4:八雲さん

俺には好きな人がいる。


向かいのマンションに住んでいるその人は、まるで15歳で時が止まったかのような愛くるしい顔に、吸い寄せられるような色気を醸し出す。


今日も会えないかな、とぼんやり考えながら家の前の通りに着くと、向かいのマンションの階段を下りてくる足音がした。気持ちの悪いことだが、足音だけで、俺にはそれが誰だか分かった。


「あ、新くん。今、帰り?」


「うす」


八雲さんは、いつもと変わらぬほわほわとした笑顔で、小さな手を振ってくれた。


「八雲さんはー、これからお出かけですか? その、スーパーとかに?」


「あれー! なんでスーパーに行くってわかるの??」


明らかに部屋着とわかる服装に、エプロンをしたまま。誰でも分かりそうだなと思うが、それはあまりにも素っ気ないから言わない。それに、八雲さんにエプロン・・・神。


「なんとなくですよ。またなにか買い忘れたんですか?」


「そうなのー。 カレー作ろうと思って玉ねぎ切っててね? 炒めてる途中になんとなーく冷蔵庫開けて気づいたの」


「カレー粉でも買い忘れました?」


「うん。あとお肉とー、にんじんと、ジャガイモも!」


想像の上すぎる。カレー作ろうと思ってカゴに玉ねぎだけ入れて会計したんかこの人。可愛い。


「それはまた、盛大に忘れましたね。」


「だから急いで買いに行かなきゃって思って! 思い立ったが吉日!」


八雲さんは財布を両手で顔の前に持ってくると、照れながらにこっとほほ笑んだ。


八雲さんに終始見とれていて気づかなかったが、ふと背後のマンションを見ると、なにやらもくもくと煙が漏れ出している窓が見えた。2階の真ん中・・・、八雲さんの部屋だ。


「八雲さん、あのー」


なぜかカレーの話から昔インドに卒業旅行に行った八雲さんのトンデモ珍道中の話に切り替わっていたこの可愛い生き物に、やっとの思いで話を遮り煙を指差しながら問いかける。


「急いで買い物はいいんだけど、火、消しましたよね?」


「・・・、きゃー!!!!」


一瞬の沈黙の後小さく飛び上がると、八雲さんは慌てて引き返し、階段を駆け上がった。いちいちリアクションが昭和の漫画だ。可愛い。


などど思わずにやける口元を堪えていると、八雲さんは階段の途中ではたと立ち止まり、振り返って言った。


「そうだ! 新くんカレー食べにくるー?」


無邪気な、心の底から悪意のない笑顔だった。いいからはよ火を消してくれ、と思いつつ、俺はいつも通り答える。


「いえ、うちで作ってると思うので、遠慮しておきます!」


「そっかー! またねー、ありがと!」


そう言って、八雲さんは部屋の中へと消えていった。


ドアノブを回す左手の薬指には、いつも通り指輪が輝いていた。

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