第106話 あの日から ACT1

正式に仙台支社への移動が発せられた。

この2か月間は出向という名目での移動だった。


「おい山田、正式辞令だ。仙台支社に移動だ。お前、向こうのアパートそのままだろ。5日間休みやるから、片付けてこい」


「はい、助かります」


「あ、それとな。お前こっちにいるのは最長で多分2年間位だ。そうしたらまた東京本社に戻ることになる。ま、向こうと2重生活するのも別に構わんが大変だろ、まだお前は独身だ、身軽なんだから一旦拠点をこっちに移したらどうだ」


「はい、そのつもりです。向こうのアパートは引き払います。荷物も出来るだけ処分して、こっちに引っ越そうかと思います」


「ああ、それがいいだろ。仙台も悪くはないだろう。ま、俺は家族が向こうだからな今まで通り、行ったり来たりだ。それはしょうがないけどな」

村木支社長は笑いながら俺に向け言う。それはもうあのアパートで、繭とのあの生活に戻ることがないことを意味している。


2か月ぶりに戻った俺の部屋、何もかもあの時のままだ。この部屋の時間はあの時から止まっていた。


ベランダの窓を開け、今まで溜まっていたこの部屋の空気を入れ替えた。


ふと、ベランダに出ると、あの仕切り板がしっかりと固定されているのに気が付いた。

その仕切り板を眺め、もう、隣の住人は引っ越した後だというのがおのずと感じられた。


「とりあえず大家のところに挨拶に行ってくるか」

契約する不動産屋には昨日連絡を入れていた。

事務的な対応ではあったが、すんなりと契約解除は出来た。


荷物を整理して5日間後までの間に、大家に鍵を引き渡せばそれで終わりだ。


その前にすでに連絡は言っていると思うが、挨拶だけは事前にしておいた方がいいと思い、近くに住む大家の所に出向いた。

「寂しくなるねぇ」と一言言われ惜しまれたが、その言葉にはもう一つの意味があった。


「お隣さんも先日退去したばかりなんだよ」


「……そうなんですか」


そっかぁ、やっぱり繭はもう引っ越した後だったか。

「そう言えば、ベランダの仕切り板外れていたから、そこは直しておきましたよ」

「あ、済みません知っていたんですけど、連絡してなくて」

「別にいいよ。またあそこ借りてくれる人がいるといいんだけどね」

大家はそう言いながら、笑っていた。


そうだな、俺のいる部屋の半分しかない狭い部屋。


布団を敷くとそれだけで部屋が埋まってしまう。

そんな狭くて小さな部屋だった。


そこに繭はいた。


だが、もうそこには誰も居なくなった。


アパートに帰り隣の部屋の戸を眺めた。もうそこには誰もいないことを改めて確認するように。


すると、あのにヘラとした顔の繭の姿が浮かんで来た。


……いつまで干渉にふけっているんだ。急いで片付けねぇと間に合わねぇぞ。

気をとりなし、俺は部屋の片づけに入った。


独身男性の独り身だ。さほど手間はかからず片付けられると思っていたが、意外と時間がかかってしまった。それだけ俺はここでの生活に根を下ろしていたんだと感じた。


でも本当にここでの実生活を感じられる期間は、繭と共にいたあの3か月の間だけだったかもしれない。俺にとっていいや、俺たちにとってあの3か月間は特別な時間だったんだろう。


そしてようやく荷物が片付いた時、マリナさんがここに訪れた。


「ああ、本格的に浩太、村木さんに取られちゃったよ」

「でもそう仕向けたのマリナさんじゃなかったんですか?」


「ああ、そんなこと言うんだ浩太」

「あれ、怒っちゃいました?」


「もう怒っちゃったよう。でもさ、仙台なんて新幹線で2時間くらいじゃん。あ、早いのだったら1時間半くらいか。それならさ、大した事無いでしょ。私会いに行っちゃうから浩太の所に」


