九十六 海扇

 面白いものが手に入ったと言って、近所の隠居が扇を持って訪れたことがありました。

 白地に飛沫のような青い染みがついた古い扇で、

「夜店で見つけて手に取ったら、これは海の扇だ、と店の年寄りがいたって真面目な顔つきで言いおったから、どういうことかと聞いたら、この扇で荒れた海を鎮めたり波を起こしたり潮目を変えたりすると言う」

 そう言って半分開いた扇から垂れた水を掌で受けて、

「舐めてみろ」

 と隠居が言いましたので、舐めてみました。

「これは、海の水ですか?」

「面白かろう」

「ええ」

「試してみたいと思わんか?」

「今度船に乗ったら確かめてみましょう」

 と請け負いましたら、

「そう言うてくれるのはお前さんだけじゃ。連れ合いや息子どもは、いつものようにくだらぬものばかり買い集めてと莫迦にしおるばかりでな……」

 笑って私に扇を預けてくれました。

 明くる年に船旅に出ましたら、海の上で船が動かなくなりました。

 船頭どもが、

「誰ぞ鱶に魅入られたに違いない、何でもいいから持っているものを海に投げてみろ」

 と客に言いましたから、私はここだと思って扇を取り出して開くと海に向けて扇ぎました。すると急に波が高くなって荒れ始めましたから、私はすぐに扇を閉じて懐にしまいました。とたんにまた海は薙いで船は動きません。それで再び扇で扇ぎましたら海が荒れて、止めるとやっぱり波は収まります。

 これを見ていた船頭が、

「お前さんの持っていなさるのは、海扇ではないか」

 と聞きましたから、そうだと答えると譲ってくれと言いました。

「これは預かりものだから」

 と断わりましたけれども、船頭は他の船頭から集められるだけの金を集めて私の懐に捻じ込むと扇子を奪うように取って開くと、大きくゆっくり左右に振りました。それで穏やかな波が立ってその上を滑るように船が動き出したところで、船頭は開いたままの扇を海に投げました。

 扇は舞いながら鈍色の海の上に落ちて、そのまま溶けるように見えなくなりました。

 帰って隠居にこれを話して詫びましたら半年ほどして、

「これをまた夜店で見つけてな……」

 と見せてくれましたのが、海に投げ入れたはずの海扇でした。

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