第63話 一歩前進。そして……二歩後退 ACT2

「繭、起きろ繭。どうしたんだ!!」


その声に、遠くから聞えるその声が、私の手をしっかりと握ってくれた。

黒い闇の中。その闇の中に差し伸べられた温かい手。

その手を……しっかりと握った。


潤んだ瞳にうっすらと見え始めたその姿。

私の体を抱き、必死に私の名を呼んでいた。


「浩太さん……」


「繭」


「私、私……」浩太さんの体に抱き着いた。

強く、力いっぱい震える体で、私は抱き着いた。


「浩太さん、浩太さん」


何度も、何度も……、浩太さんの名を呼んだ。

浩太さんは私の体を強く抱きしめて「もう大丈夫だ、何も怖い事なんかない。……もう、大丈夫だ」


少しづつ震えが収まってくる。

息も出来ないほど苦しかった胸のつかえが、ゆっくりと落ち着いてきた。


温かい。


浩太さんの体温が私に伝わる。浩太さんの鼓動が私に伝わる。

この心に、この闇の中に。私は生きていてもいいんだと、言ってくれる声が聞こえてくる。


そして私は泣いた。

浩太さんの胸の中で、泣いた。


その間ずっと浩太さんは、私の体を抱いてくれた。

何も言わず、そして何も訊かず。ただ、私の体を抱いてくれた。


「浩太さん私……」

「何も言わなくてもいい。泣きたければ思いっきり泣けばいい」


どれくらいの時間が過ぎたんだろう。

私のはこの時、時間と言う長さを感じることが出来ないでいたんだと思う。


とても長い時間。だけど、とても短い時間。


私は夢を見ていた。

昔の自分の夢を見ていたんだ。


どうして今こんな夢を見たんだろう。

どうしてこんなにも不安になったんだろう。

もう忘れかけていた心の闇が、また私を襲った。どうして……。


「落ち着いたか繭」

そっと呟くように浩太さんは言った。


こくんと私は頷いた。


ゆっくりと浩太さんの体から離れ

「ごめん」と一言言った。


「悪い夢でも見たか」そう言って私の頭を優しくなでた。

なんだか今度はとても恥ずかしくなった。

一気に顔が熱くなるのを感じた。


「落ち着いたようだな。スマホに連絡入れたけど、既読も返信もなかったから様子を見に来たんだ。そうしたらお前がうなされながら倒れていた」


「あのぉ……、倒れていたんじゃなくて寝ていたんですけど」


「あれじゃ倒れているようにしか見えねぇぜ。スカートもめくりあがってたし」

ん? スカートがめくりあがっていた?


「パンツ丸見えだったの?」

「うん、丸見えだった」



「浩太さんのエッチ」



「なんだよぉ、どんだけ心配したと思ってるんだ。それにお前俺にパンツ見られるくらい平気だろ。いつも見せたがってたんだから」

「馬鹿、寝込みに見られるのと、私から見せるのとじゃ全然恥ずかしさが違うの!!」


「はぁ、そう言うもんか」

「そう言うもんよ! まったく」


怒っているのに私の顔はいつもの、にヘラとした笑顔になっていた。


「ようやくいつもの繭に戻ったな」

浩太さんのその一言が物凄く安心感を与えてくれた。



安心したらお腹が空いてきた。

げんきんな私である。

ふと時計を見ると8時を過ぎていた。


「あ、夕飯!」と私が言うと。


「いいよ弁当買ってきた」

「弁当? 珍しいね」


「ああ、姉貴の所に行く時に必ず寄る弁当屋があるんだ。そこの弁当屋旨いんだ。お気に入りの弁当屋なんだ」


「そうなんだ」

「2人分買って来てあるから食べるとするか」

「2人分って水瀬さんは?」


「水瀬か、彼奴は実家に行ったよ。明日は実家から直接出社するそうだ」


「そっかぁ」


「あ、そうだいけねぇ。姉貴の所からバーベキューの残った肉と野菜もらってきて部屋にそのままだった」


「ンもぉ、わるくなるじゃない。早く行きましょ」

「ああ、そうだな」

そうつぶやく浩太さんの顔は、とても優しそうに見えた。


浩太さんの部屋に行くとテーブルに、どんと大きな保冷袋が置かれていた。


「もしかしてこれ?」


もしかしてもない目に入ったのは巨大な銀色の保冷バック? いや巨大な袋と言うべきかもしれない。浩太さんはどうやってこれを持ってきたんだろう。背負ってきたのかこの人は? と、疑いたくなるくらいの大きさだった。


