最期の助け
逢雲千生
最期の助け
黒い服装に身を包んだ私の隣では、遺影を見ながら呆然とする叔父が、涙を
その姿を見て、私は遺影の中で笑う
私は部活が始まる頃で、運動系の部活に所属していたため、私の両親から連絡が入った時には、すでに体慣らしのランニングに入っていた時だった。
ランニングも終わり、基礎練習に入ろうとした時に、顔色の悪い顧問から聞かされた彼女の死は、突然でありながら、心のどこかで「やっぱりな」という気持ちで満たされたのだ。
知香は私の一つ下で、今年高校に上がったばかりだった。
物心つく前から仲が良くて、今でも当たり前に遊びに行くほど親しかった。
そんな彼女の様子が変わったのが、去年の秋。
彼女に悩みを告白されたのは、もうすぐ年が明ける年末だった。
『
泣きながらそう言われた後で、彼女とは連絡がつかなくなってしまったのだ。
何度も何度も連絡を入れたけれど、彼女は読んですらくれなかった。
電話をかけても出てくれないし、家に行っても叔母に追い返され、ようやく再会できたのが葬式の場でだ。
それも、彼女自身の。
知香の父親の話だと、彼女は自室のドアに紐を掛けて、そこで首つりをしたらしい。
朝に家族と言葉を交わしてから夕方まで、誰も気づかなかったというのだ。
亡くなった日は平日で、彼女は制服姿だった。
母親が見送り、学校に行ったことを確認したという話だが、それはきっと嘘だろう。
彼女はその日、登校していないことがわかっている。
早退しただとか、登校途中で家に帰ってきただとかと、叔母は警察などに話していたらしいが、警察も嘘くさいと感じているらしい。
今日だって、通夜だというのに警察が出入りしていたし、叔母だけでなく、私達家族まで話を聞かれた。
どこまで話そうかと迷ったけれど、どうやら私の両親も、知香の異変に気づいていたらしく、正直にそのことを話すと、警察は「またお邪魔します」と言って、叔母を見つめて帰っていった。
叔母は悲しそうに声を上げて泣いているけれど、それが嘘泣きだと私は知っている。
知香の父親――叔父も泣いているけれど、こちらは本物だろう。
叔母の本性を知っているのは、この世でおそらく、この場にいる全員だ。
誰も彼も、叔母に慰めの言葉をかけてはいないし、叔父は目も合わせようとしない。
彼女に対して、誰も同情など出来ないからだ。
知香の母親であり、私の叔母でもある彼女は、私の父の妹だ。
父には兄が一人と妹が一人いるけれど、兄の方は妹と不仲で、今回の葬儀には、しぶしぶ参列しているらしい。
父も妹と顔を合わせたくないようだけれど、自分の
実はこの叔母、とんでもないわがままなのだ。
いや、わがままなどというのは可愛らしく、自分が世界の中心で、自分こそが正しいと、今でも本気で信じているような人だった。
結婚しても、知香を産んでも、その考えは変わらず、家族以外の人にも平気で文句を言っては
そのくせ、自分が少しでも文句を言われると、自分が正しいと認めてもらえるまで怒るのだ。
私が小さかった頃は、自分の方が悪いんだと思っていたけれど、さすがに今は、どちらが悪いかの区別くらいつく。
今回だって、およそ一年ぶりの再会だと言うのに、「久しぶり」の言葉より先に、高校生の私に「老けたわねえ」と言ってきた。
笑顔で「そうですかね? 最近、部活と勉強で忙しいですから」と答えたけれど、心の中では「ふざけるな」と怒っていた。
読経が終わり、お坊さんを交えた食事会をしていると、叔父が泣きながら知香のことを話し始めた。
叔父にとって知香は可愛い一人娘で、明るく頭も良い自慢の子だった。
いずれは彼氏を紹介されたり、結婚して子供が生まれて……と語ったところで、叔母が突然笑い出したのだ。
しんみりした空気を裂くような笑い声に、参列していた全員が驚いた顔を彼女に向けると、彼女はお腹を抱えて大笑いしていた。
「おい、不謹慎だぞ」
叔父が慌てて止めるけれど、彼女はますます、おかしいとばかりに笑う。
さすがの父も眉をひそめ、伯父も顔をしかめた。
私も嫌な気分になりながら、
「あんな可愛くない子が死んだからって、なんで悲しむのよ。だいたい、私はずっと前から言ってたでしょ? あんな子いらないから、どっかにやろうって」
「おい、何を言って」
「それなのに、あなたときたら、やれ
お坊さんも顔をしかめ、全員がコップを置いた。
黙って叔母を全員が見つめると、彼女は何を思ったのか、嬉しそうに話し出したのだ。
「それに、私だってまだまだ現役よ。いつでも相手に困らないし、もう一人くらい作れるわ。だから、こんな葬儀なんてお金の無駄だし、面倒だから、もうやめにしましょうよ」
ね? と、可愛らしく首をかしげたつもりだろうが、相手は世間でいうおばさんだ。
可愛くもなければ、若くもない。
葬儀だというのに、薄いグレーの服を着ているのも不謹慎だし、アクセサリーを普通に身につけている時点で、この人の神経は、もう駄目なのだろうと感じてはいた。
けれど、自分がお腹を痛めて産んだ娘の葬儀くらいは、きちんとやるだろうと思っていたのに、彼女にとって娘の葬儀は、ただ面倒くさくて、お金の無駄使いになるだけだと、はっきり言ったのだ。
一人っ子の私にとって、知香は年下の可愛い従妹だった。
妹みたいな、親友みたいな、大切で大事な子だった。
そんな子を自殺に追い込んでおいて、なんだその言い草は!
