第37話◇雪色
死にたくないと同じくらい、死んでしまえば楽になるのだろうかと考えたことがある。
ヤクモが村落に引き取られた時は、まだ十代から四十代までのヤマトの民がいた。
でも、みんな死んだ。
男は、女子供と老人を守って。
女は、子供と老人を守って。
そして、子供と老人だけになって、そこへアサヒが現れた。
魔獣が村を襲って。もう、戦える人はいなくて。
だけど、彼女が襲われていたから。
自分はヤマトの男児だから。彼女はもう家族だから。兄は妹を守るものだから。
みんな、自分を守る為に命を懸けてくれたから。
自分もそうしなければと、飛び出した。
でも、いざ魔獣に立ち向かうと怖くて。
怖くてたまらなくて。
でも、同時にこうも思った。
ここで食べられれば、もうこれ以上怖い思いはしなくて済むのだろうか、と。
その時だ。
手が、温かくなった。
雪色の童女が、逃げずに自分の手を握っていた。
「……わたしの
流れ込んでくる。彼女の、違う姿での名前。
口にすると、雪色の刃が収まっていた。
それから、どれだけの時が経ったろう。
ボロボロの血だらけ。
でも、事切れていたのは魔獣の方だった。
そしてようやく、ヤクモは自覚した。
――自分は、死にたくなかったんだなぁ。
――無我夢中で刃を振るってまで、生きていたかったんだ。
恐怖に対する恐怖から、生への渇望さえ忘れかけていた。
アサヒが、逃げていたら。
自分は自分の心に気づくこともなく、死んでいたのだろう。
彼女はヤクモにとって、命の恩人だった。
一生返しきれない恩を、あの日にもらった。
なのに。
「ごめんなさい兄さん……わたしのせいです……わたしは、兄さんに相応しくない。わかっていました、ずっと。だって、わたしは無能だから捨てられたんです。魔法を一つも持っていないだけじゃなく、冗談みたいに脆いから。でも、兄さんは本当に、そんなことどうでもいいことだって、思わせてくれる遣い手だったから……わたし、思い違いをしてしまったんです。兄さんと一緒にいていいんだって。わたし以上に兄さんに適した武器は無いんだって……そんなこと、あるわけないのに」
ヤクモを抱えたまま、妹はボロボロと涙を溢して謝罪している。
「馬鹿でした。ごめんなさい。兄さんが学舎に誘われた時、言わなきゃいけなかったんだ……。新しい武器を探してくださいって、言わなきゃいけなかった。兄さんのことを一番に考えるなら、そうしなきゃいけなかったのに……ごめんなさい、わたし、兄さんといたくて……そんなことを優先したばかりに、兄さんを傷つけてしまった……兄さんは、本当に本当に凄い人なのに……ごめんね、全部わたしのせいだ……ごめんね……夜雲くん。弱くて、脆くて、使えない道具で……ごめんなさい」
あぁ、そうか。
そうなのか。
ずっとそれを、悩んでいたのか。
都市に来てから折に触れて見せていた翳りの正体は、それか。
ヤクモに罪悪感を抱いていたのか。
それに、自分は気付けなかった。
妹の抱えていた、苦しみに。
「わたし……夜雲くんが、好きで。だって、わたし、酷いことを言ったのに、助けようとしてくれて。妹だって言ってくれて。綺麗だって、可愛いって、強いって、凄いって、最高なんだって、一番なんだって、言ってくれて。わたしは、夜雲くんの特別でいいんだって、そう、思えて。でも、違ったんだ。違ったんだぁ……。わたしが、言ってればよかった。夜雲くんなら、魔法が使えなくたって、誰でも使いこなせる。きみを好きって、ただそれだけのことで、こんな棒きれを使わせて……ほんとうにごめんなさい」
なんで、アサヒはこんなことを言っているんだろう。
なんで、アサヒにこんなことを言わせているんだろう。
ヤクモは悲しみに胸が裂けてしまいそうだった。
嫌だな。嫌なんだ。家族が泣く姿を見るのは、とても、とても辛い。寒いのは耐えられる。お腹が酷く空いたって文句は言わない。身体を鍛えるのは苦しいけれど屁でもない。ひりひりと痛む切り傷も、じんじんと痛む擦り傷も、後を引く鈍痛も、全部我慢出来る。
でも、家族の涙だけはダメなんだ。
泣かないでほしい。笑っていてほしい。みんな大好きだから。大好きな人には、笑顔でいっぱいな、そんな日々を送ってほしい。
それだけだった。
それだけあれば、命懸けで戦うには充分だった。強くなることを目指すには充分だった。
涙も、血も、一滴だって流させたくなかった。
その為に、自分は十年も鍛え続けて、戦い続けてきたというのに。
なのに、これはなんだ。
この、無様な姿はなんだ。
なんで妹が泣いているのだろう。
なんで妹が謝罪しているのだろう。
自分を否定して、自分を傷つけながら、兄に謝っている。
応援にきてくれたみんなも、とても苦しそうだ。
違うよ。ごめん。違うんだ。僕は、ただ、みんなを、あの地獄から救いたくて。
――出来ていないじゃないか。
自責の声が脳内に響き出す。
――家族を幸せにする?
