第75話◇不調
朝起きたら、ベッド脇に姉の姿があった。
隣に寝ているわけではない。
車椅子に乗った状態で、上半身のみをベッドに乗せている。
あの三人の中では一番怪我の軽かったスペキュライトは、その日の分の治療が終わるや自室へと戻った。
その後、姉がしつこく休めというので従ったのだった。
「ったく、
自分と同じ、銀の髪。ただ姉だけは、光のあたり具合によっては薄紫色が混じって輝いて見える。
「……おねえちゃんをばかってゆわないで、すぺくん」
目は閉じたまま。むにゃむにゃと動く唇から察して、寝言だろう。
思わず笑みが漏れる。
「っ」
ずきり、と身体の内側が痛んだ。
位置の悪いことに、スペキュライトは魔力炉に傷を負ってしまったのだ。
腹に風穴が空いたというだけでも面倒だというのに、おかげで魔力を作ろうとすると激痛が走る。
だが、言ってしまえばそれだけだ。
姉を庇ったことに後悔は無いし、自分の傷は治るものなのだ。
姉の車椅子を見るたびに――つまり四六時中――スペキュライトは自分を恨めしく思う。
あれはまだ自分が幼かった頃。無知で、愚かだった頃。
スペキュライトは姉が大好きだった。
だってそうだ。父と母は自分に見向きもしない。食事さえ、与えられない時があった。完全なる無関心。そんな中、ネアは自分の世話を焼いてくれた。
優しくて、強い、大好きな姉ちゃん。
自分が頼れるのは姉だけで、自分が甘えられるのは姉だけで、自分を好きでいてくれるのは姉だけだった。
その所為だろう、スペキュライトは姉に対して我儘だった。
幼い自分は気付けなかった。
姉が時に暗い顔をして帰ってくること、時に身体の一部を過剰に隠して過ごしていたこと。
自分の前ではいつも優しく笑っていたから、それに気づくことが出来たのはもっとずっと後のことだった。後で思い返してみれば、というやつだ。
《
それなのに、姉はずっと笑っていた。
父と母に文句を言うこともせず、毎日必ず帰ってきた。
弟が、いたからだ。
自分なぞがいたばかりに、姉は不遇の全てを受け入れざるを得なかった。
そんなことにさえ気が回らなかった愚かで幼いスペキュライトは、とびっきりの愚かしさを晒す。
姉の『貸出』が始まってから、一家の生活水準は大きく向上した。
暮らす場所も変わった。
だがスペキュライトは、昔住んでいた家の近くにあった空き地にもう一度行きたかった。
そこでよく姉に遊んでもらっていたので、数少ない良い思い出のある場所だった。
治安の悪いその場所に、けど姉は笑顔で「いいよ」と連れていってくれた。
彼女は弟に優しかった。
柄の悪い大人達に取り囲まれた。
彼らはネアの身柄と引き換えに、両親から大金をふんだくろうと考えたようだった。
そうしなければ追い出されるとかなんとか、言っていた気がする。日々の魔力税に苦しむ程だったと思われる。
その内の一人が、《
でも剣にはなれた。
《
そのまま捕まっていれば良かったと、今でも思う。
だがその時のスペキュライトは子供で、救いようのない愚か者で、姉がいじめられていると思って。
「姉ちゃんをいじめるな!」
なんて、叫んで前に出た。
「なんだこいつ」「弟の方だろ。たまに外をうろちょろしてた」「どうする?」「放っておけ」「いや、ぶっ殺そう。一匹殺しといた方が、単なる脅しじゃねぇって伝わるだろ」「……なるほど」
そんな物騒な話がすぐにまとまってしまう程、彼らは追い詰められていたのかもしれない。
とにかく、スペキュライトはそこで死ぬ筈だった。
刃が振り下ろされる。
「スペくん!」
赤が舞った。
姉が倒れた。
赤は、姉の血だった。
大人達が慌て、取引材料が瀕死の傷を負ったことで何人かが逃げ出す。気づけば誰もいなくなっていた。気づけばも何も、スペキュライトはずっと姉を見ていたから、他を意識出来たのは『赤』の救助が来た後のことだ。
その間、姉はずっと笑っていた。
身体の半分が、斬られていたのに。
弟を安心させようと、ずっと笑っていた。
「泣かないで、スペくん。大丈夫、平気だよ。お姉ちゃん、強いからね」
顔面を蒼白にし、脂汗を浮かべ、大量の血を流しながら、それでもネアはスペキュライトの涙を優先した。手を伸ばし、雫を拭った。
そして、引く手数多だった姉の魔法は、六発限定となり。
誰も欲しがらず、両親に捨てられ、壁の外へ追放されることになった。
自分の我儘の所為だ。自分の愚かしさの所為だ。自分が、自分が、自分がいなければよかった。
でも、自分は存在する。姉の傷は治らない。誰かが彼女を使わなければ、壁の内にも居られない。
自分は、その為に存在しよう。
自分が損なってしまった姉の人生を取り戻そう。
姉は本当に凄い《
たった六発でも、姉は最強の《
姉は本当に優しい人なのだ。心が清く、強く、美しいのだ。
