生きて帰りたい物語

テナガエビ

第1話 砂塵

 この大陸の東部が豊かで広大な平野部がある。その土の色から現地では黄土と呼ばれるその土地に、強大な統一国家「」が成立したのははるか昔のことである。後にその美称から同音の「」と呼ばれるようになり、その名が正式名称になった。王朝滅亡後の混乱を制したのが現在の「たく」王朝であり、たくの王は天子を名乗った。今上の天子が即位して八年目、西域と呼ばれる乾燥地帯へ侵入する異民族の策源地を叩くべく大規模な遠征軍が送られた。



   ◇



 乾いた大地に砂塵が舞う。東方の帝国「たく」から来た大軍と西方の新興国「阿薩あさつ」から来た大軍とが衝突し、春の気だるいはずの空気を血生臭いものに変えている。


「もうだめだ! 逃げろ!」


 誰かの声が悲痛な声が周囲の音にかき消される。悲鳴と怒号と金属がぶつかる音、戦場の音だ。


「隊列を乱すな! 狙われるぞ!」

「おい、逃げるなっ!」

「あああっ! 来るな、来るなぁっ!」

「畜生! 腕がっ! 畜生!」


 遠くの山脈に沈みゆく真っ赤な太陽が、敗走する者と追撃する者の巻き上げる塵で鈍色に陰る。そんな戦場の片隅に、拓の小部隊指揮官たるセイ佐成サセイの姿はあった。支給された鎧は既に泥と血で汚れ、小柄な体はやはり支給された槍と不釣り合いであった。

 

 佐成は後退中に攻撃を受けて離れてしまった隊の仲間を必死に探していた。途中で何度か敵兵と味方兵とが入り乱れる状況となった。皮肉にも、今は敵からも味方からも孤立したことでほっと一息周囲を見渡すことができていた。だが、いつまでも安穏としていられる状況ではなかった。


隊頭たいとう、どうしましょう! どうしたらよいでしょうか!」


 混乱している若い兵が必死に叫ぶ。だが、それにかまっている余裕はない。


セキソウ鮮于センウチン! いないのか!」


 佐成サセイには修羅場はくぐってきた自負があった。だが、崩壊していく味方の真っただ中というのは初めてだった。自負はぼろぼろと崩れ去り、とどまるべきか、逃げるべきかも判断に迷う。いや、逃げるべきだと佐成サセイは直観で分かってはいた。だが、無闇に逃げれば軍規により処断されることもある。そして、消えた部下を見捨てることへの逡巡があった。


 こんなはずじゃなかった


 今をさかのぼること四年前、佐成サセイは科挙を受けた。科挙とは天子様が主催する官吏登用試験だ。門閥貴族層や皇族とは異なる、ただ忠誠心と能力でもって天子様に仕える側近を選ぶ試験だ。科挙を突破して官吏になれば、天子様の威光を頼りに自分の力を発揮し、地縁や血縁、貴族層に遠慮することなく生活ができるはずだった。佐成には、それが煩わしい派閥や閨閥によるいざこざから逃げられる方法に思えたのだ。



 寄らば大樹の陰



 それが父から、そして異国より来朝した祖父からの教えだった。この国において拠るべき地盤も血縁もない者が生き延びるために必要なものだった。佐成サセイには異国の血が流れている。この国の輝ける中原に咲いた花ではない。徒花なのだ。佐成サセイも幼少時より目鼻立ちがおかしい、発音がおかしい、詩作などできるのか?とバカにされたこともあった。それを見返すために、書物収集家であった父の蔵書を読み漁り、科挙を受けた。最初の段階、地方で行われる郷試ごうし佐成サセイは見事合格した。科挙において、受験する者は皆、監視下の独房に入って受けるのであるが、佐成サセイにとってあの満足な回答を書き終え、独房から出て見上げた空の色は忘れられない思い出だった。

 だが、うまくいったのはそこまでだった。その後行われた二回目の科挙、科試かしで落ちたのだ。佐成サセイが落ちた科試に合格し、その顔を自信と喜びで輝かせた学友が慰めの言葉をかけてくれた時、佐成サセイの心は惨めさによってどろどろの沼地のようになっていた。


 こんなはずじゃなかった


 寄るべき大樹に近づくことができなかった。だから、たまたま話が来た時、別の方法で大樹に寄ろうとしたのだ。軍務で業績を挙げて地位を得るのだ。書物に登場する英雄たちのように。


 佐成サセイが属した遠征軍は、遠路この帝国の西の果ての地まで行軍し、この乾燥した砂塵舞う大地で戦い続けた。そして今や、敗れつつあった。我が軍の隊伍は乱れ、各隊が散り散りになって逃げている。旗の動きからして中央の本隊はまだ秩序だって行動しているようだが、佐成サセイがいる辺り、遠征軍の右翼は崩壊していた。


 こんなはずじゃなかった!

