ショートショート
暁 筆辰
第1話 《幽体離脱》
この若い男はいつも思い悩んでいた。
生きていることが幸せなことだと多くの人が語るが、それが真実なのかどうかを。
物心ついてからいままでの人生で、生きていてよかったと感じた瞬間は何度かあったが、その数よりも生きているのが苦しくて今すぐに投げ出してしまいたいと思う瞬間のほうがずっと多かったと男は感じていたのだった。
人それぞれに幸福の価値観がある。この男の場合、それが他人よりも少しだけネガティブなのかもしれなかった。
そんな男がある日一枚のチラシを拾った。
そのチラシの文字に男の興味は強く惹かれたのだった。そこにはありきたりな書体でこう書かれていた。
"幽体離脱クリニック"
男はこれと決めたら揺るがない性格だった。男はすぐさま給料を握りしめて、電車を乗り継ぎチラシの示す場所へと向かった。
何気ない街並みの中にそれはあった。日当たりの悪い路地に面し、少し錆びた看板と特徴のない白い建物。ほんの少しの違和感はその看板の文字だけであろう。
恐る恐るといった動きで男がドアを開けると、小太りの白衣を着た初老の男が受付らしきところの椅子に座っていた。
「これはまた、お若いお客様ですね。幽体離脱にご興味がおありですか?」
穏やかな声で尋ねられ、少し戸惑いながらもはいと返事をすると、
「そうですか。それではこちらをどうぞ。」
渡されたのは"幽体離脱説明書"と書かれた紙と同意書であった。
「質問があれば、遠慮なくどうぞ。」
二枚の紙にはややこしいことなど書いてはいなかった。説明は以下のようなものである。
・幽体離脱とは、魂=幽体が肉体を離れること
・幽体は物体に干渉できない
・幽体は幽体に接触できない
・一度幽体になると、幽体は二度と肉体に戻ることはできない
同意書にはただ一言"私は自己の責任において幽体離脱を行います。"とだけ書かれていた。
男はその紙を眺めて長い時間考え込み、いくつか質問をすることにした。
「幽体になった後、なにか…化け物のような姿になったりするのでしょうか?」
「いいえ。人は人の姿形のまま幽体になります。」
「他の幽体…例えば、動物の幽体に襲われたりしませんか?」
「いいえ。幽体は幽体に接触できませんので、襲われることなどありません。」
「幽体になる時って、痛いんでしょうか?」
「いいえ。痛みはありません。肉体から幽体が抜け出ていくだけですから、肉体を傷つけたりは致しません。」
「どうやって幽体を肉体の外に出すのですか?」
「詳しくお話しすることはできませんが、微弱な電流で精神と肉体との接続を切り離し、マイクロ波を使って幽体を肉体の外に押し出すのです。」
男はあれこれ質問してやがて気が済むと、同意書にサインをして、よろしくお願いしますと申し出た。
そして最後に、
「二度と肉体には戻れませんが、本当によろしいんですね?」
と尋ねられ、男は快く頷いたのだった。
男は手術の際に患者が着せられる服に着替えさせられ、歯医者のように自動で倒れる椅子に座り、その時を待った。
何の変哲も無い天井を見上げ、男はゆっくりと考えていた。
愛なんて必要なかった。
お金なんて必要なかった。
命なんて必要なかった。
何もかもが失うことの恐怖を生み出す。
いつか、生きて手に入れるもの全てが恐怖に変わるように感じたあの瞬間からずっと、一途に思い続けていたのかもしれない。
男は生きることから解放されたかったのだ。
「それでは始めます。よろしいですね?」
男は目を閉じることでその声に応えた。
「良い旅を…。」
その言葉を最後に男は新たな世界へと旅立った。
そしてすぐさま後悔したのだった。
幽体になった男を待っていたのは、生きることからの解放という名の自由などではなかった。意識を持ったまま身動きも取れず、ただただ幽体同士のおしくらまんじゅう。この星の地上から大気圏、いや、もしかしたら宇宙の果てまでも幽体で埋め尽くされているのでは無いだろうか。感じるのは四方八方の人混みならぬ幽体混み。人も動植物もその毛の一本、葉の一枚すら自由に動かせぬほどの密度。それぞれの幽体は説明通り接触してはいない。幽体を覆う薄い膜のようなものが反発し合い、お互いを遠ざけようとしているからであった。しかしお互いを遠ざけようにも、そのための空間が存在しない。それもそのはず、過去から現在に至るまでありとあらゆる生命の幽体がこの世界に存在していたのだから。
もう二度と自由に動き回ることなどできない。そう悟った男は、戻ることのできない我が愛しの肉体を思うのであった。
『これなら…生きていた時のほうが、ずっと自由だったなぁ…。』
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