第3話 紙きれを天秤に
「お一人ですか?」
「ええ、そうなんです。一緒に行くはずだった友達が行けなくなっちゃって」
「それは残念、僕のツレもですよ。急な仕事で四国出張だとか」
「せっかく初の公録なのにね」
「本当に。このラジオ、前から聞いてるんですか?」
「ええ、初回からのファンですよ」
「お、僕もです。でも実は、パーソナリティはもちろんなんですけど、常連のレッドムーンってハガキ職人の大ファンで」
「……」
「今日の公録に来てないかって少し期待して――どうしました変な顔して」
「……」
「お手上げ?」
「……私なんです」
「何が?」
「……レッドムーン」
◆
十年も経つと、当時毎日通っていたはずの通学路さえ曖昧だった。
徒歩たった十五分の道のりにも関わらず、何度か曲がる道を間違えた。途中で同じ制服を見つけられたのが幸いして、どうにか遅刻することなく校門を潜った。
いま十七歳、高校二年生で、ということは――と慎重に記憶を手繰りながら、十年ぶりの学び舎を歩く。靴箱、廊下、階段――当たり前だがいちいち高校生とすれ違う。
社会に出て数年もすれば、高校生なんてすっかり別世界の住人だ。しかも、無闇に眩しい。非常に落ち着かない。居心地が悪い。そわそわする。
意味もなく何度も眼鏡の位置を直してしまう。大学生でコンタクトに切り替えた僕には、この飾りっ気もへったくれもない眼鏡も随分懐かしの品だ。
廊下と教室とを隔てる扉に手をかけ、一息。
何緊張してんだ27歳。
深呼吸――を何度しても、心臓はうるさいほどに胸を叩いていた。
「ええい、ままよ……ッ」
なんて初めて言った。
勢いよく扉を開けると、二年A組のクラスメイト達が談笑していた。
朝陽を取り込む窓をバックに、懐かしい顔ぶれが揃っていた。高瀬に小林、朝日奈、早出、遠藤に――あとは、ええと、ほら、誰だったっけ。
後ろめたさが胸中にどしんと落ちてくる。
確かに懐かしい顔で、見覚えもあるのだが、半数以上の名前を僕は忘れてしまっていた。
そんなものだ。
「うぃっすー」
「おう、はよーっす」
挨拶をしてくれた君のお名前は何でしたっけ。
なんて焦燥は億尾にも出さず、軽く応じる。彼がクラスのお調子者だったことは覚えているんだけど、はて。原田、いや、原野、違う、ああ、春田!
などと名前あてクイズに興じている余裕はない。
教室の扉をまたいで、僕は一つの問題に直面していた。
席が分からないのだ。
誤算だった。席替えイベントは年に何度かあったから、十年前のこの時期に僕がどこに座っていたかなんて、全く覚えていない。ほかのクラスメイトの並びで何となく思い出せるかと試行してみたが全然だった。
所在なげに突っ立っていると、助け船を出すかのように声をかけてくれた生徒がいた。
「よう赤月、おはよーどうしたん?」
「おう、おは――おっ」
久しぶりじゃん!
という単語が咽喉まで出かかったのを、何とか飲み込んだ。
挨拶を返しながら向き直ると、そこには広川耕太が立っていた。
ひょろりと背が高くおっとりとした顔立ちは忘れるはずもない。高校生の頃は親友といっていいくらい、よく吊るんでいた。
彼は遠方の大学に進学し、社会人になってからはすっかり疎遠になってしまっていた。
懐かしさに顔をほころばせていると、広川は一人で得心したようだった。
「ああ、笠間がだべってて席に戻れないんか」
「ん? 笠間?」
広川の視線を追うようにして見ると、女生徒四人のグループが会話に大きな花を咲かせていた。一人が座席を後ろに向けて、一人が対面するように机に腰掛け、残る二人が立ちながら脇を固める格好だ。
言われてやっと思い出した。机に腰掛ける茶髪の彼女が、笠間という名前だった。
ということは、
「ああそうか、あそこだったっけ」
僕の席は彼女の尻の下か。そういえばそんな気がしてきた。
流石は広川だ。数年ぶりの数奇な再会にもかかわらず、早速僕を助けてくれた。
「ありがとなー広川」
「は? 何が?」
と首をかしげる広川を置いて、僕は自分の席に足を向けた。
「おはよー。悪いけど鞄だけ置かせて」
「え? あ、うん、ごめん。あ、座る?」
「いやいいよ、広川とそこで話してるから」
軽く言葉を交わしながら、僕は席のフックに鞄を引っ掛ける。
女子高生のスカートが視界をちらついて少しドキドキしてしまったけれど、平静を装いながら手早く済ませた。
凄いところに来てしまったなと思い、いや毎日通った母校だろと我に返る。
扉の脇まで戻ると、広川が狐につままれたような顔をしていた。
「どうした?」
「いや、赤月が女子に話しかけてるからさ」
「そんなに珍しいか?」
「そりゃ珍しいよ」
「そ――」
そんなことないだろ、と言い返そうとして、出来なかった。
そうだった。当時の僕はクラスの端で本を読むか、片手で数えられる程度の友人とだけ付き合う内向的な少年だった。
クラスメイトの名前を半分以上も思い出せないのは、三年間で交わした会話がごく僅かで、印象らしい印象も残っていないからだ。
この頃の赤月徹は、女の子に気軽に声をかけられるような男じゃなかったんだ。
談笑に戻った笠間に視線を向けると、ふと目が合ってしまった。
愛想笑いをしてみたら、彼女は気味の悪いものでも見たかのように目をそらした。
僕はそういう男だった。
「テスト勉強のし過ぎでおかしくなったんか?」
「……いま何て言った?」
「数学と世界史、赤月得意だから気合い入れ過ぎたんだろ」
「テスト?」
「そう」
「今日、だっけ?」
探りを入れるようなつもりで聞いたのだけど、余程とぼけた言い方になってしまったようで、広川は怪訝な表情を浮かべた。
「今日も何も、昨日からの三日間が中間テスト、だろ? 本当に大丈夫か?」
「大丈夫なわけないだろ……」
十年も経てば色々忘れる。
高校の勉強なんて、その最たる例だ。
「まあいいか」
早々に諦め、僕は肩をすくめる。
「いいって、諦めるのかよ?」
広川が呆気にとられたように目を丸くするのを見て、僕は苦笑する。
高校生にとって中間期末試験の成績は重要なポイントだ。頭の良し悪しに関わらず、大方の生徒は試験対策に多くの時間を費やす。僕だって当時はそうだった。
でも大人になってみて思うのは、試験の成績はそれほど人生において重要ではないという事だ。
「大丈夫だよ。素行に問題がなければ人並みに内申点は取れるし、テストの成績が悪くなったってせいぜい親に叱られる程度だろ。結局のところ大事なのは大学入試だし、そこでさえ、きちっと合格点取れれば、プロセスは問題じゃない」
一度くらい試験の成績が悪くなったところで、影響は僅少。
社会人になってから、あの頃必死に勉強してて良かったな、なんて思った事は一度もない。寧ろ、もっと遊んで見識を広げて、社交性を身に着けるべきだったと反省しきりだ。
「赤月、何か変わった本でも読んだのか?」
「生き方を学んだんだ」
目を白黒させる広川を尻目に、僕は席に戻る。
何でもかんでも一所懸命やるばかりが生き方じゃない。
テスト、どんとこい。
紙切れ一枚を天秤に載せたところで、人生は傾きやしない。
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