思い切り立ち上がると、私はジュースの入ったコップを手に、叔母の元へと歩いた。
数人の親戚が私に気づいたけれど、何も言わず、黙って目をそらす。
それくらい私は怒っていたのだ。
きっと顔つきが、怖いくらい変わっているほどに。
自分の言い分をまくし立てている叔母の後ろに立つと、お坊さんは何をするんだという目を私に向けてきた。
その視線に気づきながらも、黙ってコップを上に
パシャッ。
切れの良い音の後で、空気が一瞬で変わった。
怒りやら悲しみやらが渦巻いていた空気は、驚きに変わり、ビール瓶の中身も彼女にかけたところで、ようやく彼女が動いたのだ。
「な、何するのよ! 智郷ね、あなた、何考えてるの!」
どうやら叔母は、私の名前を覚えてくれていたらしい。
怒りながら私を見上げるけれど、私が後ろに立っているので身動きがとれないらしく、首だけを動かして私を見上げながら、バッチリ決めたメイク姿で睨みつけてきたのだ。
「何って、洗い流せば綺麗になるかなって思っただけですよ」
ビール瓶の中身を全てかけると、私は冷めた目で彼女を見下ろした。
怒る彼女には効き目がないようだが、叔父は察したのか、口をつぐんだ。
「綺麗にって、私は元から綺麗に決まってるでしょ! ああもう、せっかくのおしゃれが台無しじゃない」
台拭き代わりに置かれた
あっという間に色が変わり、手の届く範囲にある布巾を使うけれど、全て取り切るには無理があるようだった。
それでも私は彼女の後ろから動かず、狭い空間に彼女を閉じ込めると、怒る彼女に言ったのだ。
「叔母さんってさ、葬式とお祝いの違い、わかってる?」
「当たり前じゃないの。そういうあなたこそ、こんなことをするなんて、非常識にも程があるわ」
「非常識って、叔母さんには言われたくないなあ」
それでも立ち上がろうとはしないので、私達は一定の距離で睨み合う。
前からずっと嫌いだったけれど、今回の彼女の言動には、もう我慢がならなかった。
私が責められたって、怒られたっていいから、とにかく言ってやりたかったのだ。
一度大きく深呼吸をして、叔母を睨む。
叔母も負けじと睨み返すが、私は
「……言いたいことがたくさんありすぎて、何から言えばいいのかわからないから、とりあえず言いたいことを言わせてもらうね。まず、叔母さんって自分をいくつだと思ってるの? 今年でもう、
「いいでしょう、私の勝手なんだから。それに、私は見た目が若いからいいのよ」
「若いって、それでも三十代くらいじゃん。駄目だよ叔母さん。見た目三十代の五十路が、十代の子が着るファッションしてちゃ。あれだって、知香に対抗してやってたんだろうけど」
そう言うと、図星をつかれた叔母は、顔を真っ赤にして怒った。
彼女の言葉を無視して、私は話を続ける。
「叔母さん、知香の男友達に惚れてしまったって言って、知香に仲介を頼んだりしてたんでしょ? しかも、その男の子が自分に
これは通夜が始まる前に聞いた、この家のご近所達の噂話だ。
叔母は昔から、自分が一番では気が済まないのは知っていたが、どうやら彼女は自分の娘に張り合い、知香が中学校に上がると、娘よりも派手な服装になったそうなのだ。
髪の毛を染めたり、流行りの服装にするのなら、まだわかるが、それはあくまでも年相応の場合だ。
彼女は今も、似合わない髪型にギャル系のメイクをしているし、通夜だというのにマニキュアまでつけている。
一応、叔父が注意しているのを見たけれど、彼女は改めないまま参列したため、お坊さんも目のやりどころに困っているようだった。
娘の葬儀に不似合いな服装の妹を、伯父も父も、諦めた顔で見ていたというのに、彼女はさらに、許せないことをしたのだ。
「それにさ、泥棒までしちゃ駄目だよ。いくら実の娘の物だからって、それを身につけて通夜に出るなんて、非常識にも
わざとらしくそう言うと、叔母は怒り、事情を知らない親戚がざわついた。
私もつい最近知ったのだけれど、叔母は昔、あまりにもわがままが過ぎたため、両親から最低限のお金を援助してもらう代わりに、実家には二度と来るなと言われたらしいのだ。
