最期の助け

逢雲千生

最期の助け


 きょうの声が辺りに響き、すすり泣く声も小さく聞こえてくる。


 黒い服装に身を包んだ私の隣では、遺影を見ながら呆然とする叔父が、涙をこぼさず唇を噛む。


 その姿を見て、私は遺影の中で笑う従妹いとこを見上げると、声にならない寂しさをため息に乗せた。





 

 が亡くなったという知らせは、昨日の夕方に、彼女の父親から電話で伝えられた。


 私は部活が始まる頃で、運動系の部活に所属していたため、私の両親から連絡が入った時には、すでに体慣らしのランニングに入っていた時だった。


 ランニングも終わり、基礎練習に入ろうとした時に、顔色の悪い顧問から聞かされた彼女の死は、突然でありながら、心のどこかで「やっぱりな」という気持ちで満たされたのだ。


 知香は私の一つ下で、今年高校に上がったばかりだった。


 物心つく前から仲が良くて、今でも当たり前に遊びに行くほど親しかった。


 そんな彼女の様子が変わったのが、去年の秋。


 彼女に悩みを告白されたのは、もうすぐ年が明ける年末だった。


さとちゃん。わたし、もうこんな家、嫌だよ……』


 泣きながらそう言われた後で、彼女とは連絡がつかなくなってしまったのだ。


 何度も何度も連絡を入れたけれど、彼女は読んですらくれなかった。


 電話をかけても出てくれないし、家に行っても叔母に追い返され、ようやく再会できたのが葬式の場でだ。


 それも、彼女自身の。


 知香の父親の話だと、彼女は自室のドアに紐を掛けて、そこで首つりをしたらしい。


 朝に家族と言葉を交わしてから夕方まで、誰も気づかなかったというのだ。


 亡くなった日は平日で、彼女は制服姿だった。


 母親が見送り、学校に行ったことを確認したという話だが、それはきっと嘘だろう。


 彼女はその日、登校していないことがわかっている。


 早退しただとか、登校途中で家に帰ってきただとかと、叔母は警察などに話していたらしいが、警察も嘘くさいと感じているらしい。


 今日だって、通夜だというのに警察が出入りしていたし、叔母だけでなく、私達家族まで話を聞かれた。


 どこまで話そうかと迷ったけれど、どうやら私の両親も、知香の異変に気づいていたらしく、正直にそのことを話すと、警察は「またお邪魔します」と言って、叔母を見つめて帰っていった。


 叔母は悲しそうに声を上げて泣いているけれど、それが嘘泣きだと私は知っている。


 知香の父親――叔父も泣いているけれど、こちらは本物だろう。


 叔母の本性を知っているのは、この世でおそらく、この場にいる全員だ。


 誰も彼も、叔母に慰めの言葉をかけてはいないし、叔父は目も合わせようとしない。


 彼女に対して、誰も同情など出来ないからだ。

 

 知香の母親であり、私の叔母でもある彼女は、私の父の妹だ。


 父には兄が一人と妹が一人いるけれど、兄の方は妹と不仲で、今回の葬儀には、しぶしぶ参列しているらしい。


 父も妹と顔を合わせたくないようだけれど、自分のめいの葬儀なので、こちらもしぶしぶ参列しているようだ。


 実はこの叔母、とんでもないわがままなのだ。


 いや、わがままなどというのは可愛らしく、自分が世界の中心で、自分こそが正しいと、今でも本気で信じているような人だった。


 結婚しても、知香を産んでも、その考えは変わらず、家族以外の人にも平気で文句を言ってはひんしゅくう。


 そのくせ、自分が少しでも文句を言われると、自分が正しいと認めてもらえるまで怒るのだ。


 私が小さかった頃は、自分の方が悪いんだと思っていたけれど、さすがに今は、どちらが悪いかの区別くらいつく。


 今回だって、およそ一年ぶりの再会だと言うのに、「久しぶり」の言葉より先に、高校生の私に「老けたわねえ」と言ってきた。


 笑顔で「そうですかね? 最近、部活と勉強で忙しいですから」と答えたけれど、心の中では「ふざけるな」と怒っていた。





 

 読経が終わり、お坊さんを交えた食事会をしていると、叔父が泣きながら知香のことを話し始めた。


 叔父にとって知香は可愛い一人娘で、明るく頭も良い自慢の子だった。


 いずれは彼氏を紹介されたり、結婚して子供が生まれて……と語ったところで、叔母が突然笑い出したのだ。


 しんみりした空気を裂くような笑い声に、参列していた全員が驚いた顔を彼女に向けると、彼女はお腹を抱えて大笑いしていた。


「おい、不謹慎だぞ」


 叔父が慌てて止めるけれど、彼女はますます、おかしいとばかりに笑う。


 さすがの父も眉をひそめ、伯父も顔をしかめた。


 私も嫌な気分になりながら、ぬるくなったジュースを飲み込むと、浮かんだ涙をぬぐいながら叔母は言ったのだ。


「あんな可愛くない子が死んだからって、なんで悲しむのよ。だいたい、私はずっと前から言ってたでしょ? あんな子いらないから、どっかにやろうって」


「おい、何を言って」


「それなのに、あなたときたら、やれわいそうだの、やれ母親の自覚がないだのって、うるさいったらありゃしないわ。私はね、ずっとあの子が嫌いだったのよ。可愛げもなければなつきもしないし、いっつも兄さん達の嫁にばかり、ベッタリだったからね。それならあげるわって言ったのに、誰も受け取ろうとしないんだもの。私の方が可哀相じゃない」


