第86話◇侍女
ラピスの記憶に残る母は、いつも微笑んでいた。まるでそれ以外の表情が出来ないみたいに。
だから自分が作れる表情も、無を除けば微笑だけなのかもしれない。
ずっと笑っている母を、ずっと見ていたから。
ラピスが本家から今回の件について聞かされたのは、ヤクモ達が勲章を授与された日だ。
決定事項であるかのように一方的に告げられたそれに、逆らう気さえ起きなかった。
そんなことしても無駄だと、十余年の人生で身に沁みて分かっている。
だから、父の示したたった一つの抜け道は、ラピスにとって奇跡のようなもので。
ヤクモの答えを、正直自分は期待していた。
「……僕は」
彼が困ったような顔をして、口ごもる。
当たり前のことなのに、少なからずショックを受ける自分が馬鹿馬鹿しくて、ラピスは笑う。意識して微笑する。
「いいのよ、あなたの答えは分かったわ」
疼痛。
ずきずき、じくじく、疼くように痛む。何処が。何処か。多分、胸のあたり。そこまでしか分からない。身体の中ではあると思うのだが、身体の部位ではないように思う。
心のことを比喩的に胸の内や胸中なんて言ったりするが、それなのか。
自分は今、心が訴えかける痛みに苦しんでいるのか。
笑みは崩さない。
心優しい少年に心苦しい思いをさせたくない。
「無理な相談をしてごめんなさい。どうか気にしないでね」
自分が歩き出すと、刹那の遅れもなくイルミナが追従する。
「……よろしかったのですか」
ぽつりと、イルミナが呟いた。ともすれば雨音に掻き消されてしまう程の小声。
それをしっかりと聞き取ったラピスは、笑いたくも無いのに笑い声を出す。
「あら、あなたの方から話しかけてくるなんて珍しいこともあったものね」
イルミナは幼い頃から自分付きの
たとえば、本家がパートナー登録を解除しろと言えばイルミナは従うだろう。
「私と致しましても、お嬢様が幸福に過ごされるに越したことはありませんから」
「彼と結ばれれば、わたしは幸福になれると思うの?」
「少なくとも、劣等感は感じずに済みましょう。彼は心の底から、お嬢様の毛髪と双眼を美しいと評したのですから」
「……そうね」
その通りだ。
まだしも父側に似て生まれれば、人生は変わっただろう。
寒々しい色を持って生まれなければ、今よりも上等な人生を送っていたに違いない。
パパラチア家との縁故欲しさに群がってくる者達が、妾腹であるラピスを蔑まない筈が無い。
これから先ラピスは、嫁入りした先で絶えず我慢せねばならないのだ。
汚らわしいものを見る目を。
確かにヤクモと結ばれれば、その点は心配ないだろう。
そして、それはとても大事なことだ。ラピスにとっては。
「だからと言って、自分を救う為に彼の心を曲げることは出来ないわ」
「本気ですか、お嬢様」
「どういうことかしら?」
イルミナはしばらく黙っていた。
「愛を求める行為は、他者の心を歪める悪行ではありません」
「ならば善行とでも?」
「元より、心は奪い奪われるものと存じます」
――――。
「……あなた、わたしに隠れて恋愛経験を積んでいたの」
彼女は基本的に呼ばない限り出てこない。用事や役目が無い限り、というほうが正確か。
いつも近くに待機しているものと思っていたが、意外と男と逢引きなんてこともあったりしたのか。
「いいえ、処女です」
「そうよね」
「お揃いですね、お嬢様」
「そうね」
「散らす相手を選ぶ権利くらいは、お嬢様にも与えられるべきかと、あくまで私個人は考えます」
「脂ぎった
「人を容貌で判断なさってはなりませんよ」
まったくだ。
自分が見た目で寒々しいと判断されれば傷つくくせに、他者を容姿で判断しようなどとは。
我ながら愚かしい。
「ヤクモ様を欲する心がお有りなら、欲望の赴くままに行動されればよろしいのです。失敗した時に諦めればいいのであって、まだ何もしない内から情けを得ようなどと考えるものではありませんよ。ましてやそれが上手くいかなかった程度で手を引くとは、あまりに情けないというもの」
「あなた、侍女よね。メイド。普通、メイドは主を正論で叩きのめしたりしないものではないかしら」
「ご安心ください。私は普通ではありません」
「そうだったわね。そしてそれは私のネタよ。盗用は控えて頂戴」
以前ヤクモ達に披露したものだ。どこかで聞いていたらしい。
ともかく、非常に回りくどいながら、このメイドは自分を励ましているらしい。
「あなたはどちらの味方なの? 本家の犬のくせに」
疑念混じりの皮肉にも、メイドは顔色一つ変えない。
「首輪を嵌めたのは、お嬢様だったと記憶していますが?」
「あら、わたしが飼い主ということでいいのかしら」
「えぇ」
「証明出来る?」
「何を以って、証明されたと認めてくださるのですか?」
「犬のように鳴くとか」
「わんわん」
イルミナは無表情で犬の鳴き真似をした。猫と同じく一般人が目にすることは無い生き物だから、鳴き真似が通じる相手は限られる。
完成度はまぁ、大分低い。
「本当にするとは思わなかったわ」
「認めてくださいましたか?」
「残念ながら」
「嘘つきですね」
「知らなかったの?」
「いいえ、存じております」
「なのに鳴いたのね」
「信じてほしかったので」
無表情で、そんなことを言う。
分からない。彼女の本心が。
「とにかく、お嬢様はヤクモ様を諦めるべきではありません」
「どうせ無駄よ」
ヤクモにはアサヒがいる。
母と同じだ。
一番にはなれない。自分も。結局。そんなものだ。人生なんてものは。
纏わりつくようにして身体を重くするのは、諦観か。うんざりだ。
「よぉ、売女仕込みの色仕掛けは成功したか? なぁ、――
学舎に入ったところで、今最も顔を合わせたくない相手に出くわす。いや、待っていたのだろう。
「……ロータス様」
パパラチア家の象徴である桃色と橙色を混ぜたような色合いの毛髪と瞳を受け継いだ嫡子。
そしてラピスの腹違いの兄でもあり、同時に三回戦で自分が棄権することになっている相手。
ロータス=パパラチア。
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