第70話 おやすみまで

『トントン』

 ソファーを叩き、座る場所を指定してくる美麗。そうして促されるままに腰を下ろそうとした蒼太だったが——

「あっ!」

 なにかを思い出したような声を上げ、早足でキッチンに向かっていた。

「なっ、逃げんなし!」

「逃げてないって。ただ美麗さんが使う護身用の包丁忘れてるから。もしも時にすぐ対処できるようしておかないと……って、そのもしも、、、の相手は俺なんだけどね……」

「……」

 キッチンの下段を開けて鞘つきの包丁を取り出した蒼太は、しっかりと刃先にはまっていることを確認して美麗の元に戻る。

 そのままハサミを渡すような要領で美麗に手渡した。


「ねえ……あんたってコレで刺されたい願望でもあんの? そうとしか考えられなんだけど」

「なっ、なんでそうなるの? 普通みんな刺されたくないと思うけど。料理してる時に数回、指を切ったことあるけど本当痛いし……」

「じゃあコレ持ってこなくてよかったじゃん。アタシは何もいわなかったんだから……」

「それは俺のためを思っていわなかったんでしょ?」


 美麗は昼間に心の内を話してくれた。

『俺を頼る時は二人っきりの時だと思うから、もしそこで俺が変なことしてきたら遠慮なく使ってくれていい』

 そして、美麗に護身用の包丁を渡した時、

『あんたが辛いじゃん……。アタシが頼ってるのに、あんたを信じきれてないとか……』

 蒼太がどう思うのか、そこをしっかりと考えていたことを。


「それを知ってるから、知らんぷりするようなことして甘えることはしないよ。結局それは美麗さんのためになるようなことじゃないし、守る術を持ってなかったらその不安でいろんな影響が出るかもしれないしさ?」

「……」

「美麗さんは俺のことを気にしてくれてるけど、信じてもらえてなくても俺が傷つくわけじゃないから。だから遠慮しないで持っててよ。美麗さんにとって包丁これは命綱のようなものだと思うから」

「……わかった。じゃあホントにぶっ刺すから」

「俺が変なことをした時に、だからね!?」

「それはアタシの機嫌次第だし」

 なんて恐怖発言をする美麗は蒼太から受け取った包丁をすぐにソファーの床に置く。美麗の優しい素を知っていなければこの瞬間に震え上がっていた蒼太だろう。


「じ、じゃああんたの用も済んだんだから早く……手、ちょうだいよ」

「なんか包丁が近くにあるから切り落とす的な意味に聞こえるよね、あはは……」

「次変なこといったらぶっ刺すから」

「ご、ごめんごめん。じゃあ隣に座るね?」

「早くしてって。寝る時間なくなるじゃん」

「はいはい」

 そうして美麗が横になることを考えた蒼太は少し距離の離れた位置でソファーにお尻をつけ、次に左手の甲をソファーと接するように起き、頭の受け皿になるようにする。これで手を枕にされる準備が整った。


「はい、いつでもどうぞ」

「あんたの合図なんかいらないしっ!」

「はははっ、辛辣だ」

「ふんっ」

 暗闇に目が慣れ始める二人。ちらりと目が合った瞬間に小さく鼻を鳴らす美麗は、感情に身を任せるようにして蒼太の手に頭を下ろそうとする。

 ——が、ここで美麗は変な行動を取っていた。

 蒼太の手に頭を近づけるものの、すぐに距離を開ける。また近づけはするものの、すぐに遠ざける。

 それはまるで、手繋ぎをしたいために手を近づけるが、勇気が出ないように引っ込める。そんな様子。


 そうして再び目があった矢先である。

「ん、んん……ッ」

 口を強く結び、唸り声を上げながら蒼太を睨みつける美麗だ。思い通りにならないこの思いを八つ当たりしているのである。


 なぜ昼間はできていたのにこうなってしまっているのか、その理由は至極単純。

 昼間は寝ぼけていたからこそ簡単に手を枕にしていたが、今回はしっかりと意識がある状態でその行動を取ろうとしているわけである。今まで蒼太に対して行ってきた蓄積や美麗自身の過去がある分、それは人並み以上に難しいこと。


「……大丈夫。怖くないよ美麗さん」

 瞬時に状況を悟る蒼太はソファーにつけた手をゆっくりと近づけてみるが、そんな簡単にはいかない。

「ッ! こ、こここ怖いわけないし! こんな手! ただの手じゃん!」

 威勢のいい声を出しながらも体は後方に引いてしまっている美麗なのだ。この手が一つの武器になることを美麗は知っている。昔、幾度いくどとなく頰を叩かれた部位であるのだから……。


