第20話 英雄へ至る物語
光が見えた。
水底に沈んでしまったかのように、辺りは昏かった。ただ、見上げた天辺だけが、淡く輝いている。
誰かが呼んでいる。
理由はなく、唐突にそう感じた。
次第に浮上していく。体が。意識が。
天井が近い。
ああ――そうか。
理解する。
微睡みの終わりが、やってきたのだ。
もうすぐ、目覚める。
やっと――
◇
「――――あか、るい」
目を開けたアルが最初に出した声は、それだった。
見慣れた場所。毎日見る景色。窓から差し込む光も、漂う匂いも変わらない。自分の部屋だった。
ありふれた日常の光景。だが、アルには不思議と、それらの何もかもが輝いているかのように見えた。
「あ――――うっ……」
起き上がろうとして、体が軋んだ。
「……でも、痛みは、ほとんどない」
少しずつ頭が冴えてくる。それに伴って、アルは寝台に座ったままで、腕を回したり伸ばしたりする。多少の痛みは感じる。だけど、それは強張った筋肉を伸ばすときに感じるものとほぼ変わらないものだった。右手も、左手も問題なく動く。
「そう言えば……」
意識の覚醒と共に、経緯もはっきりと思い出してきたアルは、自分の左手を見た。広げて、閉じる。曲げて、伸ばす。問題なく動く。傷もない。
「あいつに――魔獣に、噛み千切られたような、感じはあったんだけど……」
思えば、それ自体は曖昧だった。激しく噛み付かれたのは間違いない。ただ、そこから先は、痛みとそれによって感覚は麻痺していたし、意識もほとんど夢見心地のようだった。強く噛まれたことで動かせなくなった左腕を、噛み千切られた、とそう思っただけだったのかもしれない。
「……傷も、ないし。誰かが、魔法で治してくれたのかな」
改めて確認すると、体全体で傷はほとんど残っていなかった。そう想像するのが無難だった。
「とにかく……起きよう」
思考も体も問題ないと分かって、アルはようやく寝台から降りた。立つと微かにふらついたが、問題なさそうだった。
一人であれこれと想像をしていても、意味がない。自分が今ここにこうしている。それがある種の答えではあったが、まず今がどうなっているのか、それを知る必要がある。
アルはそう考えながら、まっすぐに部屋の外に出た。
きぃ、と扉が音を立てた。ぎし、と床が鳴った。それは紛れもない日常の音。アルは改めて、自分が帰ってきたのだと実感した。
廊下を進み、階段を降りようとする。そこで、階下の人物と目が合った。シェンナだった。
「あ……お兄ちゃんっ!」
シェンナはアルを見るや否や、階段を駆け上がってきた。手に持っていた、おそらくは店の商品らしきものが入った籠は、横に放り投げられていた。
「もう、大丈夫なのっ!? ずっと、寝てたんだよ」
体当たりかと思う距離まで詰め寄ってきて、シェンナはそう言った。上目遣いに見てくる瞳には、普段の小生意気でませた子供の表情はなく、兄を素直に心配するような色が溢れていた。
「うん。多分、大丈夫だよ」
「多分? 多分なの?」
「いや、えーと、絶対とは言えないけど。まぁ、大丈夫。体も動くし」
言って、それを示すように伸びをした。実際、普段通りの動きであれば、問題なくできるという感覚は確かにあった。
「そっかぁ……よかった」
「シェンナ……」
視線を下に、こもらせながら呟いたシェンナの頭を、アルは下ろそうとした手でそのまま撫でた。
「心配かけたな」
「……そうだよ。シィが、連れて帰ってきてくれなかったら、あたし泣いてたよ」
「悪い」
素直な妹の頭をくしゃくしゃに撫でる。普段は子供扱いをされるのを嫌がる妹だったが、今はそれを受け入れるようだった。
「ずっと寝てたって、俺はどのくらい寝てたんだ?」
「昨日戻ってきてから、そのまま。だから、ほぼ一日ぐらい、かな」
「そうか」
言われて納得する。部屋の窓から差し込んでくる光は、朝のそれではなかった気がしていたからだ。ただ、「ずっと」と言われて連想したように、数日や数週間寝込んでいたわけではなく、どこかほっとする。
「その、みんなは? シィは、いるのか?」
「あっ、うん! みんな下にいるよ。お母さんも。みんな、お兄ちゃんのこと心配してたんだから」
「そっか。みんなのところに、行かないと」
シェンナは頷くと、くるりと回って先導するように階段を下りて行った。アルはそれに付いていく。
「お母さん! お兄ちゃん、起きてきたよ」