 お坊さんも顔をしかめ、全員がコップを置いた。


 黙って叔母を全員が見つめると、彼女は何を思ったのか、嬉しそうに話し出したのだ。


「それに、私だってまだまだ現役よ。いつでも相手に困らないし、もう一人くらい作れるわ。だから、こんな葬儀なんてお金の無駄だし、面倒だから、もうやめにしましょうよ」


 ね? と、可愛らしく首をかしげたつもりだろうが、相手は世間でいうおばさんだ。


 可愛くもなければ、若くもない。


 葬儀だというのに、薄いグレーの服を着ているのも不謹慎だし、アクセサリーを普通に身につけている時点で、この人の神経は、もう駄目なのだろうと感じてはいた。


 けれど、自分がお腹を痛めて産んだ娘の葬儀くらいは、きちんとやるだろうと思っていたのに、彼女にとって娘の葬儀は、ただ面倒くさくて、お金の無駄使いになるだけだと、はっきり言ったのだ。


 一人っ子の私にとって、知香は年下の可愛い従妹だった。


 妹みたいな、親友みたいな、大切で大事な子だった。


 そんな子を自殺に追い込んでおいて、なんだその言い草は!


 思い切り立ち上がると、私はジュースの入ったコップを手に、叔母の元へと歩いた。


 数人の親戚が私に気づいたけれど、何も言わず、黙って目をそらす。


 それくらい私は怒っていたのだ。


 きっと顔つきが、怖いくらい変わっているほどに。


 自分の言い分をまくし立てている叔母の後ろに立つと、お坊さんは何をするんだという目を私に向けてきた。


 その視線に気づきながらも、黙ってコップを上にかかげると、勢いよく叔母の頭に中身をかけた。


 パシャッ。


 切れの良い音の後で、空気が一瞬で変わった。


 怒りやら悲しみやらが渦巻いていた空気は、驚きに変わり、ビール瓶の中身も彼女にかけたところで、ようやく彼女が動いたのだ。


「な、何するのよ! 智郷ね、あなた、何考えてるの!」


 どうやら叔母は、私の名前を覚えてくれていたらしい。


 怒りながら私を見上げるけれど、私が後ろに立っているので身動きがとれないらしく、首だけを動かして私を見上げながら、バッチリ決めたメイク姿で睨みつけてきたのだ。


「何って、洗い流せば綺麗になるかなって思っただけですよ」


 ビール瓶の中身を全てかけると、私は冷めた目で彼女を見下ろした。


 怒る彼女には効き目がないようだが、叔父は察したのか、口をつぐんだ。


「綺麗にって、私は元から綺麗に決まってるでしょ! ああもう、せっかくのおしゃれが台無しじゃない」


 台拭き代わりに置かれたきんをとると、綺麗な部分で服の水分をとっていく。


 あっという間に色が変わり、手の届く範囲にある布巾を使うけれど、全て取り切るには無理があるようだった。


 それでも私は彼女の後ろから動かず、狭い空間に彼女を閉じ込めると、怒る彼女に言ったのだ。


「叔母さんってさ、葬式とお祝いの違い、わかってる?」


「当たり前じゃないの。そういうあなたこそ、こんなことをするなんて、非常識にも程があるわ」


「非常識って、叔母さんには言われたくないなあ」


 いっぶん後ろに下がると、叔母は体を動かして私の方を向いた。


 それでも立ち上がろうとはしないので、私達は一定の距離で睨み合う。


 前からずっと嫌いだったけれど、今回の彼女の言動には、もう我慢がならなかった。


 私が責められたって、怒られたっていいから、とにかく言ってやりたかったのだ。


 一度大きく深呼吸をして、叔母を睨む。


 叔母も負けじと睨み返すが、私はひるまなかった。


「……言いたいことがたくさんありすぎて、何から言えばいいのかわからないから、とりあえず言いたいことを言わせてもらうね。まず、叔母さんって自分をいくつだと思ってるの? 今年でもう、ならぬだよね? まあ、それでも引く手あまたな人はいるけれど、叔母さんは鏡見た事あるの? 年齢に似合わない化粧して、若い人が着るような服着てさ。恥ずかしくない?」


「いいでしょう、私の勝手なんだから。それに、私は見た目が若いからいいのよ」


「若いって、それでも三十代くらいじゃん。駄目だよ叔母さん。見た目三十代の五十路が、十代の子が着るファッションしてちゃ。あれだって、知香に対抗してやってたんだろうけど」


