第18話 “英雄”になりたいと願う少年の物語

 アルにとって父親――ジーク・クーベルクという人物は、世界を照らしてくれる光のようだった。進むべき道を示してくれるような存在だった。幼いアルが疑問を投げかければ真摯に答え、失敗をしても優しく、時には厳しく教育をしてくれる人だった。尊敬できる年長者として、そして父親として憧れを抱くのは当然だった。少なくとも、アルにとってはどんな人物よりも輝くたった一人の英雄だった。


 だから、父が魔物との戦いで命を落としたと聞いた後は、何もかもが闇に包まれたようだった。


 父からは様々なことを学んだ。


 剣の扱い方。野営で大事なこと。瘴気の見つけ方。魔物から逃げる方法。道具屋の仕事。常連の好み。美味い特産品の食べ方。自警団の仲間たち。野生の動物を捕まえる方法。町長の好きなお酒。季節ごとに見れる山の景色。母のこと。妹のこと。


 それらを受けた幼いアルは、自分が及びもしないほどの様々なものを見て、様々なことを考えている「父のような人になる」という気持ちがあった。


 だが、父が死んだあとには「亡くなった父の代わりになる」という気持ちへと、自然とシフトしていた。


 これは仕方のないことだった。父が死んでしまえば、家に男手は一人しかいないからだ。況してや、妹のシェンナはまだ幼かった。ほとんど一人で店を切り盛りする母の姿を見ていると、自分がどうにかしないといけないと思うには十分だった。


 アルは無我夢中で働いた。父からの教えを活かし、必死で自分にできることを探し続けるかのように家の手伝いをした。何度も何度も父の教えを繰り返して、父の真似をしようとした。


 アルに自分らしい意識はほとんどなかった。ただただ、父のようにならなければならないという強迫観念に突き動かされていた。失われた部分を、教えを受けた自分が補わなければならないと、思い込んでいた。


 アルは、出口のない迷路をただひたすら走り続けているようだった。


 それが変わったのが、四年後の冬だった。


 冷たい雨が降る日だった。


 肌を刺すような冷たさはあっても、雪になり切れない雨だった。どこか落ち着かない日だった。


 四年を経て、アルは成長していた。背丈も大きく伸び、体つきも一回りは大きくなった。顔立ちも父の面影があると、周囲からは言われるようになってきた。一桁だった年齢が二桁になるほど、成長期の子供に四年という月日は、大きかった。


 まだ子供ではあったが、大人の手伝いが十分にできるだけの能力は、もう持っていた。だから、アルは父が所属していたロッサムの自警団の手伝いを積極的に行っていた。これも、父の背中を追って、真似しようとしていたことの一つだった。自警団の人は、幼い頃からアルを知っており、その努力や成長を見ていたこともあって、受け入れてくれた。


 その日は、そんな自警団の仕事の一つであった、山の警戒任務パトロールを行っていた。トレーニングを兼ねて、アルは一人で行動をしていた。雨で視界の悪い日は危険を伴うが、その一方で瘴気が抑えられることもあるため、体力づくりを目的とするなら最適だった。


 山の奥深くまでアルはやってきていた。既にこのころから、アルは子供ながらに山の地理を深く理解しつつあった。少なくとも、ロッサムから子供の足で探索可能な範囲は完全に把握しているとも言えた。今日は、それをさらに広げようと、より山の深い場所へと足を延ばそうと考えていた。


 山の深奥は雰囲気が異なっていた。薄暗く、やけに静かで、どこか言い知れぬ不気味さがあった。だがその一方で、神秘的な雰囲気も存在していた。冷たい雨が梢を打ち、自然の音楽を奏でている。未踏の恐怖を感じながらも、アルは不思議と安心できていた。


 そう進んでいた時だった。音が聞こえた。


 それは、人気が自分以外に存在しないと思われる、山奥の沢からだった。枝葉や地面を打つ雨は強く、激しい音楽は常に演奏されている。だが、そうした自然的なものではなかった。何かが暴れるようなもの、そして人ならざる者――魔物の唸り声だった。