先を行くシェンナの声が聞こえてきた。それを受けて、階段を下り終わったアルをクレアが出迎えた。目が合った瞬間、母の表情が安堵し、和らいだのを感じ取った。
「……アル。もう、体は大丈夫なの?」
シェンナと同じことを聞かれ、アルは同じように答えた。体も動かして見せる。心配げに伺っていたクレアだったが、それが強がりでないことを察したのか、眉の角度を更に下げた。
「心配したのよ。シィがいなかったら、どうなっていたことか」
「ごめん。心配かけて」
「――お店にクロードさん達も来ているから、顔を見せてきなさい」
「うん。そうするよ」
居住スペースを出て、アルはクーベルク商店の店内へと入る。
既に夕方に近いのか、店内は夕焼け色に染まってきていた。並べられた瓶や道具が、それを受けて輝いている。改めて日常を実感する。
「アル! おう、起きてきたか!」
出てきたアルにすぐ気づいたのは、クロードだった。初めからアルの方へ目を向けており、クレアの動きでアルが目覚めたことに気づいていたのだろう。
クロードはそのままアルの方へすたすたと歩いてくると、その背中を叩き、肩を組むようにして引き寄せてきた。
「く、クロードさん。苦しいって」
「おうおう。心配してたんだぞ。体は問題ないか? 怪我は残ってないか? レインと眼鏡の姉ちゃんが治癒魔法かけてたみたいだが、足りなさそうだったら、遠慮なく言えよ」
べたべたと体を触ってくるクロードから、アルは身をよじって逃げようとする。だが、クロードはしつこく離してくれない。
「クロード、アルくんのことすごく心配してたのよ。自分が付いていたのに、危ないことをさせてしまった、って」
「おい馬鹿。やめろ」
「本当のことじゃない。何年甲斐もなく照れてんのよ」
「リーダーも案外初心っスね」
「うるせえ!」
思えば、こうしてレインからいじられていることも含めて、クロードの様子は普段とは違うようだった。それがどうにも面白くて、アルは噴き出していた。
「お前も何笑ってんだよ!」
「あはは。いやごめん。クロードさんがいつもと違ってて。ごめん、心配かけちゃった。それに、勝手に行動して、ごめん」
「んー……まぁ、あれだ」
アルを拘束していたクロードの腕が外れる。クロードは代わりにそのまま腕組みをしていた。
「お前の判断は、間違いじゃなかったよ。あくまでも、今お前が無事でいる、っていう結果論でしかないがな。まぁ、おかげで俺らも、町も助かったのには違いない」
「そっスね。アル君が引き付けてくれたおかげで、間に合いましたし。あのでかいヤツと戦ってたら、僕達のうち誰かはやられてたっスよ」
「結局、何も動くことはなかったけれど。それはそれで結果よければ何とやらってことよね」
「……まぁ、ああいう事をまたやれなんて、俺は口が裂けても言えねえが……。アル、お前はよくやったよ。俺達が助けられたのは間違いねえ。感謝する。町も無事だ。お前は……そうだな。ジークさんみたいに、町を守ったってわけだ。お前も同じだよ。ジークさんはそう言われるのを嫌がるだろうし、あんまり言うこともねえとは思うが、お前もこの町の英雄だよ」
アルは胸が熱くなるのを感じた。
かつて、アルは父のようになりたいと思っていた。今はそれだけではなくていいと気づき、アルも自分自身の願いを持っている。
それでも。父のようだと。そう言われて、嬉しくないはずがなかった。それでいて、父の成せなかった、生きて帰ってくることも、成し遂げられたのだから。
「しっかし、アルが一人で飛び出していったときには驚いたが、シィちゃんが助けに行って、実際に助けて戻ってくるなんてな。いや、シィちゃんは確かに底が知れねえとは思っていたが、まさかなぁ」
「本当、驚いたわね。あの子、アタシ達より普通に強いんだもの」
「アル君の話で前から聞いてはいたっスけどねぇ。いやー、本当にカッコよかったっスね。シィちゃん、冒険者に向いてるんじゃないっスか」
「……そうだな。お前と交代するってのはどうだ?」
「なんでトレード前提の話なんスか!?」
「大丈夫。道具屋さん、似合うと思うわよ」
「お前、落ち着いた仕事をしたいってよくボヤいてたじゃねえか」
「いやそうっスけど! クビ切るのあっさりっスよね!?」
「冗談よ。冗談。多分」
「多分ってなんスか!?」
「まぁ、グレアーの冗談はさておき」