 そう言うと、図星をつかれた叔母は、顔を真っ赤にして怒った。


 彼女の言葉を無視して、私は話を続ける。


「叔母さん、知香の男友達に惚れてしまったって言って、知香に仲介を頼んだりしてたんでしょ? しかも、その男の子が自分になびかないからって、知香が悪いって責め立てて、毎日毎日いじめてたらしいじゃん。知香、言ってたよ。『お母さんが私の友達に告白するから、私まで変な目で見られてる』『私が彼を奪おうとしてるって言って、毎日毎日ひどい言葉をかけては叩くの』ってね。ああ、『近所からも、若作りしすぎて怖いとまで言われてるわ』とも言ってたっけ。そりゃあそうだよねえ。だって、五十路の人が十代のファッションを普通にしてて、それが当然だって思ってるんだもの。似合わないって言ったら怒るし、うるさいから、誰も注意できなかったんだって」


 これは通夜が始まる前に聞いた、この家のご近所達の噂話だ。


 叔母は昔から、自分が一番では気が済まないのは知っていたが、どうやら彼女は自分の娘に張り合い、知香が中学校に上がると、娘よりも派手な服装になったそうなのだ。


 髪の毛を染めたり、流行りの服装にするのなら、まだわかるが、それはあくまでも年相応の場合だ。


 彼女は今も、似合わない髪型にギャル系のメイクをしているし、通夜だというのにマニキュアまでつけている。


 一応、叔父が注意しているのを見たけれど、彼女は改めないまま参列したため、お坊さんも目のやりどころに困っているようだった。


 娘の葬儀に不似合いな服装の妹を、伯父も父も、諦めた顔で見ていたというのに、彼女はさらに、許せないことをしたのだ。


「それにさ、泥棒までしちゃ駄目だよ。いくら実の娘の物だからって、それを身につけて通夜に出るなんて、非常識にもほどがあるわ。まったく、親の顔を見てみたいものよ。ああでも、叔母さんって両親に勘当されてたんだっけ。それなら、親とか家族は関係ないか」


 わざとらしくそう言うと、叔母は怒り、事情を知らない親戚がざわついた。


 私もつい最近知ったのだけれど、叔母は昔、あまりにもわがままが過ぎたため、両親から最低限のお金を援助してもらう代わりに、実家には二度と来るなと言われたらしいのだ。


 しかし、叔母は気にせず何度も帰っていて、そのたびに問題を起こしては両親に迷惑をかけ、二人の兄すらも引っ張り出していたらしい。


 おかげで私にまで迷惑がかかっていて、そのことで私は一時期、自宅から出られなくなっていたこともある。


 その時に助けてくれたのが知香だった。


 彼女は自分の父親を説得し、母親がしでかした件を弁護士に相談してくれて、それによって事なきを得た。


 それが無ければ、と考えると、今でも背筋が凍りそうになる。


 叔母を見下ろして睨み合っていたが、そこで彼女はニヤリと笑うと、また不快な笑い声をあげてお腹を抱えたのだ。


「……何がおかしいんですか?」


「ええ? だってそうじゃない。あんた、昔の件をまだ忘れてないのね。だから意地悪するんでしょ? 本当、兄さんにそっくりで嫌な子ね。だいたい、あの件はもう済んだんだし、今になってまで引きずるって、あんたしつこすぎよ。あの子が余計なことをしなければ、今頃はうちも裕福になれたっていうのに、それをあんたは……」


 ため息交じりでそう言われ、私は頭に血がのぼるのがわかった。


 叔母の隣に座っていた叔父も、私の件だと気づいて、険しい顔になると、叔母を睨みつけた。


「何よ、あなたまで。私はね、智郷を幸せにしてあげようとしただけじゃない。良いところに嫁いで、綺麗な服も着れるし、美味しいものも食べられるのよ? それに、子供だって、跡継ぎさえ産んじゃえば、後は好き勝手出来るっていうのに、あなたが逃げるから、私が慰謝料を支払う羽目になったんだからね」


「おい、それは」


「だから、あなたは黙っててよ。だいたい、私はあなたの為を思ってしたのよ。あんたみたいに、地味で目立たなくて、ブスで下品な子をもらってくれる人を見つけてあげたのに、それを断るから。おかげで私は警察に連れて行かれて、ひどく叱られたんだからね。まったく、こっちが慰謝料をもらいたいくらいだったわ」


「……」


 叔母の話から、知っている人は思い出し、知らない人は何となくでも悟ったのだろう。


 みんなが絶句し、信じられないものを見る目で叔母に視線を向けたのだ。


 さすがのお坊さんも絶句し、顔色を悪くして私を見る。


 すぐに叔母に視線を移すと、そのタイミングで叔父が立ち上がった。


 パーン。


 綺麗な音をたてて、叔母の顔が横を向いた。


 私が驚いて目を見開く間に、叔父は叔母の顔をもう一度叩いた。


 また良い音が鳴り、叔母は少しの間固まる。


 すぐに自分が叩かれたことを理解すると、「何をするのよ!」と彼女も立ち上がった。


 あまりの勢いに、私は後ずさり、後ろの席の人にぶつかってしまった。


 謝ることを忘れて、叔父から目をそらせずにいると、叔父は突然、静かに涙を流し始めたのだ。


「……お前と出会ってから二十年弱。俺は、俺なりにお前を大切にしてきた。お前の性格については、義理の両親や義理の兄弟達から聞いていたし、時間が経てば変わるだろうと、そう思って今までやって来たんだ」