「って、は、早くソファーにつけてってば! その手!」

「あの様子じゃもう一回手をつけたとしても枕にしてくれないと思うんだけど」

「す、するし!」

「あ、あれ。なんでだろ。俺の手、なんか動かせなくなった」

「はぁ!? そんなわけないじゃん!」

「そんなわけある」

 誰がどう聞いてもおかしな言い分だが、これは意地悪をしているわけでもなく、正当な理由があってのこと。

 

「俺はスマホをいじってるから、今動かせないこの手は美麗さんの好きなようにしていいよ」

 まずは手を触らせることで少しでも慣れさせようとしているのだ。

 そして、慣れさせるためには段階とやりやすい環境が必要。見られながらでは遠慮をするだろうとスマホを取り出して適当にニュースを漁り始める蒼太。

 暗闇で扱うスマホ。液晶の明かりが蒼太の顔を照らしていた。


 そうして、手を出されたまま完全に放置される美麗になる。

 戸惑うように周りをキョロキョロし——ギロリと不満そうに睨みを利かせるが、それでもこちらを見向きもしない蒼太にはなにも伝わらない。


 完全に手持ち無沙汰になる美麗だが、頭には先ほどいわれた『好きなようにしていい』の言葉がよぎっていた。

 手の枕をしてほしい美麗にとってその行動を取らざるを得なかったのだ。


「……」

 美麗はうさぎのぬいぐるみを左腕で抱き、右腕を蒼太の手に伸ばしていく。

 距離が徐々に縮まり——人差し指を伸ばす。そうしてちょこんと触れたのだ。


「……」

「……」

 蒼太の手のひらに美麗の指が乗っている。この光景を見る人間は二人がなにをしているのか理解できることはないだろう。


「ねえ、普通に触ったし」

「触ったね」

「ざまみろ」

「その意味はわからないなぁ……」

 ちょっと自慢げの美麗。怖がっていないと見栄を張りながらも見せつけているのだ。

 また、一度触れられたのなら『怖い』……の気持ちは緩むもの。

 美麗は人差し指で蒼太の手をなぞったり、親指と人差し指で皮膚を摘んだり、どんどんとスキンシップ大きくしていく。

 そうして、最終的には蒼太の手を両手で触れるほどになる。

 月丘げっきゅう(手刀)の部分をぷにぷにと揉んだり、手首を持ってぷらぷらさせたり、やりたい放題の美麗だ。


 この間、ずっと手を動かさなかった蒼太。美麗にとってその手は模型のようなもの。

 ——もうできる、と思ったのだろう。

 美麗はソファーに足を伸ばし、布団を体にかけながら横になったのだ。


「そろそろ寝る?」

「……うん。だからスマホ消して。明るいと眠れない」

「了解」

 蒼太が美麗に付き合っている理由は安心して眠らせるため。邪魔になるようなことはしないとすぐにスマホの電源を落とす。

 その3秒後のこと。

 蒼太の手を自ら降ろした美麗は、ほっぺをつけて枕にしたのだ。この瞬間、蒼太の手のひらいっぱいにおもちのような頰の感触が伝ってくる。


「変なこと考えてたら許さないから」

 明かりのないこの部屋でぼそりと釘を打ってくる美麗。

「わかってる」

「触ってきても許さないから」

「もちろん」

「あと、あんたの手暑すぎ。うざい」

「そ、そればっかりどうしようもないなぁ……」

 こうして文句を垂れる美麗だが、暑いならその手から顔を離せばいいだけのこと。素直になれていないだけなのだ。


「……ねえ」

「ん、どうした?」

「明日……じゃなくてもう今日か。あんたが朝ごはん作る時にアタシを起こしてよ。絶対」

「え? それだとかなり早起きになるけど……。6時前だよ?」

「あ、あんたにこんなことしてもらってるところなんか誰にも見せられるわけないじゃん……。こんなところで寝てても違和感も持たれるし……」

「あははっ、なるほどね。わかったよ」

「このこと……秘密だから。バラしたら……包丁で刺すから」

「もちろん」

 ドスの効いた声ではない。恥ずかしさを我慢しているような声。威圧感はなにもなかった。


「い、いいたいことはそれだけ。じゃ、もう寝るから」

「うん。おやすみなさい、美麗さん」

「……あ、あ……あんたも」

「うん、ありがとう」

「ふんっ」


 その息遣いが会話の最後だった。

 しっくりくるように蒼太の手のひらに頭を置き直した美麗は動きを止める。

 完全に寝る体勢に入っていた。


 誰にも気づかれはしないが、美麗の口元はほんのりと緩んでいた。


『……あ、あ……あんたも』

 と、かなり不器用であったがずっとできていなかった『おやすみなさい』の挨拶が蒼太にできていたのだから……。




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