二十九 魔

 春先の宵のことでした。

 風呂に行く私の前を歩く人の足下に、何かまとわりついていました。

 最初は口縄かと思いましたが、よく見ると、藁を編んだ紐のようでした。

 すぐに、魔、だと察しまして、風呂で一緒になった、かつて同心をしていたという年寄りに話しましたら、ちょっとうちに寄っていかないかと誘われました。

 一人暮らしの年寄りは、私に茶を出すと煙草を一服喫んで灰を落としながら、

「奉行所の厠で用を足していると、ときどき隣で鬼がおんなじように用を足しながら、いろいろ教えてくれるんだ。明日、土左衛門が上がるとか、つけ火があるとか……」

 と話し始めました。

「あるとき、そいつに、なんでそんなことがわかるんだと尋ねたら、人に魔がまとわりついているのが見えるんだとぬかしやがる。まあ、魔が差すってこなんだろうけど、誰にどんな魔が差すかなんてこっちはわからねえから、教えてもらったって、どうしようもねえ」

 そこでまた煙管に煙草を詰めて、

「ついでに、どんなときに魔が差すんだ、って聞いたら、何にもやることがなくって寂しいときだ、と鬼は言いやがった。そのときは、そんなもんかと他人事のように思ったけれど……」

 年寄りは火をつけました。

「ちょうど、今の俺みたいなもんだな」

 言ってその口から煙をゆるりと吐き出すと、ことさらに強く雁首を叩いて灰を落としました。

 妙に高く響いたその音に驚いたように、年寄りの着物の袖口で何かが動いたのが私の目の端に留まりましたから、それを確かめるてみると、先ほど見かけた、魔、でした。

「そこに」

 私が思わず指さしたら、それは袖口からたちまち年寄りの着物の中に入り込みました。

 けれども年寄りはそれに気づかず、

「生きててもしょうがねえし……」

 と漏らすと、急に生気を失いましたから、私は年寄りの懐に右手を入れて魔を掴みましたけれど、それは紐のままに私の手に巻きついて蠢いていました。

 それで年寄りは正気に返って私を見ました。けれども、私の右手にまとわりついている魔は見えないようで、

「茶を入れ替えようか」

 と立ち上がりました。

 私は、それを潮に礼を述べて辞去しました。そのとき、年寄りは私の背中に向かって、

「ありがとうよ」

 と礼を言いました。

 魔は、まだ私の右手にまとわりついたままです。

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