 涙が頬を伝い、顎から床に落ちる。


 それに気づいた人は皆、浮きかけた腰を椅子に戻し、静かに彼の話を聞き始めた。


「知香が生まれ、成長していくのは楽しかった。嬉しかった。お前も可愛がっていたから、これでようやく、本当の家族になれる。そう思っていたんだ」


 私は叔父の涙を見ながら、自分の目も潤んでくるのがわかった。


「それなのに、お前は、娘が成長するにつれて、どんどん変わっていったよ。似合わない化粧に派手な服装までして、娘と張り合っていたな。それをみっともないと叱っても、いい加減にしろと怒鳴っても、お前は、やめるどころか、さらにひどくなっていったんだ」


 私の父と伯父が、ゆっくりと腰を下ろすのが見えた。


 そこで叔父は、一度呼吸を整える。


「金遣いも荒くなって、悪い奴らと親しくなって。その上で、自分の姪っ子を売ろうとしたよな。金持ちの老人から、かなりの金額をもらって、当時中学生の姪を渡そうとして、それを俺達に黙って、勝手にやろうとしていた。あの時は本当に、どうしようもなく情けなかったよ。お前にも知香にも、不自由のないようにと働いてきたのに、それなのにお前は、それだけじゃ足りないといって、実の姪を売ろうとしてたんだからな」


 あの頃のことを思い出す。


 ある日突然、叔母から連絡が入り、家に遊びに来いと言われたのだ。


 昔から叔母の命令には逆らいにくくて、嫌味を言われるくらいならと家に行くと、そこに知らない老人がいたのだ。


『智郷。これからあなたは、あの人のお嫁さんになるのよ。良かったわね』


 老人は笑っていたが、叔母も笑っていた。


 不気味な二つの笑みに、逃げようとしたけれど、どこにいたのか、老人の付き人らしき人に捕まってしまったのだ。


 そのまま引きずられ、外に停められた車に乗せられそうになった時、私の叫びに気づいた近所の人が来てくれたのだ。


 叔母は誤魔化そうとしたけれど、怪しい人達に、車に乗せられそうになっている私を見て悲鳴を上げ、その悲鳴がまた人を呼んだ。


 誰かが通報し、警察が到着する頃には、老人と付き人はいなくなってしまったけれど、叔母の携帯などから居所が分かったとかで、彼らは後日、違う場所で逮捕されたらしい。


 そのことが私の家の近くにも広まり、私は被害者でありながら、周囲に話をでっち上げられて加害者にもなった。


 援助交際をしていたとか、流行りのパパ活をしていたとか、そんな噂が広まってしまい、学校にも近所にも、私の居場所はなくなってしまったのだ。


 それから引きこもりになった私に、話を聞いた知香が連絡をくれた。


 いつも通りの会話をして、いつも通り近況を報告し合っただけだけれど、それがとても心地よかった。


 そんなやり取りを繰り返したおかげか、気持ちはだいぶ軽くなっていた。


 それから両親が時間をかけて、学校や近所の人達に、根気よく説明してくれたおかげで、私も登校を再開することが出来るようになった。


 それからも、知香とはひんぱんに連絡を取り合っていたけれど、叔母は私だけでなく、知香にまでそれを強要するようになっていたのだ。


 それを知香から知らされたのを最後に、彼女と連絡が取れなくなった。


 知香は上手く立ち回って、母親から逃げていたらしいけれど、話はそれだけで終わらなかったようだ。


「今度は娘の男友達に手を出そうとして、断られた腹いせに、娘まで売ろうとしたと知った時は、自分が許せなかったよ。なんであの時、お前と離婚しなかったのかってな。そうしていれば、少なくとも、知香はまだ生きていたかもしれないのに……」


 初めて見る叔父の泣き顔は、男泣きと呼べるほどではなかったが、とても切なくなる涙を流していた。


 私も涙がこぼれてきて、目元を指で拭うと、それまで黙っていた叔母が叔父を叩いた。


 今度は鈍い音がして、叔父は倒れ込む。


 叔母の手にはからびんが握られていて、その目は正気では無かった。


「なによ……何よなによなによ。みんなして、私を悪者にして。私のどこが悪いって言うのよ。私は悪くないわよ、あの子が悪いのよ。せっかく金持ちの男紹介してあげたのに、あの子は嫌だって言うし、好きになった子は、あの子が好きだから無理だって言うし。私のどこが悪いって言うのよ。私は可愛いし、私の方が魅力的じゃない。それなのに……それなのにっ! なんで私ばっかり!」