「え、僕が冗談を言った体になってるんスか!?」
「シィちゃんもこれからは忙しいだろうからな」
「――あの、クロードさん。そのシィなんですけど」
三人の小気味のいい会話に入り込むようにして、アルは言った。
「今は、どこに?」
アルは初めから、あの少女の姿を探していた。戻ってきた、いつもの日常。だけど、いつも隣にいてくれたあの少女の姿だけが足りていなかった。アルは、誰よりもシィに会いたかった。
「ああ、シィちゃんなら、あの眼鏡の姉ちゃん……あー、セレナと話してるんじゃなかったか?」
クロードは言って、周囲に同意を求めるように首を回した。
「うん。シィ、セレナって人と話があるからって、外に行ったよ。それまで、ずっとお兄ちゃんのそばに居たんだけど」
それに答えたのは、シェンナだった。シェンナはほんの少し、気まずそうな、何か奥歯にものが詰まったような、言い方をしていた。
アルはその違和感に、少しだけ首を傾げた。
しかし、クロードや他の大人たちはどこか納得顔を浮かべていた。
「シィちゃん、これからは大変そうっスよね」
「そうね。まさか、あの子が……ねぇ」
「感じないところがないわけではなかった、が……。流石に想像も付かなかったな。シィちゃんが、本当の“
「……え?」
瞬間、アルの時間が停止する。
その言葉の意味を、うまく呑み込めず、理解できなかった。
(シィが、本当の……“
ただ、周囲で話される声だけが耳に届いてくる。
「シィちゃん、いつも腕を布で隠してたでしょ? アタシも女だし、傷とか、見せたくないものでも、あるのかなって思ってたんだけどね」
「“英雄刻印”か……。ま、普段から隠してたみたいだし、知られたくない理由ってのは、それなりにあったんだろうさ」
「“
「そりゃそうだろうよ。俺は前にエルラドでウォルター・アシュクロフト――“
「あら。クロード、実際に見てきたみたいな言い方じゃない?」
「半分は想像だよ。想像」
「ふぅん。そういうことにしておいてあげる」
「ま、そういうのが自分にも降りかかるって思ったら、そりゃあ隠すって話さ。それに、子供だ。逃げたって仕方ねえ」
「そうね。でも、シィちゃんは、力を使ってあの魔獣を倒してくれた。アタシたちや……アルくんにも、知られるって分かっていながらね」
「……これから、どうなるんスかね」
「さあな。“
耳に入ってくる話は、まるで別の国の言葉のように、アルはどこか遠く感じた。
理解が及ばない。その一方で、理解できてしまう。
アルはまだ、自分が目覚め切れていないのではないかと、思うほどだった。
「……おにいちゃん?」
横から、裾を引かれる。見れば、シェンナがアルを見ていた。不安げな瞳だった。
その意味を、この交わされている会話の意味を、アルはその瞳が示しているような、感じがした。
そうした時、商店の扉が開かれた。
夕日を浴びながら、入ってくるのは、長い黒髪の少女だった。いつも隣にいた少女だった。いつも、自分のずっと先を行く少女だった。アルが守りたいと願った、シィという名の少女だった。
「――シィ」
アルは口の中で転がすようにして、名前を呼んだ。
それでシィは、アルに気づいた。シィは一瞬でその表情を変えた。眠りにつく前に見た、泣きそうな表情だった。そして、そのままシィはまっすぐアルに向かってくると、抱き着いてきた。
「アル――――よかった」
「……うん」
胸に温もりを感じる。それだけで、アルは聞きたかった言葉を、失っていた。誰よりも大切な人が、誰よりも心配してくれている。それだけでいいと、思った。
少なくとも今は、戻ってきた日常の温もりを感じていたいと思えた。
◆
日が沈み、夜の帳が降りて、町と森が静寂に包まれる中、クーベルク商店は賑やかだった。
明かりは普段よりも多く炊かれ、ささやかながら飾り付けもされていた。休憩所のテーブルにはいくつもの料理が所狭しと並べられており、その脇を固めるように、クロード達やセレナ、クレア、シェンナが座り、酒を酌み交わし、談笑していた。
あの後、シィと一緒に戻ってきたセレナは、アルに対して報告をしてくれた。
衛兵や自警団、そして先んじて派遣された騎士団員を使い、山の散策を行ったが、瘴気や魔物の姿はもう全く見受けられなくなっていたとのことだった。何より、あれだけ広範囲で見られていた瘴気も、跡形もなく消え去っていたことから、新たに魔物が生まれる危険性もなくなったと驚くように言った。そして、これが“
