六十八 壁
私が左官職人をしていたときの話です。
今年十六になる親方の三男坊が、日が暮れて帰ろうとする私の袖を引いて、
「昨日、壁に囲まれたんだ」
と小声で言いました。
普段、三男坊がこんな突拍子もないことを言い出すことはありません。もう少し詳しく聞いてみると、
「うちの菩提寺がある辺り、ちょっと土塀の崩れた古寺の角を曲がったところを歩いていたら、壁を塗り直したところが目についたからそれに触れてみたんだ。そしたら風もないのに不意と提灯の灯が消えたんで妙だなと思ったんだけれど、灯はなくても道はもう知れているから歩き始めたとたん壁に突き当たって、これは方向を間違えたかと思って向きを変えた。ところが右も左も後ろも壁で、これは夢でも見ているのかそれとも狐狸の類いに化かされているのか、そう思って眉に唾をつけて周囲の壁を押して叩いて蹴ってみた。でも壁はびくともしない。それで、誰か、と大声を上げたら、壁は急になくなって提灯に灯がともったんだ」
と話しました。
「誰に話しても信じてくれない」
私の顔色を窺うように言いましたから、
「今からそこへまいりましょう」
そう私が言いましたら、三男坊は喜んですぐに案内してくれました。
それへ着いて三男坊が指さしたところを見ましたら、確かに壁を塗り直した跡があります。それに私が手を触れましたとたん、提灯の灯が消えて真っ暗になりました。
「昨日もこうだったんだ」
言った三男坊と一緒に四方に手を伸ばしたら、やっぱり壁に囲まれています。
「誰か」
と私が声を上げますと、壁はなくなって提灯に灯がともりました。
私は三男坊に、
「きっとこの壁の中に何かあるんでしょう。今夜、出直して私が確かめます」
と言うと、
「それなら一緒にやらせてくれ」
三男坊は言いました。
何が起こるかわからないから、と聞かせてもそれで引き下がる三男坊でないことはわかっていますから、では見張りを頼まれてくれ、と言って私はすぐに壁を崩しにかかりました。
するとほどなく数本の髪の毛が出てきてさらに崩していったら、半眼でこちらに顔を向けた娘が出てきました。もちろん死んでいます。
こちらをちらちら見ていた三男坊が駆けつけて提灯にかざしてそれを見てすぐに目を逸らしはしましたけれど、大きく息を吸ってもう一度それに眼をやったときには、あっ、と声を上げました。
三男坊と同じ寺子屋に通っていて、父親の商売が左前になって夜逃げ同然にいなくなった娘だと三男坊は言いました。
壁の塗り方が素人のそれではありませんでしたから、娘を塗り籠めた奴はすぐにお縄になりました。
どうしてそんなことになったのか、私は詳細を聞いていませんからわかりません。
でも、壁に塗り籠められた娘が助けを求めたのも、それに応じられたのも、この三男坊だったからに違いありません。
三男坊は、父親に頼んでこの娘を懇ろに弔いました。
壁は、私が塗り直しました。
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