 叔母は瓶を手に、祭壇の方へ歩いて行く。


 服が乱れるのも構わず、大股で歩いて行く姿を見た誰もが引き止められず、彼女は祭壇の前に立った。


「あんたが悪いんじゃないの。あんたを産んでお腹はたるむし、あんたが笑わせるからしわも増えたわ。自分の使えるお金も減ったし、若い子に言い寄られることもなくなった。全部全部、あんたがいたからっ!」


 勢いよく瓶を振りかぶった叔母を見て、私は駆け出した。


 ほとんど突進する形で叔母を倒すと、私に気がついた彼女は、私に向かって瓶を振り下ろしてくる。


 鈍い音が響きそうなほど、力強く叩きつけられる瓶は固く、私は痛みにうめく。


 しかし、ここで離せば祭壇を壊されるだろうし、そうなれば身内だけの問題では収まらなくなるのだ。


 出来る限りの強さで叔母の腰を掴むけれど、叔母は半狂乱になってもがいては、私の背中に瓶を叩きつけてくる。


 それを何度も繰り返していると、叔母はさらに低い声で、私にこう言ったのだ。


「あんたも、もういらないわ。せっかく、あの子の代わりにしようと思ったのに、邪魔するなら、あんたも死んでしまえ!」


 叔母の腕が大きく上がり、私は死を悟った。


 あんな物で頭を殴られたら、私は大怪我をするだろう。


 しかも今の叔母に手加減はなく、力の限りやられるに違いない。


 どうしようか迷う間もなく、叔母の腕が振り下ろされた瞬間、突然大きな音が鳴ったのだ。


「な、なんだ?」


 誰かがそう言ったけれど、音のする場所がよくわからない。


 叔母も気がついたようで、腕を上げたまま周りを見回している。


 私も周りを見てみると、また誰かが「あっ」と声を出したのだ。


 その瞬間、祭壇が近づいてくるのがわかった。


 叔母の引きつるような悲鳴と、私の名前を呼ぶ両親の声を最後に、私は意識を失った。






 目が覚めたのは病院で、私はあれからずっと眠っていたらしい。


 日付は変わっていたけれど、付き添いの両親は喪服のままで、着替えなどを持って来てくれた伯父も、のままといった格好で、だらしない私服をしていた。


 みんなの話では、大きな音の後で祭壇が倒れ、私と叔母は下敷きになってしまったらしい。


 二人揃って気絶していて、叔母は祭壇が体に当たり怪我をしたらしいが、私は叔母が間にいたことによって、傷一つなかったそうなのだ。


 しかし意識が戻らなかったため、念のために入院したらしいのだけど、目が覚めてすぐに、伯父から妙なことを聞かれたのだ。


「智郷ちゃんは、幽霊って信じる?」


 何の話だと思ったけれど、信じてはいますと答えると、伯父は少しだけ考えて話してくれた。


「実は和尚様が、祭壇が倒れた後でこう言ってたんだよ。『智郷さんと知香さんは、本当に仲が良かったんですね』って。それで、どうしてそんなことを言うのか理由を尋ねたら、『智郷さんが危ない時に、知香さんがあらわれて、祭壇を倒していったんですよ』って答えたんだ。幽霊なんて信じてないけど、たしかにそうかもなって、その時思ったんだよ」


「知香が……」


 信じられない話だけど、それなりに重量がある祭壇が、ひとりでに倒れるわけがない。


 伯父を見ると、その目には涙が浮かんでいた。


「……あのな、心して聞いてくれ。知香の死因についてなんだが、さっき警察から連絡が入って、ただの自殺ではないと判断されたらしいんだ」


「兄さん、それはどういうことなんだ?」


 父が聞くと、伯父は怒っているような、悲しんでいるような複雑な表情をにじませながら、ゆっくりと知香の話をしてくれた。





 

 知香は一昨年おととしから、叔母の言いつけで援助交際をさせられていた。


 お金持ちの男性を相手に、一時間数万円という高額で、かなりきわどいところまでやらされていたらしいのだ。


 それを嫌がった知香は、もうやめると言って、去年の初めから叔母と距離を置いていたそうなのだけど、叔母は諦めきれず、私と同じような手を使って、大金を手に入れようとしたらしい。


 それを嫌がられ、抵抗した知香にキレた叔母は、毎日毎日彼女をいじめ、ひどい言葉を投げかけては当たっていた。


 知香は上手くやり過ごしていたらしいのだけれど、そこに例の男友達が登場したことで、事態は一変したらしいのだ。


『ねえ、知香。あの子がお父さんになったら嬉しいでしょ?』


 そう言って叔母は、親子ほども差のある男子中学生に熱を上げたが、当然相手にされなかった。


 相手の男の子は知香のことが好きだったけれど、叔母がしつこかったため、つい本音を言ってしまったらしいのだ。


 それに怒った叔母は、知香への嫉妬から罪を犯す。


 知香を階段から突き落としたり、包丁で刺そうとしたりしていた中で、とうとう首を絞めて殺してしまったのだ。


 それを誤魔化すために、どこから仕入れた知識なのか、ドアノブを使った自殺を偽装した。


 それが上手くいくかと思ったが、普段の彼女の言動が問題視され、私が通夜の席でしでかした騒動によって、全てが明らかになったというわけなのだ。




「妹は、生まれた時からじいさまのお気に入りだった。じいさまには親父達すら頭が上がらなかったから、あいつは生まれつき敵なしだったんだよ。俺達も叱れなかったし、親戚なら、なおさら口を出せなかった。悪いことを悪いと教えられず、わがまま放題に育てられたおかげで、大人になってからも人に迷惑をかけていた。それでも、良い人と結婚できたから変われると思ったんだが、あいつの心は、ずっと幼いままだったんだな……」