しかし、叔母は気にせず何度も帰っていて、そのたびに問題を起こしては両親に迷惑をかけ、二人の兄すらも引っ張り出していたらしい。
おかげで私にまで迷惑がかかっていて、そのことで私は一時期、自宅から出られなくなっていたこともある。
その時に助けてくれたのが知香だった。
彼女は自分の父親を説得し、母親がしでかした件を弁護士に相談してくれて、それによって事なきを得た。
それが無ければ、と考えると、今でも背筋が凍りそうになる。
叔母を見下ろして睨み合っていたが、そこで彼女はニヤリと笑うと、また不快な笑い声をあげてお腹を抱えたのだ。
「……何がおかしいんですか?」
「ええ? だってそうじゃない。あんた、昔の件をまだ忘れてないのね。だから意地悪するんでしょ? 本当、兄さんにそっくりで嫌な子ね。だいたい、あの件はもう済んだんだし、今になってまで引きずるって、あんたしつこすぎよ。あの子が余計なことをしなければ、今頃はうちも裕福になれたっていうのに、それをあんたは……」
ため息交じりでそう言われ、私は頭に血がのぼるのがわかった。
叔母の隣に座っていた叔父も、私の件だと気づいて、険しい顔になると、叔母を睨みつけた。
「何よ、あなたまで。私はね、智郷を幸せにしてあげようとしただけじゃない。良いところに嫁いで、綺麗な服も着れるし、美味しいものも食べられるのよ? それに、子供だって、跡継ぎさえ産んじゃえば、後は好き勝手出来るっていうのに、あなたが逃げるから、私が慰謝料を支払う羽目になったんだからね」
「おい、それは」
「だから、あなたは黙っててよ。だいたい、私はあなたの為を思ってしたのよ。あんたみたいに、地味で目立たなくて、ブスで下品な子をもらってくれる人を見つけてあげたのに、それを断るから。おかげで私は警察に連れて行かれて、ひどく叱られたんだからね。まったく、こっちが慰謝料をもらいたいくらいだったわ」
「……」
叔母の話から、知っている人は思い出し、知らない人は何となくでも悟ったのだろう。
みんなが絶句し、信じられないものを見る目で叔母に視線を向けたのだ。
さすがのお坊さんも絶句し、顔色を悪くして私を見る。
すぐに叔母に視線を移すと、そのタイミングで叔父が立ち上がった。
パーン。
綺麗な音をたてて、叔母の顔が横を向いた。
私が驚いて目を見開く間に、叔父は叔母の顔をもう一度叩いた。
また良い音が鳴り、叔母は少しの間固まる。
すぐに自分が叩かれたことを理解すると、「何をするのよ!」と彼女も立ち上がった。
あまりの勢いに、私は後ずさり、後ろの席の人にぶつかってしまった。
謝ることを忘れて、叔父から目をそらせずにいると、叔父は突然、静かに涙を流し始めたのだ。
「……お前と出会ってから二十年弱。俺は、俺なりにお前を大切にしてきた。お前の性格については、義理の両親や義理の兄弟達から聞いていたし、時間が経てば変わるだろうと、そう思って今までやって来たんだ」
涙が頬を伝い、顎から床に落ちる。
それに気づいた人は皆、浮きかけた腰を椅子に戻し、静かに彼の話を聞き始めた。
「知香が生まれ、成長していくのは楽しかった。嬉しかった。お前も可愛がっていたから、これでようやく、本当の家族になれる。そう思っていたんだ」
私は叔父の涙を見ながら、自分の目も潤んでくるのがわかった。
「それなのに、お前は、娘が成長するにつれて、どんどん変わっていったよ。似合わない化粧に派手な服装までして、娘と張り合っていたな。それをみっともないと叱っても、いい加減にしろと怒鳴っても、お前は、やめるどころか、さらにひどくなっていったんだ」
私の父と伯父が、ゆっくりと腰を下ろすのが見えた。
そこで叔父は、一度呼吸を整える。
「金遣いも荒くなって、悪い奴らと親しくなって。その上で、自分の姪っ子を売ろうとしたよな。金持ちの老人から、かなりの金額をもらって、当時中学生の姪を渡そうとして、それを俺達に黙って、勝手にやろうとしていた。あの時は本当に、どうしようもなく情けなかったよ。お前にも知香にも、不自由のないようにと働いてきたのに、それなのにお前は、それだけじゃ足りないといって、実の姪を売ろうとしてたんだからな」
あの頃のことを思い出す。
