第90話◇落下
その日の昼休み。
雨がすぐにやんだおかげもあって、いつもの木陰での食事となった。
模擬太陽は雨が降ろうと雪が降ろうと変わらず燦々と輝く。
ヤクモはまだ悩んでいることがあった。
はむ、とバゲットサンドを口へ運ぶ。
モカが作ってくれたもので、たっぷりの野菜と、甘辛いソースの掛かったチキンが挟まれている。
ぎゅむっ、と口の中で味が広がっていく。
んまい。
大変美味なのだ。それでも、思考はまだ今日の朝に囚われていた。
「ヤクモさま? もしかして、お口に合いませんでしたか?」
気づけばモカが不安げにこちらを見ている。
ヤクモの表情が変わらないので、我慢して食べていると思ったようだ。
「ううん、今日もすごく美味しいよ。ありがとう」
微笑む。上手く出来た筈だ。
モカは安心したように笑ってくれた。
「人間たらしの兄さんのことですから、どうせあの《
あからさまに不機嫌アピールをしつつ、アサヒが言う。
人間たらしの部分はさておき、彼女の言うとおりだ。
ロータスの《
戸惑いと、希望の欠片、それを押し潰す程の――深い絶望。
一体どれだけの間、地獄のような日々を過ごしていたのか。
ヤクモは壁の内であれば、壁の外よりもマシだと思っていた。少なくとも肉体面ではその筈だ。
けれど、精神面ではどうか。
いつ死ぬとも知れぬ恐怖、闇夜の恐怖、家族を失う恐怖と苦しみ。
けれど、壁内にもあるのだ。苦しみはある。
人権は無く、肉体精神両方を乱暴に扱われる。
その苦しみは、何と比べるまでもなく、あまりに重い。
「……イルミナ先輩にはラピスがいる。けど、あの子は解放されるまでロータスに従わなきゃいけない。それに……僕は彼に恥を掻かせてしまったから」
兄の罪悪感に気づいたのか、妹も怒りを萎ませる。
「そう、ですね。あのクソ野郎が赤っ恥を掻く分には痛快ですが、その苛立ちはきっと……」
少女にぶつけられてしまうのだろう。
あの賭けを成立させる為には必要な会話と挑発だったとヤクモは考えているが、その結果として一人の少女が不当な暴力に晒される。
そのことに胸が痛んだ。
何度目とも知れぬ無力感。
「気に病むものではないわ。彼の暴力性は彼の問題で、あなたには何の非もないもの」
ふわり、と背中から声。
いや、真上か。
ヤクモが上を仰ぐと、美少女が降ってきた。
バゲットサンド片手に、なんとか受け止める。
涼やかな気分になる不思議な匂いと共に、柔らかい感触。
瑠璃色の毛髪が広がり、妖しく垂れた。
「……ラピス」
「受け止めてくれて嬉しいわ、ヤクモ。あなたなら避けることも出来たでしょうから、少し不安だったの」
「それは、いいんだけど」
「そうね。それは置いておきましょう。それより、わたしのパンツはどうだった?」
――やっぱり、見せたのか。
わざわざ上から落ちてきたこともあり、見上げた時にスカートの中が見えてしまったのだ。
普段ならば触れるような話題ではない。女性の下着が見えてしまったところで、それに言及するヤクモではないのだ。あっても、不可抗力で見てしまったことへの謝罪くらいだろう。
だが、今回ばかりはそうはいかない。
なにせ、瑠璃色だったのだ。
ぱんつが。
彼女は自身の髪と瞳の色をコンプレックスに思っている。だが同時に冗談に使える程度は受け入れてもいる。
任命書をくれた日、ランチクロスと弁当箱を瑠璃色にしていた。
普段からそういった色の下着を好んで着るとは考えづらい。
わざとなのだ。
わざとヤクモに見せた。
「わざわざ穿き替えたのよ。あなたはこの色を美しいと思うのでしょう? 美しいというのは好感情の筈よね? つまり好きの類義語と解釈出来るわ。だからイルミナに用意してもらって、女子トイレで穿き替えたわ。恥ずかしかったけれど、わたしは少しでもあなたに好かれたいもの」