 聞き間違えではない。アルはそう判断して、その聞こえた方角へと足を向けた。


 そこでアルが見たのは、怪我を負ったのか、雨水によって濁流となった沢の流れを横に、河原で座り込んだ少女と、それを取り囲む魔物の姿であった。


 雨によって瘴気が防がれているとはいえ、既に生まれ出た魔物の存在まで洗い流されるわけではない。アルはそれを理解していた。今回の警戒任務パトロールでも十分に注意していれば、雨の激しさもあって姿を隠しやすいと、考えていた。


 だが、目の前に繰り広げられている光景で、アルは忘れていたように恐怖を思い出した。それは身体に染み込み、動きと思考を阻害する。


 魔物は人を殺すのだ。


 そう、自分の父を殺したのも、魔物だと聞いている。

 ならば、あれは今にもあの少女を殺そうとするのだろう。


 恐怖が連れてきたそれらの連想は、ほとんど考える必要もなく理解ができることだった。魔物は獲物に対してじりじりと詰め寄っている。放っておけば、アルの予想はまさしく的中してしまうだろう。


 だが、そこでアルは意識にブレーキを掛けた。


 恐怖の連鎖から生まれる、止まろうとしないその悪夢に対して。それ以上を、考えるのは意味がない、と強制的に切り捨てた。


 なぜなら、それは前提として「自分がただ見ているだけだったら」というものに基づいていたからだ。少女に襲い来る運命を、ありのままに享受させてしまうものだったからだ。自分という存在の意味がなかったからだ。


 それを理解した瞬間、アルはとてつもなく悔しくなった。


 自分にあの魔物を蹴散らせるだけの実力があるとは全く思わない。今も、遠くでその姿を見ただけで手は震え、体は硬直し、息は止まりそうになっている。雨で分からないが、涙や鼻水すら流れているかもしれない。


 ただ、それでも。

 どうしようもなく、悔しさは湧き上がってくる。


 ああそうだ。


 怖い、怖い怖い怖い。

 死ぬのは嫌だ、痛いのは嫌だ。

 誰かが傷つくのも嫌だ。


 ――だけど。


 ここで思考を停止させて、

 何もしないでいる自分を、受け入れることが、何よりも、一番怖い。


 ここで、あの少女が殺されることになったのであれば――

 ――それはアルが殺したのも同然だ。


「――――う、うわああああああああああああああああ!!」


 アルの中で、何かが切れた。


 作戦も何もなく、無造作に飛び出す。


 ただ――『何かをする』という選択をした。


「あああああああああああああああっ!」


 雨音と濁流の轟音をも打ち消すような、半狂乱じみた叫び声をあげ、無我夢中で突撃する。踏みつけた河原の石が鳴く。腰に携えていたはずの剣は抜いてある。かざしたその刀身を雨が打っていた。


「うおおおおおおおおああああああああああ!!」


 魔物が驚いた様子を見せる。そこへ、逃げる間も与えず、無我夢中で長い剣を振るう。結果的に、それは奇襲と成った。勢いよく叩きつけた剣は、反応の遅れた魔物の身体を大きく斬り裂いた。アルの声にも負けない金切り声を上げ、魔物が崩れる。そしてそのまま、雨に溶けるようにして消えていく。


 アルの手には生々しい感触が残っていた。泥人形のような姿をする魔物であるが、その感触はまさしく肉のそれであった。吐き気が込み上げてくる。これは、明確な暴力だ。もっともアルが嫌い、遠ざけたいと願う、『死』を振り撒く暴力だ。


 だけど、それを今は使わないといけない。誰かを守るために。自分自身の心を守るために。


「わああっああああああああああ!!」


 喉を潰さんばかりに全力を使って叫びながら、剣をがむしゃらに振るう。それはほとんど狂気に染まっているように見えた。実際、アル自身もただ闇雲に、子供が暴れるのをそのままに、剣を振るっていた。ただ、その奥底には、父から受けた教えがしっかりと根付いていた。


