第84話◇告白





 とても珍しいが、人類領域にも雨は降る。ヤクモより学のあるアサヒは首を傾げていたが、ヤクモにはよく分からない。ともかく極稀に降るのだ。


 大昔は傘なるもので雨粒を弾いて歩くのが一般的だったらしいが、今は違う。

 年に一度使うかどうか分からないそれを常備している家は少ないのだという。


 とはいえ、だ。あくまで一般的には、という話。

 領域守護者は人類の守護者。訓練生はその卵であるから、やはり特別。

 寮に貸し出し用の傘があった。


 ヤクモ達はそれを拝借し、寮から学舎へと向かう。

 とても不愉快なことに、傘を借りることが出来るのは《導燈者イグナイター》だけだった。


 ので、必然的にこうなる。


「兄さんっ。もっとくっつかないとわたし、濡れちゃいます」


「はわわ……私はやはりお邪魔では……? ぬ、濡れても大丈夫ですので、なんなら出ていきますので……」


「いや、大丈夫だよモカさん。むしろ狭くてごめんね」


 ヤクモが傘を持ち、その両サイドにアサヒとモカという位置関係。

 右にアサヒ、左にモカだ。


 さぁさぁと降る雨が、傘にぽっぽっと弾かれる。靴が濡れた地面を踏むと、ぱしゃっと水が跳ねた。

 ヤクモは平常心でいるのが大変だった。


 まさしく両手に花。密着している所為で少女達の身体の柔らかさがこれでもかと伝わってくるし、脳を溶かすような二種の薫香が鼻孔から絶えず侵入してくる。


 健全なヤマト男児としては、非常に辛い状況だった。 


 ――心頭滅却……心頭滅却。


 心を無にして動揺を押さえ込む。


「むっ、ちょっとモカ、あなたドサクサに紛れて兄さんの腕におっぱい当ててますね? 時を逃さず己の武器を最大限に利用するとは……やはり貴様、敵だな?」


「誤解ですよぅ……!」


「ええい言い訳とは見苦しい! だが残念でしたね。兄さんのすとらいくぞーんはピッタリわたし! つまり、無駄巨乳に魅力を感じる兄さんではないのです! ふっはっはっはっは!」


 アサヒに一目惚れしたという事実と、胸部の膨らみに富んだ女性に魅力を感じるということは何ら矛盾しないのだが、ヤクモは黙っておいた。


「……そうなんですか? ヤクモさまにとっても、私は無駄巨乳なのでしょうか……」


 アサヒに言われ続けたことで感覚が麻痺しているのか、平然と巨乳というワードを口走るモカだった。


「えぇと」


「兄さんは胸部から垂れ下がる脂肪の塊に欲情するような俗物ではないですよね? わたし、信じてますから」


 妹の視線が怖い。


「ヤクモさまにも無駄だと思われていたのだしたら、私、とても悲しいです……」


 うるうるとモカの瞳が潤んでいく。


 ――どう答えろっていうんだ……。


 あちらを立てればこちらが立たず。


「欲情とは違うけど、モカさんは魅力的な人だなって思うよ」


 ぱぁっとモカの瞳が輝く。

 右側から雨をも凌ぐ冷気が漂ってくる。


「もちろん、わたしには及ばないという注釈付きですよね?」


 返答を誤ってはならない場面。ヤクモは言う。


「アサヒに今まで言ってきたことを思い出してほしい。男に二言は無いさ」


 少し考え込むような顔をして――色々思い出しているのだろう――表情を緩ませるアサヒ。


「そうですね。『きみがあらゆる意味で世界一だよマイシスター』と言ってくれた兄さんを信じようと思います」


「ありがとう。それは言ったことないけどね」


 また夢の中の話だろうか。

 妹が喜んでいるのはよしとする。


 学舎の敷地内に入ったところで、知った顔を見つけた。


「おはようございます、ラピス先輩。イルミナ先輩も」


 瑠璃色の麗人にして学内ランク第九位、《氷獄》の名を冠する風紀委メンバー、ラピスラズリだった。


 彼女のメイド|偽紅鏡《グリマー》であるイルミナは、自身をフード付きのロングコートで覆い、ラピスに傘を掛けていた。


 《導燈者イグナイター》と《偽紅鏡グリマー》の関係は人それぞれ。

 基本的に下に見ている者が多くを占めるが、ネフレンのように質の保持の為に厚遇する者、スファレやラピスのように従者のように扱う者、ヘリオドールやロードのように保護者のように振る舞う者など様々だ。


 ヤクモ組やスペキュライト組のようにきょうだい関係というのは珍しく、トルマリン組のように恋人関係に、最近は見えるというのは極稀と言っていいだろう。

 完全な意味で対等なパートナーとして扱う者は、極少数。


 ラピスの視線がこちらを向く。

 違和感。


 いつもの微笑が無い彼女の顔は、酷く冷たく見えた。


「あら、ヤクモ。アサヒにモカも。おはよう」


 やはりおかしい。

 声が平坦なのも、どちらかと言えば声量が小さいのもいつも通り。


 なのに、違和感が拭えない。


「具合悪いんですか? いつもなら『あら相合傘? 確かそれって愛する者同士がするのよね。だとしたらわたしにも入る権利がある筈だわ、わたしの何もかもを愛おしいと言ってくれたヤクモ』とかなんとか言って、兄さんに『言ってないです』と冷たく突き離されるまでがテンプレートでしょうに」


 妹が訝しげに彼女を見る。

 確かにアサヒの言う通りだ。


 顔を合わせても絡んでこないなんて、おそらく今まで一度もなかった。


「……そうね。わたしとしたことが失態だわ。これではアイデンティティーの欠落、個性の消失、キャラクター性の崩壊、パーソナリティの震撼、非常によくないわ。この程度のわたしでは味が薄すぎて早晩みんなの記憶から消えてしまうわよね。『え? いやそんな名前だけ言われても思い出せねぇよ』みたいなことになること必至。よく指摘してくれたわアサヒ。お礼にとっておきの情報を伝授しましょう」


「急に饒舌になりましたね……まぁ、一応聞きましょう」


「胸は揉むと大きくなるらしいわ」


「なんとっ! 兄さん寮に戻りましょう今日は朝から晩までわたしの胸を揉んでいいですよいやむしろ揉むべきです完璧美少女アサヒちゃんにおける唯一の欠点がついに解消されますよなんだかんだ言って兄さんも男の子ですからね憧れはあるんでしょうわかりますよその欲望もこれからはわたしが受け止めますからねそうと決まればレッツサボリ! レッツいちゃいちゃ!」


 ぐいぐいと腕を引っ張ってくるアサヒに、なんとか抗う。


「先輩、本当に大丈夫ですか?」


「あら、妹の胸を揉まなくていいの?」


「揉みませんよ……」


 隣で「なんですと!?」と愕然とする妹は置いておく。


「そう。それはそれとしてあなたに一つ訊きたいことがあるのだけれどいいかしら」


「えぇ、まぁ。答えられないこともあるかもしれませんが」


 ラピスがヤクモを見る。

 どこか縋るように見えたのは、錯覚か。


「あなた、わたしを妻にするつもりは無い? あ、もしなんだったら婚約だけでも構わないのだけれど」


「――え」


「愛は後から育むという形で勘弁してもらいたいわ。何分なにぶん、時間が無くてね」


 よく分からない。

 よく分からないが、これは告白……なのだろうか。


 妹から表情が抜け落ち、モカが顔を赤くした。

 雨粒が傘を叩く。



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