【ショートショート集】メッセージ

田中りゅうすけ

君の前世


2017年8月。小学6年生の少年石川規広(通称:ノリ)のもとに、一匹の子犬がやってきた。茶色の女の子のトイプードル。生後55日のその犬はとても小さく、片腕に収まってしまうほどだ。


「可愛いなあ、名前を決めないとね」


ノリの母が言った。


「なんか食べ物の名前がいいなあ。いいでしょ、なんか可愛くてさ」


「前もそうだったじゃない」


石川家には3年前までコーギーがいた。名前はカルビ。勢いで決めてしまった名前だが、覚えやすくて近所の人にも愛されていた。カルビは天寿を全うし、2014年の夏に天国へ旅立ってしまった。その時の思い出があるのか、ノリは再び食べ物の名前を付けようと提案したのだ。


「決まった!わさび!今日からこの子はわさびちゃん!」


「まあ、あんたがそういうんならそうしましょ。よろしくねえ、わさびちゃん」


小さなわさびは好奇心が強く、部屋の至る所を嗅ぎまわった。一通り部屋中を調べ終わった後、わさびはソファに前足をかけた。彼女の身長では、ソファに上ることは到底できない。


「ん、ソファに上りたいのか」


ノリはわさびの小さな体を抱き、ゆっくりとソファに乗せた。彼女はソファの上で匂いを確かめ、右端の肘置きに顔を置こうとした。しかし、わさびの大きさでは肘置きに顔を置いたまま「伏せ」のポーズをすることはできない。


「カルビとやることがそっくりだなあ。あいつも全く同じ場所で寝てたっけ。犬ってみんな肘置きを枕にしたがるんだなあ」





わさびは日に日に大きくなった。900gほどしかなかった体重も今では2kg近くになり、ソファにも自分で上ることができるようになった。相変わらずソファが大好きで、疲れると必ずソファで休む。わさび用のベッドも用意されているのだが、まるで興味がないらしい。


「ワクチンも終わったし、明日から散歩に行けるわね。ノリ、明日休みでしょ。わさびちゃんお外に連れて行ってあげて」


「ワンワンワン!」


わさびが急に吠えた。「散歩」という言葉を聞いて急にテンションが上がる犬はたくさんいるが、わさびはまだ散歩には行ったことがなく、その言葉の意味も知るはずがない。


「わさび、『散歩』が分かるのか。さすがトイプー、賢いんだなあ」


確かにトイプードルはかなり利口な犬種だ。しかし聞いたこともない日本語まで分かるなんて。


翌日。ノリはわさびの首輪にリードをつけ、庭に連れ出した。ついにお散歩デビュー。はじめての散歩は、飼い主もドキドキするものだ。


「おう、ノリわさびのデビュー戦だな」


通りかかったのは、幼馴染の大森光二。保育園からずっと友達で、同じバスケットボールチームにも所属している。ノリのすべてを知る良き友人だ。


「もっふもふだな。さすがトイプードル。お~、よしよし」


わさびは光二に寄りかかり、左耳をなめた。


「ちょっと、やめろよ、くすぐったいだろ。そういやカルビも俺の左耳をなめてたな。おいしいのかな俺の耳」


光二は在りし日のカルビを思い出し、しみじみ言った。


「だいたい犬って耳舐めるもんだろ。みんなそうだよ」


「でも左耳だぜ?」


「2つしかねえんだから偶然だっての。じゃあ、俺はお嬢の散歩の続きに行ってくる」


「じゃあな!わさびちゃん、肉球が血だらけにならねえようにな!」


初めて散歩に行った犬はまだ肉球が柔らかく、足の裏から出血してしまうことがよくある。光二もかつて犬を飼っていたことがあるため、その辺の事情はよく知っている。







「わさび、そろそろ疲れただろ、戻ろうか」


しばらく散歩は続き、カルビが散歩コースにしていた道をたどる。かつてのカルビの散歩では、もう少し先の山の入り口をUターンしていた。しかしさすがに生後4か月に満たない幼獣には体力的にきついと思い、ノリはわさびに声をかけた。


「ウウウ、ワンワン!」


わさびは全力で拒否している様子だ。


「ああ、分かった分かった、もう少し先まで行こう」







「ただいまア」


ノリとわさびは帰宅した。


「遅かったじゃない。どこまで行ってたの」


母が心配そうに尋ねた。


「カルビと同じコース」


「ええ、わさびちゃんには長かったんじゃないの?」


「本人のご意向を尊重しただけさ」


わさびは得意げに短い尻尾を振った。まだ上手に振れないのだろうか、ずっと右に傾いたままだ。


「そろそろわさびちゃんに芸を仕込まないとね。犬ならお座り、お手、おかわり、伏せくらいはできるようにならないと」


母はご褒美用のおやつを持って来た。匂いを嗅ぎつけ、母のまわりで飛び跳ねるわさび。


「まだわかんないかなあ、わさびちゃん、お座り。こんな感じでね、おしりを…」


母が動きを覚えさせるためにわさびの腰に触れようとしたその時、わさびが一人で座った。彼女はやはやくおやつをくれと言わんばかりに目で訴えている。


「あれ、できたじゃない。偶然かしらね。はい、わさびちゃん、もう一回立って。もう一回よ。お座り」


わさびは立ち上がり、再び座った。誰の手を借りることもなく。


「すげえわさび!天才犬だ!新聞!記者を呼ばないと!」


「犬がお座りしたくらいで新聞には載らないわよ。お手も教えましょう。はい、わさびちゃん、次はね…」


わさびは何も言わずとも左手を差し出した。まるで、すでに芸を仕込んだように。


「…。間違いない。俺は確信した」


ノリは小さな声でつぶやいた。


芸の練習(とはいっても最初からすべてできていたが)のあと、ノリは部屋に戻り英語の塾の宿題をしていた。


わさびはノリの足元でお腹を出してイビキをかいている。

単語カードに英語の文章を書きながら発音の練習をするノリは、わさびに話しかけた。


「なあ、わさび。お前、カルビだろ?カルビの生まれ変わりだろ?ソファの右端に顔を置くのも、光二の左耳をなめるのも散歩コース違ったら怒るのも、全部カルビと同じなんだよ」


わさびはきょとんとした顔でノリを見つめる。


「お座りもお手も、誰も教えてないのにできたし。お前絶対カルビだ…」


わさびは無反応で昼寝を続けた。


「まあ、そんなわけないか。考えすぎだ。ごめんな、気にしないでくれ」


ノリはそういうと、再び勉強を始めた。


「ええと、This is my friend Koji. He is very tall… わっ!」


ノリが使っていた単語カードのリングが突然外れ、床にカードが散らばった。わさびがそれに気付いてカードに興味を示した。

1枚のカードを咥えてノリの元へ駆け寄るわさび。


そのカードには、ノリの字で


「Yes, I am.」


と書かれていた。

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