ある日突然、叔母から連絡が入り、家に遊びに来いと言われたのだ。
昔から叔母の命令には逆らいにくくて、嫌味を言われるくらいならと家に行くと、そこに知らない老人がいたのだ。
『智郷。これからあなたは、あの人のお嫁さんになるのよ。良かったわね』
老人は笑っていたが、叔母も笑っていた。
不気味な二つの笑みに、逃げようとしたけれど、どこにいたのか、老人の付き人らしき人に捕まってしまったのだ。
そのまま引きずられ、外に停められた車に乗せられそうになった時、私の叫びに気づいた近所の人が来てくれたのだ。
叔母は誤魔化そうとしたけれど、怪しい人達に、車に乗せられそうになっている私を見て悲鳴を上げ、その悲鳴がまた人を呼んだ。
誰かが通報し、警察が到着する頃には、老人と付き人はいなくなってしまったけれど、叔母の携帯などから居所が分かったとかで、彼らは後日、違う場所で逮捕されたらしい。
そのことが私の家の近くにも広まり、私は被害者でありながら、周囲に話をでっち上げられて加害者にもなった。
援助交際をしていたとか、流行りのパパ活をしていたとか、そんな噂が広まってしまい、学校にも近所にも、私の居場所はなくなってしまったのだ。
それから引きこもりになった私に、話を聞いた知香が連絡をくれた。
いつも通りの会話をして、いつも通り近況を報告し合っただけだけれど、それがとても心地よかった。
そんなやり取りを繰り返したおかげか、気持ちはだいぶ軽くなっていた。
それから両親が時間をかけて、学校や近所の人達に、根気よく説明してくれたおかげで、私も登校を再開することが出来るようになった。
それからも、知香とは
それを知香から知らされたのを最後に、彼女と連絡が取れなくなった。
知香は上手く立ち回って、母親から逃げていたらしいけれど、話はそれだけで終わらなかったようだ。
「今度は娘の男友達に手を出そうとして、断られた腹いせに、娘まで売ろうとしたと知った時は、自分が許せなかったよ。なんであの時、お前と離婚しなかったのかってな。そうしていれば、少なくとも、知香はまだ生きていたかもしれないのに……」
初めて見る叔父の泣き顔は、男泣きと呼べるほどではなかったが、とても切なくなる涙を流していた。
私も涙がこぼれてきて、目元を指で拭うと、それまで黙っていた叔母が叔父を叩いた。
今度は鈍い音がして、叔父は倒れ込む。
叔母の手には
「なによ……何よなによなによ。みんなして、私を悪者にして。私のどこが悪いって言うのよ。私は悪くないわよ、あの子が悪いのよ。せっかく金持ちの男紹介してあげたのに、あの子は嫌だって言うし、好きになった子は、あの子が好きだから無理だって言うし。私のどこが悪いって言うのよ。私は可愛いし、私の方が魅力的じゃない。それなのに……それなのにっ! なんで私ばっかり!」
叔母は瓶を手に、祭壇の方へ歩いて行く。
服が乱れるのも構わず、大股で歩いて行く姿を見た誰もが引き止められず、彼女は祭壇の前に立った。
「あんたが悪いんじゃないの。あんたを産んでお腹はたるむし、あんたが笑わせるから
勢いよく瓶を振りかぶった叔母を見て、私は駆け出した。
ほとんど突進する形で叔母を倒すと、私に気がついた彼女は、私に向かって瓶を振り下ろしてくる。
鈍い音が響きそうなほど、力強く叩きつけられる瓶は固く、私は痛みに
しかし、ここで離せば祭壇を壊されるだろうし、そうなれば身内だけの問題では収まらなくなるのだ。
出来る限りの強さで叔母の腰を掴むけれど、叔母は半狂乱になってもがいては、私の背中に瓶を叩きつけてくる。
それを何度も繰り返していると、叔母はさらに低い声で、私にこう言ったのだ。
「あんたも、もういらないわ。せっかく、あの子の代わりにしようと思ったのに、邪魔するなら、あんたも死んでしまえ!」
叔母の腕が大きく上がり、私は死を悟った。
あんな物で頭を殴られたら、私は大怪我をするだろう。
しかも今の叔母に手加減はなく、力の限りやられるに違いない。
どうしようか迷う間もなく、叔母の腕が振り下ろされた瞬間、突然大きな音が鳴ったのだ。
「な、なんだ?」
誰かがそう言ったけれど、音のする場所がよくわからない。