 伯父の言うじいさまとは、私のひいおさんのことだ。


 ひいお祖父さんは地元でも評判のめいで、地域の代表者でもあったらしい。


 私が生まれる前に亡くなったそうだけど、その影響力は、今でも残っているくらい強いらしいのだ。


 ひいお祖父さんは、ていしゅかんぱくなタイプの人で、早くに亡くなったひいおさん以外、誰も意見することは出来なかったそうだ。


 亭主関白と言いながら、奥さんであるひいお祖母さんにだけは、頭が上がらなかったそうなのだけど、ひいお祖母さんは叔母が生まれる少し前に急死している。


 その寂しさもあいまって、ひいお祖父さんは叔母を可愛がったのだろう。


 何でも言うことを聞き、怒ることは一切なかったというのだから、さぞかし叔母は幸せな幼少時代を過ごしたのだろう。


 けれど社会に出て、荒波にもまれ、そのストレスから家族に手を上げていたというのだ。


 それすらもひいお祖父さんは怒らず、むしろ家族の方を叱っていたというのだから、呆れるどころか何も言えない。


 そうやって叔母という存在が完成してしまい、彼女は自分こそが一番で、自分こそが正しいという考えを持ったまま、今まで生活してきたというわけなのだ。


 ひいお祖父さんがここまで予測していたかは知らないが、私達には大迷惑な結果だけを残し、ひいお祖父さんは亡くなってしまった。


 叔母は、ひいお祖父さんの葬儀の席でも今回と同じ態度をとり、二度と葬儀に呼ばれなくなった。


 それを恥じるどころか、「こうでんが浮いてラッキー」と自慢していたそうなので、こちらの方が恥ずかしくなる。


 話を全て聞き、知香の死について真実を知った今、私はもう隠すことを止めた。






 後日、叔母は娘の殺害と、それ以外の件で逮捕された。


 被害者は私と知香以外にも大勢いて、例の男子学生からも、セクハラ被害を訴えられたと聞いている。


 彼女は最後まで「私は悪くない!」と叫んでいたそうだが、私が警察に渡した証拠が決め手となって、叔母は有罪となった。






「……それで、どんな証拠を渡したんだ?」


 叔母の裁判結果が載った新聞を見ながら、父が私に尋ねた。


 母も気になるのか、バターを塗る手を止めて、私を見る。


「ただの通話だよ。知香と最後に連絡を取り合った時に、彼女に録音して欲しいって頼まれたから。それが役に立ったから、私も嬉しかったよ」


「通話の録音、か。どんな話をしたんだ?」


「教えない。知香との約束だったからね」


 それだけ言ってパンをくわえると、食べながら鞄を肩に提げる。


 行儀が悪いと母は怒るが、遅刻しそうだからと嘘をついて、駆け足で玄関に向かった。


 廊下に出てしまえば母は追ってこないため、食べかけのパンを頬張りながら、玄関の段差に腰を下ろす。


 靴を履きながら思い出すのは、父に話した知香との最後の会話だった。


 あれが最後になるなんて、私だって思わなかった。


 今は大変だけれど、またいつも通り電話がかかってきて、全部終わったから遊びに行こうって、また会おうって言われると思っていた。


 パンを噛むのをやめて、唇を噛むと、目元がじんわりとゆがみだす。


 涙が出そうになるのを我慢しながら、靴を履き終えると、私はパンを一気に食べきって扉を開けた。






 机の上に置かれた資料を片付けていると、先日の裁判で提出された、証拠のCDが見つかった。


 黒い文字で「証拠Kー3」と書かれていて、素っ気ないものだ。


「先輩、これはどうしますか?」


「ああ、それは資料と一緒に保管だ。こうされるかもしれないから、慎重にな」


 先輩の刑事に言われて、資料箱に入れると、先日の裁判を思い出して気分が悪くなった。


 自分の娘を、私利私欲のために殺した母親は、最後まで自分勝手に騒ぎ、言いたい放題言って判決を受けた。


 自分の現状を見ず、子供のまま大人になったような彼女は、誰からも同情されず、共感もされず裁判を終えたのだ。


 俺も仕事の経験として先輩に連れて行ってもらったが、あれほど気分の悪くなる相手はいないだろう。


 写真で見た時はただの厚化粧だと思っていたが、化粧を落とすと、実年齢より二十歳は老けて見えた。


 見た目や年齢だけの問題ではない。


 態度も言動も、全てが子供のようで、自分を青春時代に置いたままのような人だったからでもある。


 俺だって、青春時代は反抗期で親に迷惑かけたし、今だって何かにつけて心配されている。


 けれどそれは、子供だからではなく、大人としてきちんとやっているのかという心配の方だ。


 手に取った被告人の経歴書は、顔写真付きで細かく書かれている。


 幼い頃から問題を起こしてきたらしく、結婚してからも小さな問題を起こしては、近隣住民に夫が頭を下げて回る日々だったらしい。


 数年前には警察沙汰を起こし、いったん起訴されかけたが、被害者となった少女が彼女の姪であり、大事にしたくないという話し合いの結果が出たため、彼女は厳重注意で済んでしまったというのだ。