「なんだかマリナさん仙台に押しかけてくる気満々ですね」


「そうだよ、通い妻になってあげるよ」

「通い妻って言うよりは、押しかけ女房じゃないですか?」


「うんうん、それでもいい。浩太の傍にいられるんだったら私なんでもいいよ」


「無茶苦茶ですね」


「うん……それだけ浩太の事、愛しているって言う事だよ」


本当に私はあなたの傍にいられるだけでいいから……。




◇And time has passed. そして時は経過した。◇

俺と繭の時間はそれぞれ流れ過ぎていく。




「繭たん繭たん」

「有菜、もういつまで私をそう呼ぶの?」


「だって繭たんは繭たんなんだもん。いいじゃない」

「でもさぁ、ちょっと恥ずかしいよぉ」


「いいの。私はこれからもずっと繭たんって呼び続けるから」


「まったくもう。でさぁ、有菜この前の面接結果どうだったの? もう結果来てるんでしょ」


「なははは、ダメだったわ。ご幸運メールが来てたよ」


「ああ、そっかぁで、内定まだ一つもないのは厳しいよね」


「ああああ、それは言わないで! この胸にズキンと来るから」

「でもやばいよ、もうほんと後がないよ」


「そうだね。でもさぁ繭たんはもう3社内定もらっているんでしょ。いいなぁ。もう決めてるんでしょ。就職先」


「う―――ん、本当はまだ迷ってるんだぁ」

「そうだよねぇどれもみんな一流企業ばかりなんだもん。ホントここまで差が付くともう何も言えないよ」


「実はさぁ、おじさまの会社からも誘いが来てるのよ」


「おじさんの会社って、繭たんのお父さんが社長やっていた会社の事?」


「そうなんだけどね。おじさまが社長に就任したのはいいんだけど、その後私に継がせたがっているのよ」


そうなんだ。武村のおじさまは私にあの会社を継がせたがって、本当にうるさい位だ。義理の親達が解任されてから、武村のおじさまが今までいたところを離れて社長に就任した。


そして私の後見人として、あれから私を陰ながら支えて来てくれた恩はある。

だからと言って、大学を卒業してすぐに身内の会社に就職と言うか、関わるのも正直抵抗がある。


出来ればもっと今は、色んなことを経験したい。その気持ちが強いからだ。

うんそうだ。……多分。だと思う。


それに、私にはもう一つの想いがある。


多分これは幼い頃の記憶だろう。


お父さんと共に2人だけで過ごした時間。その時に私の作った料理を本当に美味しそうに食べてくれたあの笑顔を私は今も覚えている。


……それはお父さんだけだったのか? もう一人、もっと身近にそんな人がいたような気がする。だけどその人の事は分からない。


ただその人の……。その人の笑顔を見ているだけで私は幸せだった。


あの事故の後。何かとても大切な、そしてとても温かい想いがぽっかりと穴が開いたように空白になっていた。


その空白に触れるチャンスはいくらでもあった。有菜もたまに「どうしているんだろうねあの人」とか、高校の時からアルバイトをしているあのカフェのマネージャ、杜木村さんも「本当に何の音沙汰もなくなっちゃったね」なんていう時がある。


そう、触れることはいつでも出来ていた。でも思い出せない。そのうち周りも私も次第にその人の影は薄れていった。


ただ、私の中の想いだけがひっそりと残っているのは事実だ。


もうすぐ夏も終わりかぁ。

空が少し高くなったように感じる。


時折吹く風が髪をたなびかせた。

少し赤茶けた髪の毛。もう背中のあたりまで長くしている。


リクルート用にバッサリ切ろうかと思ったが、何となく幼く見られるのが気に入らなくて、長いままだ。それでも内定を3社も取れたんだから、良しとしよう。意外と功を制したのかもしれない。


今日の夕食何にしようかな?

有菜と大学の構内で別れ筋状の雲を見上げながら、毎日の事なんだけどつい考えちゃう夕食の献立。

一人分だけど、手を抜くことはない。ちゃんと食事の支度は自分でいつもやっている。


そうだ煮物。


なぜか今の時期。あの煮物を食べたくなる。


確かナナさんから教えてもらったんだ。でもナナさんって、私とどういう関係で知り合ったのかは覚えていない。


それでもあの煮物のレシピはもう体に染み込ませている。


それじゃぁ、途中で買い物して行こう。


「うん、そうしよう」



ねぇ、……さん。

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