀を鞘に収めようとした。

 しかしその時、後方から感じるおぞましいほどの邪気に危険を感じ、再び刀を握り直した。


「やはり、こいつだけで終わらないようだな。」


 ゆっくりと後ろを向くと。小柄な高校生くらいの少年?が立っていた。肌は透き通るくらい白く、瞳はブラウントパーズのように透き通っていて、少女のようにも見えた。だが、その外見とは裏腹に、和久はこの少年からただならぬプレッシャーを感じて後退りした。


「彼はもう行ってしまいましたか。」


 少年はつまらなそうに呟いた。彼には、まるで和久が目に入っていないかのようだった。


「きさま、ただのバンパイヤではないな。」


 和久の警戒する姿を見て、その少年は目を細めながら言った。


「ただの忍者だと思っていたら、相手の力を見極める程度の能力はあるようですね。」


「きさま、いったい…。」


「ホホホ、力は感じ取れても、わたしのことは分かりませんか?けっこう有名人なのですがね。残念です。…でも、結局あなたに名乗っても仕方ありません。なぜならすぐに死ぬのですから。」


 和久は両手の人差し指と中指を額の前で交差させた後、両手を地面に置いた。


「久しぶりに見ますね。そのポーズ。あなたは何を憑依できるのですか?」


 少年は首を傾け、見下すように言った。


「すぐに行こうと思っていましたが、いいでしょう、面白そうなので遊んでやりますよ。」


 和久に近づこうとする少年の足下から、透明で霊気を浴びた無数の腕が現れ、体に絡みついた。


「ほう!なるほど良い人選です。これで追っ手の足止めをしようという計画ですね。…しかしこの程度では。」


 男は絡みつく霊気をいとも簡単に振りほどき、和久に近づいた。和久は何かを決意したかのように刀を鞘に戻し、身構えた。


「思い出したぞ。…きさまジェロニモだな。まさか、お前ほどのやつが、いきなり現れるとは。」


「意外でしたか?正直な方ですね。わたしは単独で動いているのでね。動くのが速いのですよ。」


 和久はジェロニモに突進し、両腕で体を挟んだ。


「おやおや、男にしがみつかれても嬉しくありませんね。それにこの力、…河童ですか。…人選は正しかったのですが、役不足です。もう終わらせましょう。」


 男は和久の腕を振り払い、左胸を殴りつけた。和久の心臓が一瞬止まり、体は宙を舞った。


 体を地面に打ち付けられた和久は、一瞬気を失ったが、足をふらつかせながらも立ち上がった。


「そのまま寝ていた方が、楽に逝けたと思いますがねえ。」


 ジェロニモは、容赦なく和久に連打を浴びせてきた。


「知っていますよ。河童は防御力も高いということ。…でも、もうこの男から離れなさい。」


 強烈な一打が和久のアゴを捉え、憑依していた河童が離れた。


「どうしますか?守り神も去って行きましたよ。」


 もはやボロボロの体になった和久は、腰に刺した短刀を抜いた。


「フッ、遊んでくれてありがとよ。今頃本宗ほんしゅう(伊勢神宮)がお前を探知しているはずだ。残念だったな。」


 そう言うと、短刀を己のこめかみに突き刺し、一気に貫いた、


「忍者という奴は変わりませんね。死んでなお、情報を隠蔽する。これでは脳内検索もさせてもらえませんね。」


「でも、久しぶりに楽しめましたよ。」


 ジェロニモは、和久の死体を足で転がし、確実に死んだのを確かめてから、空に消えた。






 心日と幸枝は高速道路が見える歩道橋に来ていた。


「ここから飛び降ります。後ろから私に抱きつきなさい。」


 10mはありそうな高さを飛び降りる、しかも母親に抱きつくという行為に、心日は躊躇した。


「何を恥ずかしがってるの。早くしなさい。」


 幸枝に叱られ、慌てて後ろから抱きついた。今は考えている場合ではないのだ。


「行くよ。」


 幸枝は歩道橋から飛び降りた。…いや、正確には高速を走っているトラック目掛けて、空を飛んだと言った方が正しい。まるでハングライダーでもやっているかのように、風に乗り、ゆっくりと大型トラックの荷台に飛び移った。


「ふうー、これで一安心というところかしら。」


「母さんたち、一体どうなってるの?今とんだでしょう。」


「飛んだんじゃない。落ちただけ、ゆっくりとね。」


 幸枝が、心日が小さい頃好きだったバズ・ライトイヤーのセリフのように答えるのを聞いて、心日は少しだけ心がなごんだ。しかし、…それも束の間、


 ドン!


