四十八 傘

 私がこの傘を拾いましたのは、とある山中でございます。

 夜の明けぬうちに峠を越すつもりで急いでおりましたところ、少し道を外れた茂みに打ち捨てられていたこれが目に留まりまして、おかしなところに傘があるものだと思って手にいたしましたら、どうやらただの傘ではございませんようで、すっと開いて私の手の中で傘は軽やかに回り始めました。

 それが月の光に鮮やかな紅を映して、私に何か訴えているようにも思えましたから、持ち帰りまして仔細に見ますと、思った以上に大きく骨組みのしっかりしている割に軽うございます。

 このように…… 開いてみると、色の褪せたところもまったくありませんが、そこかしこに手直ししたあとがございます。それで、長く、大切に扱われていたことがわかります。

 ただ、雨の日にこれを差そうといたしますと、一向に開きません。そのくせ、晴雨にかまわず私が出かけるおりにはいつのまにか私の傍らにありまして、私も何となくそれを背に負うて出かけます。

 ところが、出先で急な雨に見舞われてもこれは開きませんから、私は周囲から奇異に見られながら濡れていくしかありません。

 そんな雨のある日、武家屋敷の長い塀沿いの、人通りのない道で中間を伴った四十がらみの武家とすれ違いましたときに、これが私の背中から不意に落ちました。私が拾いましたら、傘は勝手に武家にその先端を向けましたから、さてはと思って私は、

「お武家様」

 と呼びかけて、相手が振り向いたところで、

「この傘に見覚えはございませんか」

 問いました。

 瞬時、不審な表情を見せた武家に、傘はやおら開いて鮮やかな紅を見せました。私からは傘の内側しか見えませんでしたが、そこに何を認めたのか、わあっと水たまりに尻餅をついて武家が、

「悪かった。許せ、成り行きじゃ」

 手を合わせるとたんに、雨が激しくなりました。

 それでも開いたままの傘が武家に迫りますと、そやつは乱心したかのように刀を抜いて傘を切り裂こうといたします。

 傘は、柄を握っておりました私の力を借りるようにその刃をはじき返してなお、武家の喉をぐいと突きます。武家は刀を捨ててそれを両手で取り除こうとしながら、やはりそこで腰を抜かしている中間に視線を向けて、何とかしろ、と潰れた声で命じましたが、中間はあわあわ言うばかりで何もできません。

 まもなく、武家屋敷の白い壁にそいつを押しつけその喉を、傘は圧して貫きました。

 それでも傘は興奮が収まらぬごとく震えながらしばらく私の手の中にありましたけれど、やがて力が抜けたように私の手からこぼれ落ちました。

 私は傘を取り直して今度は腰を抜かした中間にそれを向けました。

 もうそれで観念したのか中間は、私が傘を拾った山中に案内すると、升や茶瓶や木の玉が転がっている辺りを指しました。中間にそこを掘り返させましたら、雨中、土の中から現れましたのは、まるで眠っているかのような娘で、顔にもその身を包む艶やかな羽織袴にも露ほど汚れはありません。

「お、おれは、言われて、埋めただけで……」

 中間の泣き伏す声がきっかけだったかのように、雨は激しさを増して滝のように落ちてきました。

 傘の紅は、血の滴りを流すばかりでした。

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