その話を受けて、シィはアルに言ったのだ。
「セレナと一緒に、王都に行かないといけない」
と。
セレナはそれを補足するように、「新たな“
シィの言葉は、それを受け入れるものだった。シェンナの泣きそうな瞳も、それで説明がついた。シィが家を出ていくことが、決まったのだ。
アルは何も言えなかった。受け入れるには、何もかもが大きな話だった。少なくとも、時間が欲しかった。
それを察したのか、気分を無理矢理に入れ替えようとしたのか、シェンナが「パーティをしよう」と言い出した。それに対して、クロード達も乗っかった。そして今、そのパーティが開かれていた。
アルはそれを横目に見て、静かに気づかれないように、店の外に出た。
夜の気配が満ちていた。店の中とは打って変わって、耳が痛くなるほどに、静けさが鳴いていた。山から下りてくるように、風も少しだけ吹いていた。昼間の暖かさはない、涼しい風だった。
空を見れば、雲は一つもなかった。深い藍色で染まる空に、少しだけ欠けた大きな月がぽつりと浮いていた。そのせいか、晴れ渡っているのに星はあまり見えなかった。
アルの足は自然と動いていた。商店の裏手へ回り、広々とした空間に出る。月明りだけが、そこを照らしていた。いつも、剣の稽古をするときのように座ったシィの姿を、浮かび上がらせていた。
「シィ」
歩み寄りながら、アルは声をかけた。シィは気づいていたかのように、ゆっくりとアルを見た。
「アル」
「隣、座るよ」
「うん」
アルはいつものように、シィの隣に腰を下ろした。
「――嘘みたいだよ」
月を見上げて、アルはつぶやいた。
「何が?」
「……少し前まで、あれだけ大騒ぎをしていたのが、さ」
「……うん。無事で、よかった」
アルは短く息を吐いた。
「それに、シィのこと」
「……うん」
「本当に、王都に行くのか?」
空を見上げたまま、アルは尋ねる。
「うん。わたしが、“
「そっか……」
「…………」
「驚いたよ。シィが、“英雄”だった、なんてさ」
「隠していた――」
「いいんだ。それは理由が、あったと思うからさ。それより、さ。子供のころと同じなんだ。守りたいって思っていた人が、本当は自分よりものすごく前にいてさ。それで、結果的に、守られてさ」
「それ、は……」
「なんか。悔しいんだ。うん」
「アル……」
「俺は、悔しいや」
「…………ごめん、なさい」
アルは首を振る。
「違う。謝ることじゃないんだ。謝らないで。むしろ、感謝してる。自分がまだ、全然力が足りてないって、分かったからさ」
「まだ」アルは心で自然にそれを反復していた。
「それに、俺を助けてくれたのは、事実だろ。死んだら、何もできない。こうしてシィの隣にいることもできなかった。シィが助けてくれたから、今があるんだ。だから、ありがとう。うん、遅れたけどさ、ありがとう」
アルはそこでシィを見た。目が合う。シィの黒曜石のような瞳が揺れた。
シィは、俯いた。
「……わたしは、アルに嘘を……」
「いいよ。必要なこと、だったんだろ? みんなも、言ってたよ」
「ずっと、前から……アルのことも……」
「いいって。何があってもさ、シィはシィだ。“
「アル……」
「だから、さ」
アルはそこで息を吸った。
「シィが王都に行くのなら、俺も一緒に行く。王都だけじゃなく、色んな所に行かないといけないのなら、それに付いていく」
「……アル、それ、は」
「俺は“
「……どう、して。どうして、そこまで、わたしにしてくれるの?」
「決まってるよ。俺はきみが好きなんだ。ずっと前から。初めて出会った日から」
冷たい雨の日を、アルは一生忘れることはない。
自分の胸の中でいつも輝き続けている、宝物を見つけた日のことを。
「だから。俺は、誰よりも、きみの近くにいたい」
静かな夜に、少年は誓いを立てる。
これは、きっとあの日の続きだ。
父の背中を追わなくていいと気づいた少年が、自分の道を新たに選ぶ。
自らの役割を、選択する。
たったそれだけのこと。
まるで、物語の幕開けのように、月夜が二人を照らしていた。
――これは、少女が英雄に至る物語。
――そして、少年が見届ける、そんな物語。
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