 1人の男が、トラックの上に降下してきた。


 トラックはその衝撃で蛇行し、上に乗っていた心日と幸枝は振り落とされそうになった。運転手には、荷台で何かが転がったくらいに感じたのかもしれない。そのあとも停まることなく走り続けた。


「探しましたよ。」


 ジェロニモが、ふらつく2人の前に現れた。幸枝は相手の力を瞬時に察知し、青ざめながら心日の前に立った。


「まさかあなたが現れるとは。」


「さっきの男より物覚えが良いようですね。喜んでいただいて光栄です。」


 幸枝は震えながら心日の腕を握り、前を向いたまま語りかけてきた。


「心日、あなただけは助けたい。命に代えてでも。」


 心日にも、母親が何かを覚悟していることが分かった。


「何言ってんだよ。母さん!さっきみたいに飛べばいいでしょう。いっしょに逃げようよ。」


「だめ!黙って心日、いい?私が死んだら、一人で伊賀に向かって。今のあなたなら、逃げるくらいはできるはず、私と父さんのために必ず生き延びて。」


 幸枝は心日にそう告げると、全身から炎を上げ、そのままジェロニモに突進した。幸枝の炎はジェロニモに移り、大きな火の玉となった。


 炎に包まれた2人は、トラックから転げ落ちた。転がり、後方の車にぶつかりながら、炎はさらに燃え上がった。炎の中に母親の影がかすかに見えたが、心日には、どうすることもできなかった。


「母さーん。」


 心日の叫びは、車の爆発音に消えた。たくさんのブレーキ音が鳴り、数台の車が衝突し、炎上した。


 トラックがカーブを曲がると、心日には高く上がった煙すら見えなくなってしまった。


 己の無力さを感じ、絶望した心日は、脱力し、トラックの上に仰向けになった。


 上空を見ていると、一点、影のような物が見えた。心日には、それがジェロニモだと分かった。点はやがて大きくなり、心日のそばに降りた。予想通りジェロニモだった。ジェロニモの衣服は焦げてなくなり、鋼のような肉体を晒していたが、傷らしきものは、どこにもなかった。


「あの女は炎が好みだったようですね。私は義理がたいので、もっと強い炎で灰にしてやりましたよ。」


 心日は恐怖と怒りで体が震わせながら、立ち上がった。


「なんですか?何を震えているのですか。冗談はやめてください。」


「一体なんなんだ!いきなりやって来て、母さんを殺して!」


 心日は全力でジェロニモを殴った。何発も殴った。手の皮がむけ、拳は血だらけになってもやめなかった。


「母さんを返せ、母さんを返せ。」


 ジェロニモは防御することなく、顔で胸で腹で全て受け止めた。しかし一滴の血も流さず、傷も負わず、ただ何かを疑うような目で、心日を見ていた。


「なんですか?それは。」


 ジェロニモは心日の繰り出すパンチを指一本で止めた。そしてその一本の指だけで心日を弾き飛ばした。


 心日の体はトラックの荷台の端まで飛ばされた。確実にトラックから落ちるところを、疾風のごとく移動したジェロニモが、胸ぐらを掴んで止めた。心日の顔は恐怖で引きつった。


「おかしいですね。これではまるで…」


 言いながら片方の手を心日の額に当ててきた。そしてジェロニモが訝しげ《いぶかしげ》な表情をし、つぶやいた。


「なんですか、あなたの記憶…」


 掴んでいた手を離し、何かを考えているようだった。心日はあまりにも大きな力の差に、愕然とし、動けずにいた。


「フッ…伊賀者もよく考えましたね。これで私はあなたの仇というわけですか。いいでしょう。このままお逃げなさい。あなたがどうなるか、しっかり観察させてもらいますから。」


 ジェロニモの足元に小さな魔法陣が現れ、吸い込まれるように消えていった。


「お味方が来てますよ。また会いましょう。」


 心日は立っていられなくなり、その場に座り込んだ。



 ジェロニモが消えて数秒後、心日の目の前に2人の人間が現れた。2人とも高身長で、モデルのような容姿をしていた。そんな不思議な光景を目にしても、心日はもう驚かなかった。あまりにも非現実的なことが目の前で起きたため、心日の感覚は麻痺していたのだった。


「遅かったようですね。」


「四郎を捕まえられると思ったのですが、やつも感知能力がありますからね。」


「彼はどうします?」


「面倒ですが、うちで飼いますか。六文銭ろくもんせんに狙われてますからね。」


 2人は、心日を見ながら訳の分からないことを話していた。


「おい、へたり込んでないでついて来なさい。」


 白いコートを着た男が、手招きした。


 いきなり現れた人間についてこいと言われても、行くはずがなかった。しかも相手は、何もないところから出現して来たのだ。

 心日が動かずにいると、赤いダウンを着た男が心日を指差した。


「おしゃべりしている間はありません。強制的に連れて行きましょう。」


 心日の体は宙に浮き、男たちに引き寄せられた。


「残念ですね。真実が突き止められると期待してきたのに。」


 3人の姿は、何もなかったかのように、トラックから消えた。

















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