叔母も気がついたようで、腕を上げたまま周りを見回している。
私も周りを見てみると、また誰かが「あっ」と声を出したのだ。
その瞬間、祭壇が近づいてくるのがわかった。
叔母の引きつるような悲鳴と、私の名前を呼ぶ両親の声を最後に、私は意識を失った。
目が覚めたのは病院で、私はあれからずっと眠っていたらしい。
日付は変わっていたけれど、付き添いの両親は喪服のままで、着替えなどを持って来てくれた伯父も、
みんなの話では、大きな音の後で祭壇が倒れ、私と叔母は下敷きになってしまったらしい。
二人揃って気絶していて、叔母は祭壇が体に当たり怪我をしたらしいが、私は叔母が間にいたことによって、傷一つなかったそうなのだ。
しかし意識が戻らなかったため、念のために入院したらしいのだけど、目が覚めてすぐに、伯父から妙なことを聞かれたのだ。
「智郷ちゃんは、幽霊って信じる?」
何の話だと思ったけれど、信じてはいますと答えると、伯父は少しだけ考えて話してくれた。
「実は和尚様が、祭壇が倒れた後でこう言ってたんだよ。『智郷さんと知香さんは、本当に仲が良かったんですね』って。それで、どうしてそんなことを言うのか理由を尋ねたら、『智郷さんが危ない時に、知香さんがあらわれて、祭壇を倒していったんですよ』って答えたんだ。幽霊なんて信じてないけど、たしかにそうかもなって、その時思ったんだよ」
「知香が……」
信じられない話だけど、それなりに重量がある祭壇が、ひとりでに倒れるわけがない。
伯父を見ると、その目には涙が浮かんでいた。
「……あのな、心して聞いてくれ。知香の死因についてなんだが、さっき警察から連絡が入って、ただの自殺ではないと判断されたらしいんだ」
「兄さん、それはどういうことなんだ?」
父が聞くと、伯父は怒っているような、悲しんでいるような複雑な表情をにじませながら、ゆっくりと知香の話をしてくれた。
知香は
お金持ちの男性を相手に、一時間数万円という高額で、かなり
それを嫌がった知香は、もうやめると言って、去年の初めから叔母と距離を置いていたそうなのだけど、叔母は諦めきれず、私と同じような手を使って、大金を手に入れようとしたらしい。
それを嫌がられ、抵抗した知香にキレた叔母は、毎日毎日彼女をいじめ、ひどい言葉を投げかけては当たっていた。
知香は上手くやり過ごしていたらしいのだけれど、そこに例の男友達が登場したことで、事態は一変したらしいのだ。
『ねえ、知香。あの子がお父さんになったら嬉しいでしょ?』
そう言って叔母は、親子ほども差のある男子中学生に熱を上げたが、当然相手にされなかった。
相手の男の子は知香のことが好きだったけれど、叔母がしつこかったため、つい本音を言ってしまったらしいのだ。
それに怒った叔母は、知香への嫉妬から罪を犯す。
知香を階段から突き落としたり、包丁で刺そうとしたりしていた中で、とうとう首を絞めて殺してしまったのだ。
それを誤魔化すために、どこから仕入れた知識なのか、ドアノブを使った自殺を偽装した。
それが上手くいくかと思ったが、普段の彼女の言動が問題視され、私が通夜の席でしでかした騒動によって、全てが明らかになったというわけなのだ。
「妹は、生まれた時からじいさまのお気に入りだった。じいさまには親父達すら頭が上がらなかったから、あいつは生まれつき敵なしだったんだよ。俺達も叱れなかったし、親戚なら、なおさら口を出せなかった。悪いことを悪いと教えられず、わがまま放題に育てられたおかげで、大人になってからも人に迷惑をかけていた。それでも、良い人と結婚できたから変われると思ったんだが、あいつの心は、ずっと幼いままだったんだな……」
伯父の言うじいさまとは、私のひいお
ひいお祖父さんは地元でも評判の
私が生まれる前に亡くなったそうだけど、その影響力は、今でも残っているくらい強いらしいのだ。
ひいお祖父さんは、
亭主関白と言いながら、奥さんであるひいお祖母さんにだけは、頭が上がらなかったそうなのだけど、ひいお祖母さんは叔母が生まれる少し前に急死している。
その寂しさもあいまって、ひいお祖父さんは叔母を可愛がったのだろう。
