18.「形代の姫君」の背景を皆で考えよう

 その後しばらく、その「あのかた」の文の様子など細々と記していた。

 特に驚いたのは手紙に朱を散らして「これは私の血の涙です」と書いてきた、ということだった。学者の父親しか見たことの無い彼女にはそれはなかなかの衝撃だろう。露骨過ぎて興ざめぎりぎりのところだ。洒落男の宣孝でなかったら、さまにはならないだろう。

 しかし、正直途中から、退屈になる程だった。香の文は、呆れようが嫌になろうが、ついつい読ませてしまう力を持っているはずなのに、珍しいことだった。

 何てことはない。香の気持ちは明らかに宣孝の方に向いている。迷っている素振りを取りたいだけなのだ。

 それまでの自分の感覚とあまりにも違う気持ちが芽生え初めているのを、信じたくないのだろう。

 最後にそのひとのことを梛がどう思うか訊ねていた。

 梛は無難に「もう少し様子を見たら」と返事をした。

 それ以外に何が言えただろう。

 下手に何処其処で会いました、話をしましたと正直に言ったとしたら、今の香は邪推しかねない勢いだ。

 その調子の文が、やはり物語の話と共に送られてくるだけが、その年から翌年の彼女だった。


「呑気でございますね」


 松野は文を読むたびに複雑な顔をしている梛に言う。彼女のもとにも、野依から文が来るという。


「いつもうちの姫さまがそちらの奥様にすみません、とそればかりなんですよ。判ってはいるんですねえ。それでも止められないんですから」


 まあね、と梛はうなづいた。


「あちら様からのお文は結局、物語のことと、前筑前守さまのことばかりの様な気がします。失礼ですが香さまは、向こうでは何処も見に行ったりはなさらないのでしょうか」

「そりゃまあ、庭の雪山さえ楽しむことができないんじゃね」

「それ程田舎がお嫌なら、都にお残りになっていれば良かったものを。忙しい梛さまに愚痴ばかりおこぼしになって」

「お前も愚痴に感じる?」

「愚痴ですよ。結局香さまは、何も悩んではいらっしゃらないんじゃないですか?」


 松野はそう言って眉を寄せた。


「私も愚痴だとは思うのよ」

「嫌だとは思わないのですか?」

「思うわよ」


 松野は黙って口を歪ませ、肩を退く。


「言いたいだけの人には言わせておくほうがいいわよ」

「そういうものですか?」

「宮中の愚痴に比べれば可愛いものよ」


 そう。宮中のそれに比べれば。



 長徳三年の後半に入っても、世間は騒がしかった。

 重陽の節句が無事済んだと思ったら、太宰府から急報が入った。高麗の賊が西岸にやってきたという。

 それだけではない。十月、高階貴子の一周忌が終わったと思ったら、今度は南蛮人が壱岐・対馬を襲ったという。

 内裏では、普段は物事にそう動じないと言われている左大臣道長が、やや感情的な口調であちこちに指示を出していた。

 そんな内裏の空気は後宮にも伝わってくる。

 しかし中宮定子の周囲は以前よりやや落ち着いてきた。

 たとえば、東宮の淑景舎の君は、姉中宮の元に以前より足繁く遊びに来る様になった。そして少しだけ決まり悪そうな顔で言う。

「妙な言い方になるかもしれませんが、お姉様と昔の様にお話がし易くなったことだけは、私、何だか楽しいのです」

 華やかだった頃には、彼女と中宮が会うこと自体、非常に仰々しくなりがちだった。だが今は。



 「形代の姫君」の話は、あれからあちこちに回っていた。

 長いものではなかったので、気軽に筆写されている様である。そのことを書いて送ったら、香は「次ができたらまた回してくださいね」と単純に喜んでいた。


「あれは不思議な話ね」

「中宮さまのお気に召されたなら、書いた当人も喜ぶでしょう」

「そうかしら…… そうだといいわね」


 中宮さまは首を傾げた。


「でも、好きというには少し微妙なところね。皆はどうだった?」

「素敵な話だと思いました」


 若い一人が即座に言う。


「そうかしら。少し安易すぎない?」


 別の一人が言う。


「お話ですもの。それでいいと思うけど」

「そうよね、お話ですものね」


 中宮さまはうなづいた。


「ねえ少納言、あのお話には、続きがあるのかしら?」

「当人は書く気満々でございます。できましたら送るから回してくれ、と」

「あらあら」


 皆で顔を見合わせて笑う。


「頼もしいこと。そうね、あのお話の中では、私は姫君の周りの人々がいいわ」

「姫君の周り、ですか?」


 あの話の登場人物。

