49.周囲の女性のことを話題にし始める香

 「幻」は中宮彰子の出産後に梛の手元にやってきた。

 そしてそれ以前と以後にかけての香は見ること聞くこと、そしてその時感じたこと全てを何処かへ発信してしまいたい様だった。

 九月十日から十一日にかけての御産のことは特に詳しく文に記されていた。

 その辺りのことは左大臣から記録する様に命じられていたはずなので、おそらくその覚え書きも兼ねているのだろう。

 相変わらず「紙不足」を理由に梛に来た文は次の使いから戻されている。香が記してきたことは梛の記憶の中にしか存在しない。

 たとえば、出産前後の皆の騒ぎ様について。



「東面にいる女房達は、殿上人に混じって控えていました。

 その中で、後で思い出しては皆で笑う出来事があります。たとえば小中将の君など、左の頭中将源頼定どのとぱったり顔を合わせて、茫然としてしまったのです。普段化粧などとても行き届いて優美な人なんですが、この時には目は泣き腫らし、流れた涙で所々化粧崩れもしてしまって、出会った頼定どのも相手が誰か一瞬判らなかったとか。

 宰相の君も同じ様なことがあった様です。さて私の顔はどう見えたことでしょうね。

 ともあれ、お互いの様子は覚えていないということになっております。お互いのために」



 出産から御乳付、御湯殿といった儀式の様子も丹念に記されている。

 一応梛も定子皇后の二度目三度目の出産の時には付き従っていた。規模はともあれ、似た様なことがあったはずである。

 だが梛はその時のことはよく覚えていない。その場その場で手一杯で、香の様に記すことはできなかっただろうと思われる。

 それなりに当人も感じる所は多かったろう。その一方で状況を文章に置き換えることができる平然とした視線が存在する。

 その場その場で紙と筆を持ち、あちこちそれなりの役目を持つ人々の合間、邪魔にならない場所でじっとその様子を睨んでいたと思われる。

 そして後でこうやって文に一度まとめ…… 更にその後、梛からの反応を見て、左大臣提出用の文章にするのだろう。

 そんな話題の合間に少し毛色の変わったものが出始めた。



「先日、中宮さまの御前から下りる途中に、それまで見えなかった弁の宰相の君の局の戸口をひょいとのぞき込んだら、どうやらお昼寝中でした。

 この方がまたとても優美なのです。この時も、萩や紫苑などの色とりどりの衣の上に、濃い紅の打ち目が格別に美しい小袿を掛けていらしたのです。

 この時、彼女は顔を衣の中に引っ込めてはいたのですが、硯の筥を枕にして臥せっていらっしゃる額つきがとても可愛らしげで優美でした。

 思わず口元をおおっている衣を引きのけて『ごめんなさい起こしちゃって。でも何か物語の中の女君みたいよ』と言ってしまいました。

 すると彼女は私の顔を見上げて、赤い顔をして怒ってこう言いました。

『あなたちょっと変よ。寝ている人をこんな風に勝手に起こすなんて』

 何と言われようと構いません。綺麗なものは綺麗なんですもの。普段からも美しいひとがちょっとした油断をした時にはまた別の美しさが見えて嬉しかったです」



「本当に香さまは美しいものとか美しい女性を見るのがお好きなのですねえ」


 松野はこの内容に、やや呆れた様に言った。


「梛さまは例の『思い出づくし』の中では同僚の女房の方々よりも殿方の方に視線が向いていた様に松野には思われますが?」

「そうね」


 梛はそう言えば、と思い出す。

 確かに自分は同僚女房達よりは、男達との駆け引きの方が楽しかった。それも恋ではなく、言葉遊びをする様な類の。

 その結果として、今でも彼等は梛に何かと宮中にもたらされる内外の情報をもたらしてくれる。先日の様に「仮名物語を貸して欲しい」と頼みに来ることもある。左大臣側の女房につてを作ってもくれる。

 少しの打算と多くの友情。梛は男達の方にそれを求めた。

 しかし香はそうではないらしい。

 土御門邸に帝が行幸したことを書いてきた時にもその様な記述があった。



「小少将の君は早朝に里から戻ってきました。私達は一緒に髪を梳ったりなどしていたのですが、ついついのんびりしてしまいました。『桧扇が平凡だわ』と他の人に言って持って来てもらおうと待っているうちに、合図の鼓が鳴りまして、慌てて二人して参上したのですが、まあその体裁の悪かったこと」