何でも言うことを聞き、怒ることは一切なかったというのだから、さぞかし叔母は幸せな幼少時代を過ごしたのだろう。
けれど社会に出て、荒波にもまれ、そのストレスから家族に手を上げていたというのだ。
それすらもひいお祖父さんは怒らず、むしろ家族の方を叱っていたというのだから、呆れるどころか何も言えない。
そうやって叔母という存在が完成してしまい、彼女は自分こそが一番で、自分こそが正しいという考えを持ったまま、今まで生活してきたというわけなのだ。
ひいお祖父さんがここまで予測していたかは知らないが、私達には大迷惑な結果だけを残し、ひいお祖父さんは亡くなってしまった。
叔母は、ひいお祖父さんの葬儀の席でも今回と同じ態度をとり、二度と葬儀に呼ばれなくなった。
それを恥じるどころか、「
話を全て聞き、知香の死について真実を知った今、私はもう隠すことを止めた。
後日、叔母は娘の殺害と、それ以外の件で逮捕された。
被害者は私と知香以外にも大勢いて、例の男子学生からも、セクハラ被害を訴えられたと聞いている。
彼女は最後まで「私は悪くない!」と叫んでいたそうだが、私が警察に渡した証拠が決め手となって、叔母は有罪となった。
「……それで、どんな証拠を渡したんだ?」
叔母の裁判結果が載った新聞を見ながら、父が私に尋ねた。
母も気になるのか、バターを塗る手を止めて、私を見る。
「ただの通話だよ。知香と最後に連絡を取り合った時に、彼女に録音して欲しいって頼まれたから。それが役に立ったから、私も嬉しかったよ」
「通話の録音、か。どんな話をしたんだ?」
「教えない。知香との約束だったからね」
それだけ言ってパンをくわえると、食べながら鞄を肩に提げる。
行儀が悪いと母は怒るが、遅刻しそうだからと嘘をついて、駆け足で玄関に向かった。
廊下に出てしまえば母は追ってこないため、食べかけのパンを頬張りながら、玄関の段差に腰を下ろす。
靴を履きながら思い出すのは、父に話した知香との最後の会話だった。
あれが最後になるなんて、私だって思わなかった。
今は大変だけれど、またいつも通り電話がかかってきて、全部終わったから遊びに行こうって、また会おうって言われると思っていた。
パンを噛むのをやめて、唇を噛むと、目元がじんわりと
涙が出そうになるのを我慢しながら、靴を履き終えると、私はパンを一気に食べきって扉を開けた。
机の上に置かれた資料を片付けていると、先日の裁判で提出された、証拠のCDが見つかった。
黒い文字で「証拠Kー3」と書かれていて、素っ気ないものだ。
「先輩、これはどうしますか?」
「ああ、それは資料と一緒に保管だ。
先輩の刑事に言われて、資料箱に入れると、先日の裁判を思い出して気分が悪くなった。
自分の娘を、私利私欲のために殺した母親は、最後まで自分勝手に騒ぎ、言いたい放題言って判決を受けた。
自分の現状を見ず、子供のまま大人になったような彼女は、誰からも同情されず、共感もされず裁判を終えたのだ。
俺も仕事の経験として先輩に連れて行ってもらったが、あれほど気分の悪くなる相手はいないだろう。
写真で見た時はただの厚化粧だと思っていたが、化粧を落とすと、実年齢より二十歳は老けて見えた。
見た目や年齢だけの問題ではない。
態度も言動も、全てが子供のようで、自分を青春時代に置いたままのような人だったからでもある。
俺だって、青春時代は反抗期で親に迷惑かけたし、今だって何かにつけて心配されている。
けれどそれは、子供だからではなく、大人としてきちんとやっているのかという心配の方だ。
手に取った被告人の経歴書は、顔写真付きで細かく書かれている。
幼い頃から問題を起こしてきたらしく、結婚してからも小さな問題を起こしては、近隣住民に夫が頭を下げて回る日々だったらしい。
数年前には警察沙汰を起こし、いったん起訴されかけたが、被害者となった少女が彼女の姪であり、大事にしたくないという話し合いの結果が出たため、彼女は厳重注意で済んでしまったというのだ。
その姪にしたことと同じことを、彼女は実の娘にまで強要した。
それが受けいれられなかったため、いじめていたそうだが、娘の男友達に恋したことで