そう言って、彼女はヤクモの首に腕を回す。
そっと耳元に唇を寄せ、生温かい吐息混じりの声を出す。
「どう? これなら欲しいかしら?」
「――、ぐ」
ヤクモは健全な男児なのだった。
揺らがないと言えば嘘になる。
だが、流されることはない。折れはしない。
妹の目から光が消えていることとは無関係に、ヤクモはアサヒを裏切らない。
「下ろすよ、ラピス」
「……そう。これでもダメなのね」
彼女は素直に下りた。
「あ、あのですね、ラピスさん? 兄さんはわたしのものなんですけど?」
ぴくぴくと眉を痙攣させながら、アサヒが言う。
「心は奪い奪われるものよ。ヤクモがわたしに傾くなら、それはあなたの魅力の敗北でしかないのではないかしら?」
「なっ、傾かないしっ。夜雲くんはわたしにぞっこんだし……!」
動揺に喋り方が素に戻るアサヒ。
「ならわたしがアプローチを仕掛けても問題ないわね」
「目障りだと言っているのだ……!」
「ごめんなさい、あなたに邪魔だと思われても、わたしは平気だわ」
「どうしてこう、兄さんの回りには変な女ばかり集まってくるんですか、もう!」
むきー! とアサヒがスカートの裾をくしゃりと握った。
モカが「……私も、変なのでしょうか」と落ち込む。
「気づいていないようだから指摘させてもらうけれど、変な女の筆頭はアサヒ、あなたよ」
「わたしは普通です! ね、兄さん! ね!?」
思考を切り替える。
確かにあの少女を今すぐ救えないのは心苦しいが、三回戦はすぐだ。
どうにも出来ないことに気を揉むのではなく、自分自身に迫る戦いに集中せねば。
そして、可能な限りラピスのサポートをしよう。
「兄さん! なんで答えてくれないんですか兄さん! はっ、まさかわたしは……変な子だった?」
もしや本当に自分が常識的な感覚の持ち主だと思っていたのか、アサヒが愕然としている。
そのことに若干の驚きを覚えつつ、ヤクモは妹に微笑みかけた。
「客観的に判断してどんな人間だろうが、それは僕がアサヒに向ける感情には何の影響も及ぼさないよ」
にぱぁ、と妹の顔に笑顔の花が咲く。
「ふっふーん、聞きましたかラピスさん、ついでにおっぱい。兄さんのなんばーわんはえたーなるにアサヒちゃんだとぱーふぇくとに判明しましたね! ひれ伏しなさい! わっはっは」
モカがすすす、と視線を逸らす。
「そうね。兄が気遣いの末にどうにか紡いだ言葉を喜ぶあなたに水を差したくはないから、素直に祝福させていただくわ」
「なんですかその奥歯に物が挟まったような言い様は!」
アサヒが普通であるとは言わず、ヤクモの気持ちだけをなんとか伝える言い回しだったのだが、妹は純粋に愛の言葉と受け取ったようだ。
モカは言わずもがな、ラピスも情けからかそれは告げなかった。
妹だけが釈然としない様子で「はっきり言えばどうなんです!」と叫んでいる。
五色大家の嫡男と揉め事を起こしても、昼食の時間はいつものように過ぎていくのだった。
「あ、隙きあらば兄さんに触れようとするのはやめなさい! ぼでぃたっちは厳禁です!」
「単純接触効果を試しているの。これによれば、触れれば触れるほどヤクモはわたしを気に入るらしいわ。本当ならとても素晴らしいので、やめることは出来ないわね」
「なんですと!? 今すぐ離れなさい! 兄さんに触りまくるのはわたしです!」
妹とラピスが舌戦を交わす。
視界の端で、モカがゆっくりとヤクモに近づいてきているような気がした。
まだ食べきっていないバゲットサンドを口許へ運ぶ。
大きく口を開けて、噛み付く。
――んまい。
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