 女房達の姿に関する書きぶりもどんどん筆が乗って来る。



「御簾の中を見渡しますと、禁色をゆるされた女房たちは、いつものように青色や赤色の唐衣に地摺の裳を付け、上着は皆一様に蘇芳色の織物です。ただ馬の中将の君だけは葡萄染めの上着を着ておりました。打衣などは、紅葉の濃いの薄いの取り混ぜたようにして、内側に着ている袿などは、梔子襲の濃いの薄いのや、紫苑色や、裏を青にした菊襲を、もしくは三重襲など、それぞれ思い思いです」



 ちなみにこの「馬の中将の君」というのは、和泉式部の想い人だった帥宮の正夫人―― 家を出ていってしまったひとである。香はあまりこの女性は好きではなさげだが、衣装は別らしい。



「綾織物をゆるされていない中でも年輩の女房達は、無紋の青色、もしくは蘇芳色など、皆五重襲で、ふせの襲ねなどはみな綾織です。大海の摺模様の裳の水色は、華やかでくっきり。裳の腰などは固紋をしていた人が多かったです。袿は菊の三重五重襲で、織物は用いていません。

 一方、若い女房は、菊の五重襲の袿の上に唐衣を思い思いにつけていました。ふきの襲の表は白色で、青色の上を蘇芳色にして、下の単衣は青色の者もいました。表は薄い蘇芳色で、次々と下に濃い色を着て、その下に白色を混ぜているのも、いい感じでした。

 くつろいでいる時は、整っていない容貌の人が混じっているのも見分けられるが、皆が一生懸命に着飾り化粧して、人に負けまいと競い合っている時には、女絵の美しいのにとても良く似て、老けているか若いかくらいしか判らないですね。

 だからという訳ではないですけど、桧扇の上から現れている額つき一つで容貌は上品にも下品にもして見せるものの様です。こんな中でも素晴らしく見えるのが本当に美しいひとなのでしょうね」



 そしてそんな女達に乱れ掛かる男達はやはり嬉しくない様で、五十日の祝いの時にはこの様なことも書いている。



「大納言の君、宰相の君、小少将の君、宮の内侍という順に座っていらっしゃると、右大臣が近寄って来て、御几帳の切れ目を引きちぎって、酔い乱れていらっしゃった。

『いいお年をして』

と私達がこっそり非難しているのも知らずに、女房の扇を取って、みっともない冗談をたくさん言っていたのですよ」



 そして一方、真面目な男には珍しく語りかけている。



「その次の間の東の柱もとに、右大将実資どのが寄り掛かって、女房の衣の褄や袖口を数えていらっしゃる様子を見るとほっとしました。

 私自身、酔い乱れた席であることを良いことにして、また誰であるかも分かるまいと思いまして、珍しく右大将どのにちょっと言葉をかけてみました。

 すると、今風にしゃれた人よりも、実にたいそう立派な方でいらっしゃる様でした。

 盃が順に廻って来るのを、右大将は恐れていらっしゃったのですが、実際に廻ってきた時には、無難な『千年も万代も』の祝い文句で済ましておりました」



 あの方ねえ、と梛は首を傾げた。

 右大将実資は、確かに真面目で立派な人だとは思うが、面白みは無い、と梛は思っていた。


「ところで、これは自慢なんでしょうか」


 松野は別の部分で梛に問いかけた。



「こんなこともありました。左衛門督公任どのがいらして『失礼ですが、この辺に若紫さんはおりませんか』とおっしゃいました。

 妙ですね。光源氏に似ていそうな人もお見えにならないのに、あの紫の上が、どうしてここに居りましょうか?」



 皮肉気ではあるのだが、その一方で自慢している様にも梛には感じられた。


「どうですかこんなに男性にも読まれているのですよ、って具合にかしら?」

「私にはそう見えますよ」


 このとんでもない酒宴の席がどうなってしまうのか判らないと思ったのだろう、香はその後同僚女房の宰相の君と共に抜け出している。しかしその後に左大臣につかまってしまって歌を詠ませられたらしい。

 だがその左大臣に関しては誉めている辺り、やはりこれも自慢なのか、と梛は少し勘ぐりたくもなる。

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