彼女は、親子ほど年の離れた男子学生を手に入れるため、とうとう娘を手に掛けてしまったのだ。
自殺を偽装したが、葬儀の席で、例の姪と喧嘩になり、夫にまで過去の悪行を指摘されて逆上。
暴れる前に姪が止めようとしたが、その際にもみ合いになり、祭壇を倒して二人は救急車に乗せられた。
二人に大きな怪我はなかったが、先輩はずっと、祭壇が倒れたことを気にしていた。
『……祭壇が、ねえ……あんな重いもん、女二人がぶつかっただけで、そんな簡単に倒れるかねえ……』
そんな言葉を残し、事件は被告人の有罪でいったん幕を閉じる。
残りの資料を箱に入れると、最後の仕上げとして、蓋を手に取った。
「控訴が通りませんように、っと」
そう言いながら蓋を閉めると、被告人のことを思い出す前に、資料室へと向かった。
――あの日、私は年末の大掃除をしていたところだった。
学校生活にも慣れて、新しい友達も出来て、いつでも知香に自慢できると思っていた頃に、彼女は泣きそうな声で電話をかけてきたのだ。
『智郷ちゃん、今、大丈夫?』
「大丈夫だけど、どうしたの? またお母さんにいじめられた?」
私が尋ねると、彼女は鼻を
あの叔母が知香をいじめていることは知っていたけれど、どうやら相当ひどいらしい。
「ねえ知香。つらいなら、うちに来なよ。お父さんもお母さんも、叔母さんのこと知ってるし、知香のことだって知ってる。お父さん達が話し合って結果が出るまで、うちに来なよ。ね?」
叔母の異常さは誰もが知っていた。
知香は何も言わなかったけれど、彼女がいじめられていることも、嫌われていることも知っていたから、叔母夫婦が話し合えるように、知香を私の家で預かろうという話が出ていたところなのだ。
しかし知香は「ごめん」とだけ言うと、声を押し殺して泣き出した。
泣き止むまで、落ち着くまで待つと、彼女はまた「ごめん」と言い、鼻を啜った。
『……智郷ちゃん。私ね、お母さんと話し合おうと思うんだ』
「それは、やめた方が良いよ。だって、叔母さん、話し合おうって言っても聞かないでしょ? もっとひどいことされるかもよ?」
『うん。だけど、このままじゃ、家族や親戚だけじゃなくて、まったく関係ない人まで犯罪に巻き込みそうなんだもの。もしそうなったら、私、絶対に自分を許せなくなる』
知香は、良くも悪くも正義感が強かった。
私が引きこもった時は良い方に向かったけれど、この時に止めていれば、彼女の正義感が悪い方に向くことはなかったかもしれないのだ。
私にとって叔母は叔母だけど、知香にとっては母親だった。
ひどいことをされても、やはりどこかで、嫌いになりきれなかったのかもしれない。
「……知香がそう言うなら、止められないよね。一度言い出したら、もう話を聞かないから」
『ごめんね……本当にごめんね……』
ずっと謝ってばかりだった知香。
それからすぐに、彼女に頼まれて録音を開始すると、彼女は泣きながら、こんな話をしてくれた。
『私ね、智郷ちゃんのことも、伯父さん達のことも大好きなんだ。確かにお母さんはどうしようもない人だけど、それでもまだ諦めたくないの。もしもの時は喧嘩だってする覚悟だし、怪我したって何したって、お母さんにわかってほしいのよ』
「そっか。でも、簡単じゃないと思うよ」
『それでも、やれるだけやってみる。それでね。もしも……もしもだけど、私が殺されたら、この録音を警察に持っていってね。それで、お母さんの目を覚まさせてあげて。お願い』
「ちょ、ちょっと、何を言ってるのよ。いくら叔母さんでも、殺したりなんてしないと思うよ。だから、ちゃんと自分の身を守って、きちんとした状態で話し合ってよ。わかった?」
『………………うん……うんっ……』
か細くなる彼女の返事は、もしかすると、自分の最期を予測していたのかもしれない。
警察に提出したこの録音は、殺されるかもしれないという知香の恐怖を充分に伝えられ、証拠として認められたものだ。
判決の時もその場にいたけれど、叔母の言動は変わっておらず、
実の娘を手にかけ、それでも悪びれない彼女を助けようとする人は、もう誰もいないことだろう。
あの時倒れた祭壇は、知香が私を助けてくれたのだろうか?