 剣を振る一つ一つの動作に対して、しっかりと声を出す。

 たったそれだけの、単純な教え。アルの叫びは、それを忠実に守っていた結果だった。声を無理矢理にでも出すことで、自らの極限状態においてでも、紐づけられた剣の扱い方をも逆説的に無理矢理に引き出そうとするものであった。


「ああああああああああああああああッ!!」


 アルの狂気じみた叫び。それでいて、剣に振り回されているとも言える無茶苦茶な剣捌き。そこには、少年でありながら言い知れぬ気迫があった。それに魔物も押され、後ずさりをする。だが、アルはそれに気づく余裕などない。取られた距離をそのまま踏み込み、剣を力任せに振り抜く。


 魔物から耳を塞ぎたくなるような金切り声がまた上がった。刺さった剣をそのまま振り回し、魔物を吹き飛ばす。吹き飛ばされた魔物もまた、雨に溶けていく。アルはそれらに一瞥もくれない。残されている脅威を、見据える。


「ああああああああっ、があぁっッ! ああッ!」

 喉が裂ける。声に血が混じる。だが、気に留める余裕はない。心は、ただひたすらに叫び続けている。


 ――死にたくない。


 ――死なせたくない。


 ――自分は、何かを成したい。


 父が死んでから、アルは暗闇に落ちたままだった。父の背中を追うことは、決してアル自身の道を開いてくれなかった。アルは、自分が何をすればいいのか、分からなくなっていた。


「うわあああああああああアアアアッ!!」


 再び、アルの剣が魔物に当たった。最早剣技も何もない。それが剣であることだけを武器として、魔物を断ち切った。三つめ。アルの頭の中に、数がしっかりと刻まれる。例え、それが魔物であっても、自分が剣を突き立てた数は、忘れようがなかった。


 もう、終わって欲しい。


 アルは心の内では、泣きそうだった。いや、もう既に泣いていた。雨でそれが、自分自身にも分からなかっただけだった。


 それが通じたのか、同族が倒されていったことに気圧されたのか、魔物は引いた。アルは感情とは別の無意識でそれを追おうと踏み出した。だが、もう体力も限界であった。河原の石を踏みつけた足には力が入らず、雨に濡れたそれに滑りそうになる。振り下ろした剣もまた、同じように転がる石を強く叩いた。火花すら散らしながら、甲高い音が鳴った。


 それが、終わりの合図だった。

 魔物はそのまま去って行った。アルにそれを追う体力も、気力もなかった。やっと終わってくれたと、安堵した。


「は、あ、ぁ――――ぁ――」


 アルは力なく、剣を落とした。手は震えで限界を迎えていた。剣が鈍く低い音を立てて、河原に転がった。雨が刀身の泥を洗い流していた。


 しばらくは握りなおせない。アルにそれだけは理解できた。


 体は満身創痍。力を抜きでもすれば、すぐにでも倒れてしまいそうだった。それでも、アルは表情を作り、座り込んだままの少女へと向く。


 少女は何も見ていないようだった。虚ろな黒曜石のような瞳が、ぼんやりとアルを映しているだけだった。それを、アルは綺麗だと思った。まるで宝物のようだと、思った。


 アルの喉は震えていた。それでも、少女へと声をかける。


「助けに来たよ」


 少女の瞳に、僅かな光が灯ったようだった。


 アルは静かに頷いて、震える手を差し出した。


「もう大丈夫だよ」


 その手を、少女は取った。


 この瞬間、アルは救われた。


 父の背中を追うことしかできなかった少年は、ようやく自分の道を見ることができた。


 偶然のように見つけた少女を、自分自身の力で助けられたことで、自分にも何か成せると知ることがようやくできたのだから。


 初めて、自分自身の夢を抱くことができたのだから。


 冷たい雨が降る日だった。


 きっと、いつまでも、アルが忘れようのない日の話。




 そして、これが全ての始まりだった。

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