21.宣孝の一挙動に戸惑う香

「本当に何とかしたのね……」


 三月の賀茂祭、藤原宣孝は舞人に選ばれた。梛はまるで気にしていなかったが、彼は歌舞ではなかなかのものだったのだ。


「少納言さん、知らなかったの?」


 一緒に見物する同僚の一人が梛にそう言った。


「三年前の臨時の祭りの時には神楽の人長を勤めてらしたじゃないの」

「……そんな昔のこと、忘れたわ」

「御獄詣のことをあえて書くあなただから、気でもあるのかと思ったのだけど」


 ねえ、と同僚達は顔を見合わせた。


「駄目駄目。あの方、最近新しいひとを加えたってことだから」

「あら、私はこの間一人と別れたとかそういう話を聞いたけど」


 どれも本当だろう、と梛は思う。彼があの時の言葉が本当だったとするなら。

 舞う宣孝の姿は春ののどやかな風の中、袖に風をはらみ、堂々として梛の目にも素晴らしいものと映った。



 同じ年の十一月、宣孝は再び舞人に選ばれ、既に香は彼との生活を始めていた。

 そしてそれまでとは調子の違う文が梛のもとに届く様になった。


「……とても物語どころではありません。

 ともかく私の心は今、かき乱されかき乱され大変です。

 家のことをあれこれしようと思います。あの方が仕事から戻ってくる前に、色々としなくてはならないことがあります。

 でもどれからしなくてはいけないのか判らないままに時間が過ぎ、いつの間にか夕暮れになってしまいます。

 そう、いつの間にか。

 私は何だかひどくばかになってしまった様です。

 野依がこんなに頼りになるとは思ってもみなかったことです」


 彼女は今まであの苦労性の乳母子をどう思っていたのだろう。思わず梛はため息をついた。


「そう言えば以前にいただいた、中宮さまの元での物語についての話を書き留めたもの、ありがとうございました。

 参考にしたいのは山々なのですが、ともかく今の私にはそれどころでは無いのです。

 今まで私が想像してきたこととは全く違うことが、目まぐるしくやってきます。

 梛さまも、結婚された頃はこうだったのですか?

 背の君がやって来る来ないで、こうも気を揉んだりしたのですか?

 私はあの方が好きとかどうとか正直、今でも判らないのです。でも気がつくと、毎晩あの方を待っているのです。

 いえ、晩だけではありません。あのかたが昼間、仕事が早く終わったとか何とか言って、花を一枝手にして私の元に戻ってくるのを待っているのです。

 判ってます。ずっと昔から、私はあの方が同じ様な手を使って、他の女性にも笑顔を振りまいていたのを。

 今でも何処か、私の知らないところで振りまいているのかもしれません。それを思うと胸の奥がかあっ、と燃える様に熱くなります。なのにあの方が戻ってきて、笑いながら抱きしめてくれると、どうでもよくなるのです。

 あのかたは何かというと私を側に置きます。夜は言わずもがな、昼間でも、小さな女の子をそうする様に側で絵を見ます。膝の上に抱きかかえてくれます。頭を撫でることもあります。

 困ったことに、私はそんなあの方の手を、とても心地よく思ってしまうのです。

 こんなのは私じゃない。

 殿方に子供の様にあやされるなんて、それでひどく落ち着くなんて、そんな女じゃあなかったはずなのに!

 だけど現実、私はあの方の手のぬくもりに安らぐ思いなのです。

 何なんでしょう梛さま。

 私はどうかしてしまったのでしょうか。

 そのせいなのでしょうか。物語が一文字も書けません。

 ですがそう、あの光君―― あれは、源氏にしようと思います。

 中宮さまはじめ、皆様のおっしゃること、非常に面白く、また、私が全く思いもよらなかったことばかりなので、目からうろこが落ちる思いでした。

 『うつほ』の勝利者が源氏であることに、私は何の疑問も抱いていませんでした。だから正直、光君は不遇な宮の一人にしようかと思っていたところです。その方が自由が効くかな、と。

 でも考えてみれば、同じ帝の御子であっても、宮の一人よりは、源氏に下ろした方のほうが、もっと話に広がりが出ますね。

 それを考えに入れた上で、光君の父君母君の話をまず書いてみようと思ったのです。そう、『うつほ』の『俊陰』の巻の様なものです。光君の話を長々と書く前に、成長するまでの話を。

 なのに、筆が止まっています。

 内容はこんな感じです。

 光君の母君は女御ではなく更衣でした。たいそうな寵愛を受けました。まぶしいまでのご寵愛でした。まるで白楽天の長恨歌の様に。だけど長恨歌よろしく、まぶしすぎるそれは、周囲から非難のもととなりました。更衣はそのせいで心痛で亡くなってしまうのです。

 その様な調子のお話を考えているのですが、どうしても言葉がうまくつながってくれないのです。

 こんなことは初めてです。信じられません。

 私にとって思いついたことを書くのは容易いことのはずです。息をするのと同じ様に。なのに、それができないのです。

 どうしてなのかも判らないのです。

判らないから何かひどく恐ろしいのです。

 怖いのです。心底震えが来ます。

 だけどあのかたが大丈夫大丈夫と頭や背を撫でてくれると―― そんなことは、どうでもよくなるのです。

 梛さま。

 私は一体どうしてしまったのでしょうか?」


 香は自分が初めて持つ感情に戸惑っているのだろう。梛は思う。

 文の様子からも、宣孝が香をずいぶんと可愛がり甘やかしている様子が伺える。

 だがその彼の行為が、あまりにそれまでの自分には縁の無いことだったので、どう反応していいのか判らないのだ。

 恋や愛かどうかはさておき、自分に与えられる、ただただ柔らかで暖かい手。

 それをどう掴んでいいのか、彼女はまだ、図りかねているのだ。


 それでも生きているならいい、と梛は思う。


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