そうだとしたら、私は嬉しい。
だけど後悔は残る。
あの時、きちんと彼女を止めていれば……と。
彼女の遺体は火葬され、すでに
彼女が最期に何を思ったのか、どんな気持ちだったのか、想像してもしきれないけれど、せめてあの世では、あの世というものがあるのなら、幸せに暮らしていてほしい。
そう願って、スマホの画面を落とした。
薄暗い建物の中で、遠くから扉を叩く音が響いてくる。
「ったく、またあの女か」
悪態をつく同僚を押さえて、俺が行くというと、彼は喜んで役目を譲ってくれた。
ここは女子刑務所だが、危険性のある人物がいる場合、例外として男性看守が就く場合がある。
俺と同僚はそれに
自分勝手な理由で人に迷惑をかけ続け、挙げ句の果てには実の娘まで殺した女。
同情する気は起きないし、優しくしてやる道理もない。
それでも人権はあるので、あくまで人並みに接してはいるのだが、ここ最近は、ますますおかしくなっているのだ。
「おい、騒ぐな。罰を受けることになるぞ」
「嫌よ嫌! ここも嫌! 罰も嫌あっ!」
のぞき窓越しに目が合うが、彼女は髪を振り乱し、なおも暴れている。
ここに来てからというもの、日に日に言動がおかしくなっていて、いつ
正気なはずなのだけど、正気ではない振る舞いをするため、わざとなのか本気なのか、だんだんと判断が難しくなってきているのだ。
「お願いだから出してよお。私は
自分は悪くない、全てあの女のせいだと
何年か看守をやっていると、人の嘘がわかるようになってくる。
たとえ本当であっても、そこに含まれる嘘を見破って無視するのが決まりなのだ。
彼女の場合、嘘をついているようには見えないが、彼女がやったことは全て事実なのだ。
同情してしまえば、際限なく甘えてくるのは目に見えている。
誰に嵌められたのかは知らないが、それも自業自得なのだろう。
のぞき窓を離れて帰ろうとすると、彼女は泣くのをやめて、勢いよく扉を叩いた。
鈍く高い音が後を引く。
すっかり慣れた音を背に歩き出すと、彼女はもう一度扉を叩いて叫んだ。
「ちくしょう! あの女、最後の最期でやりやがったな! 黙って従ってりゃあいいものを、よくも嵌めてくれたもんだよ! 許さない! 絶対許してやるもんかあ!」
遠ざかる音を聞きながら、俺は廊下の隅を見つめる。
誰もいない廊下に一人
「……まったく、親子っていうのは恐ろしい」
帽子の
静かな廊下には、足音が一つ。
俺が廊下を曲がると、少女の姿はすでになかった。
廊下の先には同僚がいて、暇そうに雑誌を見ている。
「おう、終わったか?」
「ああ、また暴れてるだけだったよ」
いつものことだと椅子に座ると、俺も読みかけの雑誌を開く。
看守をやっていると、時々見えるものがある。
それが何を意味するかと言えば、子供であっても、油断はできないということだ。
ページをめくると、耳元で囁く声が聞こえてくる。
(ねえ、あの人は死刑になるの? ねえ?)
少女らしい高い声は、反対側からも聞こえてきた。
(そうなったらいいなあ。ねえ、教えてよ)
無視してページをめくると、少女は笑い出す。
答えを知っているはずなのに、意地悪く尋ねる彼女は、よほど恨みを持っていたのだろう。
あの女の独房と、看守がいる場所を行ったり来たりしては、楽しそうに笑うのだから。
少女が俺を覗きこむと目が合った。
彼女はにっこりと笑い、俺の耳元で囁く。
(あの女が死んだら、わたし、やっと助けられるのよ。ずっとずっと、あの子を苦しめてきた元凶がいなくなるの。ふふふ、楽しみだなあ)
「早く、死ねばいいのにね」
――一番怖いのは、誰?
最期の助け 逢雲千生 @houn_itsuki
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