自分の所為で歩けなくなり、性能が低下し、誰もが姉を笑うようになった。
《
《
スペキュライトが謹慎処分となった理由である二十位への暴行も、それが理由だ。
彼の兄が、かつてネアを使っていたのだという。
彼は、あろうことか自分の前で姉を笑った。
「兄貴のお古の使い心地はどうだ? 前の方が良かったらしいが?」
姉は優しいから、それに対しても怒ることをせず。
困ったように笑うだけだった。
自分が怒らねば。
あの時の、愚かで無力な少年ではない。今の自分には力がある。
誰にも姉を笑わせない。
でも、二十位をボコボコにしても気は晴れなかった。
証明しなければ。勝つのだ。勝つ。勝って、勝って、頂点を獲る。
最強の座に至る。そうすれば必然的に、姉は最強の《
弾数なんて関係あるものか。手のひらを返して姉に背を向けた全てのクソ野郎共に知らしめてやる。
お前らが無能だったんだ。姉貴を使いこなせないお前らが、無能だったんだ。
自分が姉の価値を証明する。
頂点に立って、かつて姉を見下した者達全てに、姉を見上げさせる。
正規隊員になり、姉に裕福な暮らしを送らせる。
姉が手に入れる筈だったもの、自分の所為で失われたものを、全て取り戻し、差し出す。
そして。そして、認めさせる。
姉に、スペキュライトはもう大丈夫なのだと。心配しなくていいのだと。
もう、姉は自分のことを第一に考えていいのだと。
愚かな弟の為に笑わなくていい。泣かなくていい。
己の好きな道を歩んでほしい。
その為なら、スペキュライトはなんだってする。
自分が珍しく好感を抱いている兄妹を不幸に叩き戻してでも、勝ちを奪う。
それが出来なければ、自分は自分に、存在を許せない。
大好きな姉ちゃんを不幸にしたままで、どうして生きられよう。
「むにゃむにゃ……スペくん、前は自分で洗えるから……もう、思春期さんめ……」
「どんな夢見てやがる、馬鹿姉」
姉の額を指で弾く。
「むがっ。か、家庭内暴力による起床っ……ひどい、ひどすぎるスペくん! ……って、もう起きて大丈夫なの!?」
ガバッと起き上がった姉は、一瞬で不安そうな顔をする。
それが、スペキュライトには辛い。
「あぁ、問題ねぇ。勝つぞ」
「ほんと? ほんとにほんとのほんとに平気?」
「そう言ってんだろ」
姉はまだ納得しきっていないようだったが、それに関して追求しなかった。
「でもスペくん、もうあんなことやめてよ。お姉ちゃん、心臓が張り裂けるかと思ったんだから」
その気持ちは分かる。
かつて、自分が体験したのと同じ感情だ。
「姉貴も、前に同じことをしたろ」
「お姉ちゃんだもん! 当たり前のことでしょ!」
「なら、逆があってもいいだろう」
「よくなーい! スペくんには幸せになる権利があるの。それを行使する前に死んじゃうなんて絶対ダメだよ」
「姉貴もな」
「お姉ちゃんはもう幸せだもん」
「どうだかな」
「最愛のスペくんが甲斐甲斐しくお世話してくれてるから快適なのじゃよ。そう!
スペくんが死んだら誰が私のお世話をしてくれるの!?」
姉は自分なりの理屈をこねて、スペキュライトに無茶をするなと諭したいらしい。
「死なねぇよ。これでいいか」
「もうお姉ちゃんを庇ったりしないと約束しなさい」
「出来るか、アホ」
「あ、あほー!? そんなひどいことばかり言う子に育てた覚えはないんだけどな!?」
「なら、姉貴を見捨てられるクズに育てなかったことを悔めよ」
「ぬ、ぬぅ……。確かにスペくんをシスコンにしてしまったのは私の所為かもしれぬ……」
馬鹿なことを言う姉を無視して、起き上がる。
痛みは表に出さないよう気をつけた。
「着替えっから出てけ」
「お姉ちゃんは別に恥ずかしくないよ? スペくんの裸なんて何度も見てるし」
「……ガキの頃の話だろうが。いいから出てけ」
「ちぇー、冷たいんだぁ。一晩中ついててあげたのになぁ」
「寝てただろ」
「ちょっとだけですー。ぎりぎりまで起きてたから。入れ替わりだったんだよ、ほんと」
「出てけ」
「冷たい!」
ぶぅぶぅ言いながら、姉がスペキュライトの部屋から出ていく。
「……勝つんだ」
あの作戦に参加したのだって、箔をつける為だ。
魔獣の群れと魔人の迎撃作戦で結果を残せば、姉を周囲に認めさせる材料になると思った。
そしてそれは、思惑以上に上手くいった。
他の者と協力してではあるが、魔人を一体討伐し、一体を撃退したのだ。
だが、代償は小さくなかった。
しかし、それはトオミネ兄妹も同じ筈。
そして、アサヒの方は《黒点群》。
勝てば、より一層姉の有用性を示すことが出来る。
ぎりぎりと軋むように痛む腹を押さえる。
「勝つんだよ」
試合は、今日。
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