第47話◇寝息




「百九十五……百九十六……」


 朝の日課である逆立ち指立て伏せをこなし、立ち上がる。


「ヤクモさま。おつかれさまです」


 どうぞ、とモカがタオルを手渡してくれる。


 モカとアサヒに一室ずつ寝室を使ってもらっている関係で、ヤクモはリビングで寝起きしていた。


 朝の日課も当然、リビングで行っている。

 モカは最初、上半身に服を纏っていないヤクモを見るたびに赤面していた。


 だが今はさすがに慣れたのか、少し恥ずかしそうな顔をするだけ。


「ありがとう」


 タオルを受け取り、汗を軽く拭く。


「朝食がもうすぐ出来ますから、アサヒさまを頼んでもいいですか?」


「うん。起こしてくるよ」


 シャツを着て、それから妹の寝室へ向かう。

 コンコンとノック。


「アサヒ、朝だよ」


 この時間まで起きてこないのは珍しかった。


 兄が女性と二人きりになることを過度に嫌がるアサヒは、いつも早起きだ。

 もう一度声を掛けてから、それでも返事が無いので控えめにドアを開く。


 顔だけ覗ける隙間を開けて、ベッドを見る。

 すぅすぅと静かな寝息を立てている妹がいた。


「アサヒ」


 呼んでも反応がない。

 寝ている時でも、ヤクモが呼びかければ即座に目を覚ますのが妹だ。気絶の場合を除き、壁の外でもいつもそうだった。


 何かが変だなと思いつつ、部屋に入る。

 幻想的だった。


 ベッドシードに広がる白銀の毛髪は銀糸を散らしたようで美しく、彼女の細い体はこうして見るとあまりに儚げ。


 触れれば、まぼろしのように消えてしまうのではないか。

 だって、こんなにも美しい存在が、尊い存在が、頼りになる存在が、自分の人生にいてくれるなんて話が出来すぎている。


 そんな恐怖に駆られて、しかしヤクモは屈さない。

 自分はしっかりと、現実を生きている。


「起きておくれ、アサヒ」


 ベッドに片腕をつき、もう片腕で彼女の肩を揺する。


「んっ……」


 アサヒの口から存外に艶めかしい声が出て、ヤクモはドギマギした。

 薄紅色の唇から、生温かい吐息が漏れる。


 妹がみじろぎし、布団がずれた。

 あどけない寝顔に、思わず表情が緩んだのも束の間。


 彼女の着ている『ぱじゃま』とかいう寝間着が露わになり、ヤクモは焦った。

 ぼたんが幾つも外れ、それによって生じた隙間から柔肌が覗いていたのだ。


 先日の告白を思い返す。

 ずっと秘めていた想いを自分は口にしてしまった。


 口にしてしまった言葉は、胸の内には戻せない。

 どうにも、自分の理性は弱くなってしまっている。


 それでも、とヤクモは自制心を働かせる。

 布団を上げて、見えないようにしよう。


「……兄さん……っ」


 切なげな響きで放たれる寝言。

 ガツンと殴られるような衝撃。


 こんなことならモカに起こしてもらえばよかった。


 ――難易度が高すぎる!


「……………………いや、待てよ」


 よくよく考えれば、やはりおかしい。

 妹は寝付きも寝起きもよいのだ。


 誰かが部屋に侵入すれば、その気配で目を覚ます方が自然。

 昨日、特別疲れるようなことをしたわけでもない。


 もし、たまたま眠りが深い日ということでなければ。

 …………。


「起きない、か。仕方ない、モカさんと二人で朝食をとろう」


 ヤクモはそうしてベッドから離れようとして。

 ガシッと腕を掴まれた。


「何故なのだ……!?」


 アサヒの叫びである。


「やっぱり狸寝入りだったね」


 呆れるヤクモを見ても彼女は悪びれもしない。


「兄さんは健全な男児でしょう!? 普通意中の相手が自分にだけ無防備な姿を見せたら、きゅんとくるものじゃあないですか。更には寝言で自分の名前を呼んでいるんですよ? もうガバッと襲っちゃってもいいくらいじゃあないですか」


「それは信頼を裏切る行為なんじゃないかなって思うんだけど」


「信頼の種類くらい見抜いてください! 友人的な信頼と、その先もおっけーな信頼は違うでしょう。わたしを見ていればお分かりでしょう! えぶりでぃおっけーですよ普通に! いつでもうぇるかむですよ!」


 優勝するまで、そういうことは我慢すると彼女は約束した。

 だがヤクモの側がそれを破ればその限りではない。


 だから彼女はヤクモに自分を襲わせる方向での色仕掛けに及んでいる。


「どうですか? 兄さん。妹のぱじゃまの向こうに広がる膨らみに興味があるんじゃないですか?」


 妖しい笑みを浮かべて、指を胸に這わせるアサヒ。


「……ふくらみ」


 首を傾げるヤクモ。


「……!? い、今のは酷く傷つきました! 膨らみなど無いと言いたいんですか!」


「ご、ごめん! そんなつもりじゃ――」


「むぅ……。兄さんがまともに褒めてくれたのって髪くらいでは……もしかして兄さん……髪ふぇちという特殊な性癖の方ですか?」


 女性が性癖とか口にしないでほしかった。

 妹は悩むような顔をしたあと、意を決したように拳を握る。


「に、兄さんの為ならアサヒちゃんはなんでもします……! こ、この髪でしたいことがあったら、なんでも言ってくれていいですからね?」


 毛先を指で弄びながら、妹が上目遣いにこちらを見上げる。

 ヤクモの手は掴んだままだ。


「ヤクモさま、アサヒさまは――はわわっ!?」


 入ってきたモカが、アサヒの表情を見て何かを誤解したようだった。


「し、失礼しましたっ。私、その、お済みになるまで外で待ってますので……!」


「モカさん、落ち着いて。アサヒの暴走だよ。いつものことじゃないか」


「愛は人を狂わせるのです。わたしに言わせれば、暴走せずして何が愛かと!」


「分かったからぼたんをしめて、手を離して、朝食を食べに出てきてくれないか」


「今日も失敗です。これはまた作戦を練り直さなければ……」


 その作戦とやらの度にヤクモの精神力が削られていることに気づいているのかいないのか。


 あるいはそれが目的なのかもしれない。

 抵抗力を失うまで責め続ける、とか。


 勘弁してほしかった。


「いいから、早く準備しておいで」


「はぁい」


 あぁいうところがなければ、素直で良い妹なのだけれど。



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