――お前がやっていることは、その逆だろう。
――下手に期待を持たせた分、単なる不幸よりたちが悪い。壁の中での生活を、お前は経験させてしまった。食事を、安全を、陽光を、教えてしまった。自分の敗北一つで全て失われると知りながら。
――なんて傲慢なんだ。この程度で、最初の一戦で這い蹲る程度の実力で。夢を見せてから、それを奪うなんて。しかも、相手は家族だ。むごいにも程がある。哀れでならないよ。
――見てみろ。おかげで笑い草だ。ゲラゲラとみんながお前らを嘲笑してる。お前の愛する妹も、老人共も、お前を拾った師匠さえ。
――全部、お前が弱いからだろう。
笑うな、とそう思うのに。声が、出ない。
みんな、良い人達なんだ。善人だし、愛する家族なんだ。何も知らないくせに、ヤマト民族というくくりで下に見て、蔑んで、嘲笑う。そんなこと許さない。許せない。
僕が、証明しなきゃいけなかったのに。
ヤマト民族の生きる価値を、認めさせなければならないのに。
意識が急速に晴れていく。
あぁ、そうだ。何をやっているんだ。何をやっている。何を、倒れ込んでいる。妹に支えられている場合か。敵前で呆けている場合か。
――お前がすべきことはそんなことじゃないだろう。遠峰夜雲、
――地面を舐めて、家族を不安にさせるためか。
違う。
――じゃあなんだ。言え。
息が上手く出来ない。激痛に悶えることしか出来ない。
――だからなんだ。口にしろ。不言実行なんてお前には出来やしないんだ。
――言葉にして、世に放ち、退路を立て。自身を奮い起こせ。
――魂を稼働させろ!
――お前はどうして此処にいるッ!
「…………がつ、だめ」
「……夜雲、くん?」
呼吸を整える。
ヤクモに痛覚への魔力干渉など出来ない。
だから魔術的に痛覚を切ることは出来ない。
だが呼吸法によって、痛みを鎮めることは出来る。
視界が広がる。
妹の泣き顔が鮮明に映る。
言うべきことが、沢山あった。
けど、全てを口にしている時間は無い。
「きみが僕を選んだんじゃない」
「…………え」
「僕がきみを選んだんだ」
「――――」
「あの日、いつもと変わらない闇夜の中で、きみだけが輝いてた」
「夜雲、くん?」
「真っ先に思い浮かんだんだ。白くて、静かで、美しく、儚げな、煌めく極小の花弁。きみを初めて見た時、あまりに綺麗で、雪のようだと思った」
妹は涙の雫をこぼしながら、ヤクモの言葉を聞いている。
「僕はその日、生まれて初めて目にした雪色の少女に、一目惚れしてしまったんだよ」
ずっと、隠していたこと。
「君にとって僕が世界一なら、その理由は単純なんだ。好きな子の前で、かっこつけているだけ。最高の兄でいようと、頑張っていただけ。それが功を奏したってだけなのさ」
アサヒは、何も言わない。
「ねぇ、アサヒ。僕はこんなにも弱いよ。頑張れるのも、きみやみんなのことが、好きだからってだけ。戦うのは怖い。痛いのだって嫌だ。死にたくないっていつも怯えてる。それが遠峰夜雲。きみの、情けない兄だ」
妹が言えなかったように、夜雲も言えなかった。
兄妹は互いに、本心を告げることで失望され、別れを告げられることを恐れていたのだ。
自分の価値を信じられないくせに、相手を愛おしいと思うあまり、二人の慈しみは歪んでいった。
「それでも、僕はきみにとって、世界一の兄でいられるかな」
アサヒは、顔をくしゃくしゃにする。
流れ出る涙の意味は、先程までとは変わっていた。
「馬鹿なこと、言わないでください。兄さん以上の
「だとしたら、きみもまた馬鹿なことを言わないでくれよ。武器は戦士の魂。世界一の男の魂は、世界一に決っている」
彼女の表情が、弱々しく沈む。
「で、でも……わたしは、だって、こんなにも、不良品で」
「僕の妹を馬鹿にするな。彼女は世界一美しく、可憐で、頼りになる
「……ヤクモくん、わたしは」
「きみがいいんだ。アサヒ。きみじゃなきゃあ、僕の心には
「…………でも」
「きみだけが、僕を世界最高の剣士にしてくれる」
アサヒの表情が崩れていく。
「これが僕の偽らざる本心」
端整な顔から、涙の粒がぽろぽろと流れて止まらない。
「これだけは、誰が何を言おうと変えられはしないよ」
「……わだっ、わだじなんがで、いいんでずが」
「何度も言わせないでよ。これでも顔から火が出そうなくらい恥ずかしいんだから」
そう言うと、妹はようやく、少しだけ笑ってくれた。
「兄さんは、本当に、世界最高の兄さんです」
「当たり前だろ。だって、世界最高の妹がいるんだ。兄もそうでなきゃ恰好がつかない」
――僕らは弱い。弱かった。
――だけど、僕らは強い。本当は、とても。
「誓います。二度と折れないことを、あなたに」
「誓うよ。二度と倒れないことを、きみに」
「じゃあ、行きましょうか」
「あぁ、一緒に」
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