中を開けてみるとお肉と野菜がぎっしりとつまっていた。


「ねぇねぇ、これどうやって持ってきたの? 私重くて持てないよ」

「ははは、なんとか抱えて持ってきた。姉貴の奴詰めるだけ詰めやがって、持つ側の事も考えろって」


「でも凄いねぇ、これだとしばらくお肉も野菜も買わなくて済みそうだよ」

「そうか、まぁ持ってきた甲斐があったんだったら、助かるよ」


「ホント、弟思いのいいおねぇさんだね」


「ああ、ほんとだ。困るくらいだ。それとホレ、弁当だ」

その弁当の包みを見た時とても懐かしくて、思わず「あ!」と声が出てしまった。


「ん? どうした」

「ええッとね……な、懐かしいなって」

「お前この弁当屋知っているのか?」

「……う、うん。たまに買ってたところだから」


「そうか意外だな。なんか意外なところで共通点があったな」


「そ、そうだね」


私もここのお弁当は好きだった。

お父さんと一緒に平塚まで出た時に、良く買っていた弁当屋さん。

懐かしさがこみあげてくる。


そんなことを思い出しながらも、何とか貰ってきたお肉と野菜を冷蔵庫に収めた。


「今お茶淹れるね」

「ああ、悪いな」

「ううん」

いつもの私たちの空気が流れていた。


「はい浩太さん」

「わりぃ、さぁ食おうか」

「うん」

何気ないこの会話。私にはこの何気ない会話がとても落ち着く。


それが浩太さんであるから……。


「先生には会えたのか?」

「うん。意外と元気だった」

「そうかよかったな」それ以上は浩太さんは先生の事は聞かなかった。


浩太さんは私の事、私の過去については一切触れようともしない。

気を使ってくれているんだろうか?

ううん、それが浩太さんだからだと思う。


だから……私は安心できているのかもしれない。


あ、そうだこれは浩太さんにはちゃんと、報告しておいた方がいい。

アルバイトが決まったこと。


「あのね浩太さん」

「ん、どうした。改まって」


「あのね、今日さぁ、アルバイト決めてきちゃったんだ」

「アルバイト? 繭バイト始めるのか?」


「うん、もうじき夏休みにも入るし、時間あるから働こうかと思って」

「ふぅん、そうか。この近くか?」


「うん、ほら駅の近くの洋菓子屋さん。あそこのカフェなんだけど」

「ああ、あそこか。長野御用達の店だな確か」


「へぇ、そうだったんだ。あ、もしかして前にケーキ買ってきてくれたのもあそこのケーキだたのかなぁ」


「ああ、そうだったな。で、いつからなんだバイト」

「多分夏休みからだと思う。今日雇用契約書貰ってきたから」


「雇用契約書。ちゃんとしたところだな。いいんじゃねぇか」

浩太さんは反対はしなかった。最も反対されるとも思ってもいなかったけど。


ただ雇用契約書の保証人の欄だけが今は気がかかり。ちょっと俯いていると。


「どうした? 何か問題でもあるのか?」

「う、うん……実はさ、保証人が必要みたいなんだよね」


「へぇ、ほんとちゃんとしたところだ。いい所見つけたな。で、保証人……」

浩太さんは何か気づいたような感じで


「俺でもいいか?」


「ほへ! えっ、いいの? 浩太さん保証人になってくれるの?」

「お前、その店で悪さしねぇだろ。だったら、俺で良かったらなってやるよ」


「ホントに?」

「ああ、ほんとだ」


「じゃ、今書類持ってくるね」

「ああ、俺の気が変わらねぇうちに持ってきた方が得策だ」


「うん、そうする」


急いで部屋に戻って雇用契約書と判子を持ってきた。


「どうかよろしくお願いします」と、両手を添えて浩太さんに手渡した。


浩太さんは書類を受け取ると、さすがいつも仕事でこういう書類を扱っているんだという事が良く分かる。書面の内容を確認するように読み始めた。


「うん、しっかりとした内容だ。いいだろう」


そう言って自分のカバンから、ボールペンと判子を取り出し保証人の欄に記名捺印をしてくれた。


「ほれ、繭。頑張れよ!」

「うん、ありがとう浩太さん」


思わず浩太さんに抱き着いてしまった。

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