48.香にとって未だに源氏は『理想の男君』なのか?

「法華三十講を行った時のことですけど、お経の第五巻が五月五日の日に当たっていたので、思わず歌を詠んでしまいました。

 またその夜、篝火に御燈明がとても光り輝いて、池の水面が昼間より水底まで明るく澄んでいるところへ、菖蒲の香がすっきりと匂ってきたのでまた一首。

 とまあ、何となく浮かれていたのですが、私はこうやって少し遠くで美しい光景を見ながら気楽に詠んでいられます。

 だけど公的な場所で歌を詠むような立場の方は、身分高く美しくとも、色々と容貌とか年とか様々に心を痛めて思い乱れるご様子。

 大変だなあ、としみじみ思いました。で、またさしづめこんなものかな、と思う歌を詠んだり。

 そのうち夜も明けてきて、高欄に手を掛けて遣水にしばらく見入っていると、空の雰囲気が春や秋の霞や霧にも劣らない程美しくなってきました。何となく一人で見ているのも惜しくて、同僚の小少将の君を誘って一緒に簀子に降りて座って空を眺めていました。

 そして二人してまた歌を詠み合ったり。

 この小少将の君という人がまた可愛くて。辺りが明るくなったのでそれぞれ局に引き取ってから、あやめの長い根を包んだのを贈ってきたのです。歌を添えて。そしてまた私も歌を返して。

 可愛らしい女性はいいですね。歌一つ見てもうきうきします。それにまたこのひとがちょっと強い風が吹いたら崩れ落ちてしまいそうな風情で…… 頼りにしてくれていると思うと嬉しいです」



 案外順応しているじゃないの、と梛は思った。当初は人前に出るなんて絶対嫌だ嫌だ、と言っていたはずだが。

 頭は回るので、以前桜の取り入れの時に伊勢大輔を代わりに差し出した様に何かと言い訳をつけて公的な場所で歌を詠む様なことから避けているのだろう。

 そして土御門邸では場所と時間の余裕もある様で、どんどん物語の続きも書いている様だった。

 「若菜」上下巻で恐ろしい不始末をしでかしてしまった女三宮と衛門督。そしてそれを源氏が知ってしまった。

 そしてまた、源氏が気付いてしまったことに二人とも怯える。

 源氏は宴の席で衛門督をじっと見据えて嫌味混じりに酒をすすめる。衛門督は気分が悪くなり、戻ったその日から寝込んでしまう。

 一方女三宮は何か弁明ができる訳でなく、日々言葉で責められる。それがやんわりとしたものであったとしても、元よりその様な事態に慣れていない彼女は毎日が針の筵の上に居る様なものだった。


「うわ、陰険……」


 口に出して読む松野も、聞いている梛も同じ引きつった様な表情になる。


「衛門督の心は確かにもろすぎるとは思いますが、それ以上に源氏がひどいですよね、梛さま」


 全くだ、と言う様に梛はうなづく。さすがにこの展開では密通した二人に同情したくなる。


「特に女三宮が可哀想よ。勝手に忍び込まれて関係を持たされて、それで密通したの何のと言われて…… 懐妊してしまったと言っても、身体に文句は付けられないし。そもそも手引きする女房や気付かない女房だって悪いじゃないの。もともと軽々しい女房達だと源氏も思っていた訳じゃないの。ちゃんと源氏も女房達に徹底させれば良かったのよ」

「高貴な女人にしては不注意だ、という指摘は確かにありますけどが…… それだけじゃ……」


 まくしたてる梛に、ようやく松野も言葉を差し挟む。


「ああでも、女三宮が出家してしまったことに関しては、やったな、と思うのよ。ちょっと喝采を送りたいくらい。だって、これで何だかんだ言っても源氏は手が出せないわ。帝の妃に手を出しても気丈でいた源氏だって、御仏に対してまで平然として背くことはできないでしょ」

「密通はできても、尼君にはさすがに、ですね」

「あ、ちょっと待ってよ。ということは逆に言えば、女君達は出家さえすれば源氏から逃れ…… あれ?」


 言いかけて梛は眉を寄せ、首を傾げた。


「今私、何って言った?」

「源氏から逃げ、と」

「そうなのよね」


 梛は自分の言いかけたことの意味を思い返す。考える。


「そもそも源氏は光君だった時点では『理想の男君』だったはずよね。誰もが憧れる」

「ええ、その時点では」


 松野も梛の言いたいことを理解したらしく、あえて強調する。


「今ふと思ったんだけどね、香さんにとってはどうなのかしら」

「香さまにとって?」

「あのひとにとっては未だに源氏は『理想の男君』なのかしら」

「……何となく、若君すら妙な矛先を向いてますよ」


 松野は顔を奇妙に歪める。

 「柏木」の巻で、女三宮の出産と出家後に衛門督はとうとう亡くなってしまう。そして源氏の手には衛門督と女三宮の間の子が残される。

 そして衛門督の友人だった若君は、妻の女二宮のことを遺言で頼まれ―― これが後に、また問題を引き起こすのだ。

 「横笛」「鈴虫」そして「夕霧」の巻に至っては、とうとう筒井筒の仲で結婚した北の方が実家に戻ってしまう始末である。


「本当に一つの大きな出来事が、安定していたはずの六条院の様子を一気に狂わせてしまいましたね」


 松野はそこに至った時、しみじみと漏らした。


「でも実際、人間同士ってそういうものでしょうね。何かあればそれだけで済むって訳じゃなく、それに関わったもの全てが何かしらの影響を受けてしまう」



 そして駆け足で香は「御法」「幻」と書き続けた。走り出したら止まらない、という勢いで。

 紫の上の死と、それによって抜け殻の様になってしまう源氏の姿をこれでもかとばかりに。

 だが不思議と、梛はかつて「葵」の巻に見た様な悲しみをこの文章の中からは見つけることができなかった。

 「幻」など、一年かけて延々悲しみ続け、最終的には出家を決意する源氏の姿を描いている。なのにそこには奇妙に白々とした光景が広がっている様に梛には感じられるのだ。


「それはやはり、あくまで他人の悲しみを書いているからではないですか?」


 そうかもしれない、と松野の言葉に梛は思う。

 ちなみに最後の巻を送ってきた香は物語のことにも少しだけ触れていた。

 だがそれは内容ではなく。



「『幻』の最後の方で、九月九日の菊の節句の所で、綿被いした菊のことが出てますよね。実はこんなことがあったのです。

 九月九日に、菊の綿を同僚の兵部さんが私の元に持ってきて言ったのです。

『これを、殿の北の方倫子様が、特別にあなたに。『たいそう念入りに、老いを拭い捨てなさい』と、仰せになりました』

 それで私は返しに歌を詠んでみたのだけど、結局北の方さまは向こうにお帰りになってしまったということで、渡せず仕舞い。せっかくの殿の北の方のご厚意なのに残念なことをしました。

 せっかくですので、物語のちょっとした所に使わせていただきました」

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