17.「にくきもの」と香が兼雅を嫌いな理由
さてそれからというもの、香からはそれまで以上に長い文が届いた。よほど越前国はつまらないのか、それとも何やら心にわだかまるものがあるのか。
ただし文だけである。それ以外の何もついてこない。それがその頃の梛を妙に苛つかせた。
そんな折に「そちらの様子はどうですか」と脳天気に聞かれたところで、いい返事が出せる訳がない。そのくらい察しろ、と言いたいところだが、あいにく梛は香にその様な気持ちを期待できない。
彼女は自分の憂さを晴らすべく文を送って来る。そしてこちらに都の様子を訊ねて来る。何か新しい物語は出ましたか、と問い掛けてくる。
うるさい、それどころじゃあない。もし本人が目の前に居たら、そう怒鳴りつけたかった。
だが幸運にも、彼女はここにはいない。梛は代わりにこう書く。「にくきもの」として書き連ねる。
「急用がある時にやってきて、長話をする客。
硯に髪の毛や石が入ってる時。
急病人のために求めた修験者が疲れたとばかりにいい加減なもの……
……人をうらやみ、自分を可哀想がり、あれこれ他人について詮索するひと……
……眠い時にぷーんとやってくる蚊!」
そして、ついこう書き出してしまった。
「……話をする時に出しゃばって、自分一人話の先回りをするひと!
……手紙の言葉がぶしつけなひと!」
梛は文は嫌いではない。むしろ好きだ。大好きだ。
もし文という手段がなかったら、どんなに気持ちが暗くなるだろうか、と思わずにはいられない。
色々なことを思い続け、相手のところへ細々と書き付け、出した時にはそれまでの気がかりもすっと晴れる様な気がする。
人が捨てた文を破ってあるのをたくさん見つけた時、失礼だとは思うが、ついつい拾って読んでしまい、「次はどうなるのかしら」と思ったりすることもある。
それだけに、文に対して大ざっぱな気持ちしか持たない者には、苛立ちを覚える。
憂さ晴らしだとばかりに、「興醒めなもの」も続いて書き付ける。
昼間吠える犬……とか細々書いているうちに、またつい、文のことが現れてしまった。
「……地方からこっちに寄越す文に贈り物がついていないのは何って興醒めなんだろう。こっちからのはいい。都の面白い情報をたくさん書いてあるのだから。だけど向こうからのは」
これは明らかに香を想定して書いたものだ。
本当にこの時期、彼女からの文は梛を苛立たせてくれた。
「雪ばかりです!
毎日灰色の空ばかり。女房達は魚が美味しいとか、雪山を作ったりとかしていますが、私にはちっともそんなこと面白くないです。
都が恋しいです。
何のにぎわいも、楽しい噂話もない。
もし新しい物語が出回っても、すぐに手が届かないのがはがゆくって仕方がないです。
仕方なく、自分で少しづつ書いてます。
またまとまったら読んで下さいね。今書いているのは、この間の、光君と思って書いた男君の続きです。
実はこの男君にはきちんとした妻が居ます。時の大臣の娘です。
でもあまり仲がよろしくないのです。彼の気持ちはもっと遠くの誰かにずっと注がれているのです。
もっともそれが誰か、というのはまだ私の心の中だけの秘密ですけどね。高貴なかた、とだけ明かしておきます。
その妻に子供ができます。それまでしっくりしなかった二人の仲が、これをきっかけに変わろうとしていたところに、他の女の邪魔が入ります。
彼の他の愛人です。それもまた、高貴で気位の高い女性なのです。気持ちの熱さは、先年亡くなられたかげろうの日記を書いた方の様な女性を考えています」
ああ、あの方か、と思い当たる。それは実に重い。
「けどあの方と違い、態度に出すことができないから、どんどん気持ちが奥へ奥へと入り、やがて男君の夢に出てくる生きすだまとなり、ついには妻のほうを取り殺してしまうのです。
どうですか梛さま? こういうの、面白いと思いませんか?」
面白いか、と問われても。
何と言うか、そんな話、読んでいて気が重くなる。梛は思った。
特に、この妊娠中の妻が―― 出産してからかもしれないが、取り殺されるわけだ。
中宮の懐妊中に書く文ではない、と梛は思わず、その文を破り捨てそうになった。
が、それはやめておいた。捨てた文を、また誰か別の者が面白がって読むだろうことを考えると、それはそれで腹が立つ。
そんな気持ちが、梛に「にくきもの」や「興醒めなもの」の中に書かせたのだろう。
ところがその文の様子が、ある時から微妙に変わってきた。
「また『うつほ』の話とお思いでしょうが、最近少し考えが変わってきまして。
ああでも、兼雅が嫌いなのは同じなのですよ。
全く、三条の北の方を迎える前に関係していた女君達のことを何だと思っているのでしょうか。
確かにあの北の方は素晴らしいです。彼女に惹かれてそれ以外に目が行かないというのも理解できます。けどそれとこれとは話が別です。
正妻だった嵯峨院の女三宮。彼女には娘の梨壺の君が居るからもういい、と言うのでしょうか。違うのではないでしょうか。私は思います。彼女はあきらめたのです。あきらめざるを得なかったのです。
それでも兼雅に直接引き取られた方々はまだいいです。私は最近、
按察使の君。またずいぶんと細かいところに視線を移したものだ。
彼女はあて宮の懸想人の一人だった仲頼の妹だ。そして兼雅が一条に囲っていた女性の一人でもある。
父の妻妾の居る一条院のことを気に掛けだした頃の仲忠が、親友の妹である彼女の存在を知り、引き取ったのだ。やがて仲忠は彼女を妻の女一宮の側に仕えさせる。自分ほどに娘を可愛がりはしない妻の代わりに面倒を見てやってくれ、と頼む。
つまりは召人にしたのだ。
確かにそのあたりは梛も気にはなっている。元々父の女君であった人であり、親友の妹だ。失恋で出家してしまった友の代わりに世話をしてやったとも言えるが、……彼女を自由にできる立場でもある。
「義理の息子からその様なことをもし仕掛けられたら、いくら兄の親友であって、当代一の公達であったとしても、……私だったら、嫌です。私は―― 私一人を思って欲しいのです」
ん?
「梛さまはきっともうお聞きになっているのではないでしょうか。私に妻問いを願っているかたのことを。
ご存知でしょうから、あえて名前は書きません。
もうこちらに来る前から、ずっと文を送られています。面倒でうるさくて、どうしようもないと思ってたから、お父様について越前にまでやってきました。
……ええ、父の見張りなんて、所詮言い訳です。私はあの方の文が怖いのです。
お父様はいい縁談だ、と向こうの方には許したそうです。私の気持ちが打ち解けた時に、ということだそうですが。
だから私、ともかく手ひどく最初は断り続けました。
梛さまは男君を、……夫君をお持ちでしたよね。怖くはなかったですか?
私は怖いです。何がと言って、一番怖いのは、今の自分の暮らしががらりと変わってしまうことです。『姫』の暮らしと『妻』の暮らしは明らかに違うでしょう。それまで自分のこと、せいぜいがお父様のこと…… 弟のことも少し…… その位でした。
けど…… それだけではありません。男の方の、あの強引なまでの―― いえそれはあのかただからでしょうか。お父様と同じくらいのお年だというのに、……呆れます。まるで兼雅です……」
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