 男君。香が「あれは光君のつもり」と言った。

 男君の従者。形代の姫君。姫君の祖母の尼君。その兄の僧。


「尼君とか…… ですか?」

「ええ、姫君はまず可愛らしいわね。男君と出会うまでは。雀の子を女童が逃がしてしまったって涙ぐむあたりはとっても素敵」


 それは梛も同感だった。可愛らしい少女が涙ぐんでいるところは、身分の上下なく美しいと思う。


「その姫君が懸想している手の届かない人にそっくりだと言うので、男君は確か尼君に姫を申し込むのでしたね」


 物語を読んだ女房が中宮の言葉を求め、うながす。


「そう。でも私、そのあたりはあまり好きではないのよ」


 皆はその答えに首を傾げる。


「どうしてですか? 愛しいひとの面影を宿す美しい少女……」

「そこなのよ」


 中宮は軽く手を合わせ、やや神妙な顔になる。


「どうして男君は、その『手の届かない方』の面影を追うことができたのかしら」


 え、と皆きょとんとして顔を見合わせる。


「だって手の届かない方よ。お顔を見ることができたのかしら?」


 そう言われてみればそうだ、と梛もはっとする。


「ということは、少納言、またそこから色々想像ができるのではなくて?」

「……男君は、その手の届かない方に既に会っているということですか?」


 梛は少し考え、自分なりの答えを出す。


「そうかもしれないわね。垣間見…… いいえ、面影を追えるというのは、姿をちゃんと見知っていなくてはならないということよ。少納言、そのあたりはどうなのかしら。作者さんは何かあなたに教えてくれた?」

「いいえ、その相手が誰か、ということはまだ私にも秘密だそうです。ただ次の話の構想は少し……」


 すると中宮も女房達は皆、梛の方へ身体を乗り出してきた。


「どんな話かしら」

「……それがどうもあまり縁起のよいものではないのです。ですから中宮さまのお耳に入れるのは何かと……」

「でもお話よ」

「はあ……」

「煮え切らないわね、少納言。『うつほ』の話をしていた時には、新帝の母后のあられもない言葉まで堂々と口にしたあなたが」


 それを言われると身も蓋もない。


「ほら、どう?」


 にこやかに続きを促す中宮に、仕方がない、と梛は切り出した。


「まず、あの男君には正式な妻がいるようなんです。時の大臣の娘です。左か右かは判りませんが」


 皆一斉にうなづいた。中宮は少し考えると、口元に指を当てた。


「ということは、男君は身分が高いか、相当期待されている人ね」

「はい。ですが夫婦仲はあまりよくないようです」


 あらまあ、と皆顔を見合わせる。


「それはその、男君の手の届かない人のせい?」

「その様です。高貴な方、としか書いた本人は明かしてくれないのですが」

「でも高貴な方を垣間見でもできるとしたら、その男君もかなりの身分ね」


 中宮は納得した様にうなづく。梛はそこに一言切り込む。


「ちなみに男君には別の通う女性もいます」


 はあああ、とため息やうめき声が皆から漏れる。


「その女性は、何でも『かげろうの日記』の作者の様な方を想像しているようです」

「それは激しいわ!」


 即座に反応した一人は「かげろうの日記」の愛読者だった。


「高貴で気位の高い女性の様です」

「でしょうね…… で、何かするの? そのひとが。それとも憎らしい憎らしい、って文を書いたりするの?」


 愛読者の女房はわくわくした顔で問いかける。


「態度には直接出さないようです」


 なぁんだ、という空気が周囲に漂う。


「ただ……」

「ただ、なぁに?」

「その、男君の妻に、子供ができるのです」

「あら少納言、仲が良くなかったのではないの?」


 中宮は不可解だ、という表情で問いかける。


「そのあたりは書いた本人に聞かないと…… ともかくできてしまったようです」


 ぷっ、と誰かが吹き出す。


「で、これがきっかけで冷えていた仲も良くなりかかるのですが……」

「邪魔が入る!」


 先程の「かげろう」愛読者の横やりが入る。そうなの? と中宮も目でうながす。


「はい。入る様です」


 どんな風に、と皆が梛の次の言葉を待つ。


「それが…… その…… 呪うのです」

「呪う!」


 ひゃっ、と声が漏れる。中宮もそれには息を呑む。

 中宮の兄は、禁じられている呪法を行ったという罪で流されたのだ。呪いという言葉にはやや敏感になっている。

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