 その姪にしたことと同じことを、彼女は実の娘にまで強要した。


 それが受けいれられなかったため、いじめていたそうだが、娘の男友達に恋したことでいっぺんした。


 彼女は、親子ほど年の離れた男子学生を手に入れるため、とうとう娘を手に掛けてしまったのだ。


 自殺を偽装したが、葬儀の席で、例の姪と喧嘩になり、夫にまで過去の悪行を指摘されて逆上。


 暴れる前に姪が止めようとしたが、その際にもみ合いになり、祭壇を倒して二人は救急車に乗せられた。


 二人に大きな怪我はなかったが、先輩はずっと、祭壇が倒れたことを気にしていた。


『……祭壇が、ねえ……あんな重いもん、女二人がぶつかっただけで、そんな簡単に倒れるかねえ……』


 そんな言葉を残し、事件は被告人の有罪でいったん幕を閉じる。


 残りの資料を箱に入れると、最後の仕上げとして、蓋を手に取った。


「控訴が通りませんように、っと」


 そう言いながら蓋を閉めると、被告人のことを思い出す前に、資料室へと向かった。






 ――あの日、私は年末の大掃除をしていたところだった。


 学校生活にも慣れて、新しい友達も出来て、いつでも知香に自慢できると思っていた頃に、彼女は泣きそうな声で電話をかけてきたのだ。


『智郷ちゃん、今、大丈夫?』


「大丈夫だけど、どうしたの? またお母さんにいじめられた?」


 私が尋ねると、彼女は鼻をすすって言葉を詰まらせる。


 あの叔母が知香をいじめていることは知っていたけれど、どうやら相当ひどいらしい。


「ねえ知香。つらいなら、うちに来なよ。お父さんもお母さんも、叔母さんのこと知ってるし、知香のことだって知ってる。お父さん達が話し合って結果が出るまで、うちに来なよ。ね?」


 叔母の異常さは誰もが知っていた。


 知香は何も言わなかったけれど、彼女がいじめられていることも、嫌われていることも知っていたから、叔母夫婦が話し合えるように、知香を私の家で預かろうという話が出ていたところなのだ。


 しかし知香は「ごめん」とだけ言うと、声を押し殺して泣き出した。


 泣き止むまで、落ち着くまで待つと、彼女はまた「ごめん」と言い、鼻を啜った。


『……智郷ちゃん。私ね、お母さんと話し合おうと思うんだ』


「それは、やめた方が良いよ。だって、叔母さん、話し合おうって言っても聞かないでしょ? もっとひどいことされるかもよ?」


『うん。だけど、このままじゃ、家族や親戚だけじゃなくて、まったく関係ない人まで犯罪に巻き込みそうなんだもの。もしそうなったら、私、絶対に自分を許せなくなる』


 知香は、良くも悪くも正義感が強かった。


 私が引きこもった時は良い方に向かったけれど、この時に止めていれば、彼女の正義感が悪い方に向くことはなかったかもしれないのだ。


 私にとって叔母は叔母だけど、知香にとっては母親だった。


 ひどいことをされても、やはりどこかで、嫌いになりきれなかったのかもしれない。


「……知香がそう言うなら、止められないよね。一度言い出したら、もう話を聞かないから」


『ごめんね……本当にごめんね……』


 ずっと謝ってばかりだった知香。


 それからすぐに、彼女に頼まれて録音を開始すると、彼女は泣きながら、こんな話をしてくれた。


『私ね、智郷ちゃんのことも、伯父さん達のことも大好きなんだ。確かにお母さんはどうしようもない人だけど、それでもまだ諦めたくないの。もしもの時は喧嘩だってする覚悟だし、怪我したって何したって、お母さんにわかってほしいのよ』


「そっか。でも、簡単じゃないと思うよ」


『それでも、やれるだけやってみる。それでね。もしも……もしもだけど、私が殺されたら、この録音を警察に持っていってね。それで、お母さんの目を覚まさせてあげて。お願い』


「ちょ、ちょっと、何を言ってるのよ。いくら叔母さんでも、殺したりなんてしないと思うよ。だから、ちゃんと自分の身を守って、きちんとした状態で話し合ってよ。わかった?」


『………………うん……うんっ……』


 か細くなる彼女の返事は、もしかすると、自分の最期を予測していたのかもしれない。


 警察に提出したこの録音は、殺されるかもしれないという知香の恐怖を充分に伝えられ、証拠として認められたものだ。


 判決の時もその場にいたけれど、叔母の言動は変わっておらず、じょうじょうしゃくりょうなしと判断されている。


 実の娘を手にかけ、それでも悪びれない彼女を助けようとする人は、もう誰もいないことだろう。


 あの時倒れた祭壇は、知香が私を助けてくれたのだろうか?


