第148話◇後悔
遠峰朝日には後悔していることが二つある。
本当は数え切れないくらいあるけれど、中でもその二つは特別重く、幸福を感じている時にそれを冷ますように脳裏をよぎるのだ。
一つは、妹を一人にしてしまったこと。
アサヒは姉だから、妹を助けるのは当たり前。
壁の外になんて行かせられない。必死で父を説得し、それが上手く行った。
最終的に残れたのは、ツキヒが優秀だったからだろう。
でも、一人にしてしまった。孤独にさせてしまった。
あの家が、ツキヒにとって『いいもの』ではないと分かっていたのに。
他にどうしようもなかったとはいえ、自分は姉としての義務を果たせない場所へ行ってしまった。
正直に言えば、逢いたくなかったのだ。
妹がどうなってしまったか、目にするのが怖かった。
だが、彼女の行動や兄の言葉で、アサヒは気づいてしまった。
名前を変えても、髪色を変えても、形を変えても、妹は妹のままなのだと。
二つ目の後悔は、家族と初めて顔を合わせた日のこと。
アサヒは、怖かった。だって壁の外だ。両親は魔獣を討伐しに壁の外へ向かっていたが、アサヒは四歳児の、それも魔法のない《|偽紅鏡(グリマー)》。
死の概念を理解していなくても、恐怖はある。
部屋の陰にさえ魔の物を連想してしまう年頃だ、怖くないわけがない。
そんな時、ヤマト民族の集落がアサヒを受け入れてくれた。
でも、アサヒはもう限界で。
母の死、父に捨てられたこと、妹との別れ、壁外の恐怖が重なり、心がぐちゃぐちゃで。
優しくしてくれた彼らにあたってしまった。
夜鴉、なんて。
言ってしまった。自分の中に流れる母の血を貶めるような、酷い言葉を吐いた。
家族のことを好きになっていくごとに、罪悪感が増していく。
兄妹を見下す多くの人間たちと、自分は変わらない。いや、変わったというだけで、元は同じなのだ。
改悛を周囲が認め、過去を許しても。
己だけは分かっている。
変わる前の自分もまた、削り取れやしない己の一部分なのだと。
「アサヒ」
大会予選決勝、当日の朝。
自室で着替えを済ませると同時、部屋の外から兄の声。
「着替えに遭遇するには十秒遅いですよ、兄さん」
「着替えが済んだだろうなと思って声を掛けたんだ」
「妹の着替えの気配を探っていたんですか? ま、まにあっく……。でも兄さんがそういうのがいいというのなら……直接的なものより想像力を掻き立てるシチュエーションが好みだというのであれば、わたし、頑張りますよ!」
「今日も元気そうで何よりだ」
兄の苦笑する気配。
「えぇ、アサヒちゃんは兄さんさえいれば元気溌剌です」
ベッドサイドチェストの上に置かれた雪華の髪飾りを手に取る。
胸元に引き寄せて、それから唇に近づけた。
正直、アサヒはヤクモのことが嫌いだった。彼だけではないが、彼は特に嫌いだった。
だって、笑ってる。
壁の外で、同じくらいの歳の男の子。
怖くないわけない。ちゃんと震えている。
なのに自分に優しくするのだ。
それじゃあ、アサヒだけが弱いみたいだ。
魔獣に襲われた日。
本当に、もう終わりだと思った。
なのに、その子は。
自分は冷たくて、酷いことを言って、拒絶したのに。
それでも助けに来てくれた。
勝てないって分かっているのに、死ぬにきまっているのに。
なんでだろう。
――『兄ちゃんが妹を守るのは、当たり前のことだよ』
その瞬間、アサヒは救われたのだ。
自分を肯定された気になった。
ツキヒが壁の内にいられればそれで良かった。
自分のことなど、父を説得する時は考えなかった。
そのことで、自分は壁の外へ放られてしまった。
でも、そうだ。自分は当たり前のことをした。
上の者が下の者を守る。先に生まれた者が後に生まれた者を守る。当たり前の、とても、当たり前のことを、自分はちゃんと、出来た。
そう、言ってもらえた気がした。
死なせてはいけないと、そう思った。
彼の思う当たり前を全うさせねばと。
魔獣に鍬で立ち向かう、馬鹿で無謀で浅慮で――勇敢な男の子。
その手を握ったから今の幸福があり、その手を握ってから後悔の日々が始まった。
温かく苦しい幸せ。
その苦しさに負けずに済んでいるのは、きっと幸福の方が上をいっているからだろう。
「アサヒ、朝食が冷めてしまうよ」
「妹の気配を完全に把握している兄さんなら、今最愛の妹がうるとら乙女ちっくな行動に出ていることもご存知でしょう」
「……その雪は口に含んでも解けはしないよ」
「照れ隠しですか? というか本当に動きを把握してるんですか?」
それとも自分の行動は予測しやすいのだろうか。
兄のことだ、どちらも有り得る。
用途の通りに髪に留め、鏡台で角度を確認。ばっちり可愛いと自画自賛してから、リビングへ向かう。
「おはようございます兄さん。やだなぁ『今日も世界一可愛いよ』だなんて嬉しいですもっと言って下さい」
「言ってないよ。ラピスみたいなこと言わないでくれ……」
「他の女がよくてわたしがダメなんて理屈が通りません」
「そうだね。そもそも良しとしてないけどね」
「妹は特別扱いすべきです」
「たまに思うけどアサヒと僕の常識にはズレがあるんじゃないかな」
「ならば兄さんが合わせるべきです。この超・妹理論に」
「……朝食にしようか」
「くっ……」
比較的最近兄が習得した、『無視』である。辛い。
モカとも朝の挨拶を交わし、食卓につく。
「アサヒ……大丈夫かい?」
「なにがです?」
平然と返したつもりだったが、不自然だっただろうか。
「今日の対戦相手は、きみの妹だ」
いや、そうか。そもそもこの兄ならば気づいて当然。自分さえ家族として認め、助けようとしてくれた少年なのだ。
姉が妹と戦い、勝利しなければならない状況なんてものを、気遣わないわけがない。
かつて彼女の有用性を父に説いた自分が、その無能で以って天才である妹を打倒せねばならない。
それはオブシディアン家における妹の価値の破壊、あるいは暴落を引き起こすだろう。
いや、そんなことはこの際どうでもいい。
最も気がかりなのは、妹の拠り所を壊してしまうこと。
ツキヒは天才で、聡明で、努力家だ。
それを自分たちが倒してしまえば。
見下していた姉に、己の価値を否定されることになってしまうのではないか。
そのことを思うと、どうしても胸が痛む。
嫌われていても、アサヒにとってツキヒは可愛くて自慢の妹だった。
今も、昔も。
けれど。
いや、
「大丈夫ですよ、兄さん。第一、あの子が姉に勝ちを譲ってもらって喜ぶと思いますか?」
「有り得ないね」
「はい。あの子が妹だからこそ、手は抜けない。それに、わたしはあなたの刀ですよ」
兄の目を見つめて言うと、彼は柔らかく微笑んだ。
「そうだね。済まない、無駄なことを言った」
「いいえ、気遣いは嬉しいものです。その気遣いを男女関係の発展的な意味でも見せてくれればもっとよいのですが」
「はやく食べないと遅刻してしまうよ」
兄はニッコリと笑ったまま、無視した。
辛い。
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