 都を出撃したときは、あんなにぴかぴかで、堂々としていて、まさに帝王の軍隊といった雰囲気が感じられた。街中を行進し、人々が物珍しさに寄せる歓声が誇らしかった。母は健康に気を付け、天子様に奉公できるようにと見送ってくれた。負けるはずなんかなかったのに。


 敵の歓声が聞こえる。真っ白な服に皮の鎧を着た敵兵が死を呼ぶ怒涛となり突っ込んでくる。


隊頭たいとう、もうダメです。みんないません!」


 若い兵の泣きそうな叫びが、佐成サセイの現実逃避と後悔に覆われた思考の雲を吹き飛ばす。確かチョウと言うその兵士の顔は返り血と泥で真っ黒だった。佐成サセイの率いる隊で今、唯一指揮下にいる兵だ。


「……仕方ない、逃げるぞ」


 血にまみれたチョウの表情がぱっと明るくなる。


「み、みんなあっちへ逃げています! 我々も急ぎましょう」


 我が軍は来た道を逆走しようと川沿いの街道に殺到していた。


「ダメだ、見ろ、敵の騎兵が来る。あんな崩れた状態では逃げきれんし、乱戦に巻き込まれる。本隊の後方を……」


 言いかけたあたりでチョウ佐成サセイへと頭からぶつかってきた。佐成サセイは思わず尻餅をつく。


「ぐっ! おい、何をする!?」


 だが、チョウからの反応はない。その兵の足は崩れ落ち、腕はあらぬ方向に曲がったまま地面に倒れ込む。チョウの側頭部には矢が突き刺さっていた。


チョウ! おい、チョウ! ああっ……すまんな……さっさと逃げていれば……」


 俺の隊はもう誰もいなくなってしまった。

 ああ、こんなはずじゃなかった


 佐成サセイの手先が震える。絶望という言葉に色があるとしたら、きっと今の空の色だ。砂塵で黒く汚れた夕日の色。突如、より一層大きな声で歓声と悲鳴があがる。前方の味方の隊列が崩れた。敵が来るのだ。だが、もはや周囲の味方は部隊の体を成していない。金属の打撃音が鳴り響いたのは一瞬で、すぐに悲鳴と怒声とに取って代わられる。


 来るっ! 敵がここに来るっ!


 佐成サセイは言い様のない恐怖に襲われ、すぐに鎧と兜を脱ぎ捨てた。戦袍せんぽうと呼ばれるせんでできた服と紐で脚にきつめに結ばれたはかまという格好になる。円護という鉄板と短冊状の鉄をつないで作った鎧は貴重なものだったが、逃げる時には邪魔になる。さらに槍を放り、横刀とわずかな私物が入った巾着を手に取ると、脱兎のごとく駆け出した。主が戦死したのであろう、行くあてもなくうろうろしている馬に飛び乗る。


「どうどう、すまん! はぁっ!」


 馬を疾駆させる。途中、脇から飛び出してきた敵兵が佐成サセイの腹に向けて槍を繰りだしてきた。


「!」


 必死で刀を振るい、敵の槍の穂先を横刀で切り落とす。間一髪だった。何度か、本当に自分の腹が無事か確認する。


武雷真君ぶらいしんくん武雷真君ぶらいしんくん、どうぞ我が身をお守り下さい!」


 武人の守護神の名を唱え、体の震えを鎮める。佐成サセイが目指すは本隊後方だ。本隊がまだ崩れずに頑張っているのならば、その背後の街道に輜重しちょう隊がいるはずだった。自分の属していた部隊が崩壊している以上、食料は自分の手元にあるものしか期待できない。だが、それではすぐに不足する。なんとしても輜重しちょう隊を有する部隊と合流する必要があった。そこが最も安全、確実に生き延びられる「大樹」のはずだ。


 街道沿いは崩壊した我が軍右翼部隊が右往左往し、敵兵と乱戦になっている。一部の部隊はこの辺りを流れる最大の川である勒水ろくすい沿いに追いやられ、哀れなことに勒水ろくすいの流れに流されている者もいるようだった。佐成サセイはその間隙を縫うように、川と反対側、高所に沿って馬を走らせていった。


「助けてくれぇ!」


 時に逃げ惑う友軍兵士に出くわす。


「街道の方に逃げろ! 本隊と合流を!」


 佐成サセイにはせめて一声かけてやるのが精一杯だった。夕暮れの残照が薄くなっていく。我が軍の本隊と左翼が健在であれば、そして、夜の帳が降りれば、敵も闇雲な追撃を避け、一度軍を再編するのではないだろうか。


 こんなところで……こんなところで死ねない! なんとか拠るべき「大樹」を探さなければ!


 死への恐怖や逃げることへの不安が手汗となって手綱にべったりと貼りつく。佐成は予想と期待とを混ぜ合わせながら暗くなりつつある戦場を疾駆した。

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