 そうだとしたら、私は嬉しい。


 だけど後悔は残る。


 あの時、きちんと彼女を止めていれば……と。


 彼女の遺体は火葬され、すでにのうこつは済まされている。


 彼女が最期に何を思ったのか、どんな気持ちだったのか、想像してもしきれないけれど、せめてあの世では、あの世というものがあるのなら、幸せに暮らしていてほしい。


 そう願って、スマホの画面を落とした。






 薄暗い建物の中で、遠くから扉を叩く音が響いてくる。


「ったく、またあの女か」


 悪態をつく同僚を押さえて、俺が行くというと、彼は喜んで役目を譲ってくれた。


 ここは女子刑務所だが、危険性のある人物がいる場合、例外として男性看守が就く場合がある。


 俺と同僚はそれにばってきされ、一時的ながら、世間を騒がせた女を監視することになったのだ。


 自分勝手な理由で人に迷惑をかけ続け、挙げ句の果てには実の娘まで殺した女。


 同情する気は起きないし、優しくしてやる道理もない。


 それでも人権はあるので、あくまで人並みに接してはいるのだが、ここ最近は、ますますおかしくなっているのだ。


「おい、騒ぐな。罰を受けることになるぞ」


「嫌よ嫌! ここも嫌! 罰も嫌あっ!」


 のぞき窓越しに目が合うが、彼女は髪を振り乱し、なおも暴れている。


 ここに来てからというもの、日に日に言動がおかしくなっていて、いつせいしんしっかんを疑われるかわかったものじゃない。


 正気なはずなのだけど、正気ではない振る舞いをするため、わざとなのか本気なのか、だんだんと判断が難しくなってきているのだ。


「お願いだから出してよお。私はめられたのよ。あの子に、あの悪魔に嵌められたのおぉ。お願いだから出してええっ」


 自分は悪くない、全てあの女のせいだとわめくが、だまされたりはしない。


 何年か看守をやっていると、人の嘘がわかるようになってくる。


 たとえ本当であっても、そこに含まれる嘘を見破って無視するのが決まりなのだ。


 彼女の場合、嘘をついているようには見えないが、彼女がやったことは全て事実なのだ。


 同情してしまえば、際限なく甘えてくるのは目に見えている。


 誰に嵌められたのかは知らないが、それも自業自得なのだろう。


 のぞき窓を離れて帰ろうとすると、彼女は泣くのをやめて、勢いよく扉を叩いた。


 鈍く高い音が後を引く。


 すっかり慣れた音を背に歩き出すと、彼女はもう一度扉を叩いて叫んだ。


「ちくしょう! あの女、最後の最期でやりやがったな! 黙って従ってりゃあいいものを、よくも嵌めてくれたもんだよ! 許さない! 絶対許してやるもんかあ!」


 遠ざかる音を聞きながら、俺は廊下の隅を見つめる。


 誰もいない廊下に一人たたずむその少女は、俺を見て、嬉しそうに微笑んだ。


「……まったく、親子っていうのは恐ろしい」


 帽子のつばをつかみながらそう呟くと、少女は満足げな表情を浮かべ、廊下の先へ走っていく。


 静かな廊下には、足音が一つ。


 俺が廊下を曲がると、少女の姿はすでになかった。


 廊下の先には同僚がいて、暇そうに雑誌を見ている。


「おう、終わったか?」


「ああ、また暴れてるだけだったよ」


 いつものことだと椅子に座ると、俺も読みかけの雑誌を開く。


 看守をやっていると、時々見えるものがある。


 それが何を意味するかと言えば、子供であっても、油断はできないということだ。


 ページをめくると、耳元で囁く声が聞こえてくる。


(ねえ、あの人は死刑になるの? ねえ?)


 少女らしい高い声は、反対側からも聞こえてきた。


(そうなったらいいなあ。ねえ、教えてよ)


 無視してページをめくると、少女は笑い出す。


 答えを知っているはずなのに、意地悪く尋ねる彼女は、よほど恨みを持っていたのだろう。


 あの女の独房と、看守がいる場所を行ったり来たりしては、楽しそうに笑うのだから。


 少女が俺を覗きこむと目が合った。


 彼女はにっこりと笑い、俺の耳元で囁く。


(あの女が死んだら、わたし、やっと助けられるのよ。ずっとずっと、あの子を苦しめてきた元凶がいなくなるの。ふふふ、楽しみだなあ)


 ねばつくような高い声は、俺の頭上から、はっきりと言った。


「早く、死ねばいいのにね」







 ――一番怖いのは、誰?








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最期の助け 逢雲千生 @houn_itsuki

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