43食目 月夜の幻
獣の気配すらない深い森の中は青い匂いが立ち込めていた。深呼吸をすると、冷たい空気が体に染み込んでいく。
陽は沈み、暗い森の中には私とノエル、それにアレスとベレスが焚き火を囲う姿だけが浮かんでいる。僅かに開けたこの空間さえも暗闇が私達を飲み込もうと取り囲んでいた。
買い出しは出来なかったけど、手持ちの食材で何とかなって良かったわ。水も途中の小川で汲めたし、干し肉と乾燥果実は最高ね!
私は食後の満足感に浸りながら、ぼんやりと今日の出来事を振り返る。
「それにしても、誤算だったわね。こんなにイグドラシル兵が見回っているなんて。早く王都に行きたいのに……」
「焦っても仕方がありません。確実な方法で進むにはこの森を抜けて、国境付近まで回り込まなくてはなりませんから」
「そうね。少し遠回りだけど、明日には森を抜けられる予定だから嬉しいわ」
私達はジュモーの街から抜け道を通って検問をかわし、街道に戻って安全に次の街へ行く予定だった。しかし、その読みが甘かった。検問を抜けた先の街道でもイグドラシル兵が見回りをしていたのだ。どうにか街道へ出られないか模索して見たが、近くの森へ身を隠し、そのまま森を抜けて別の街から王都を目指すのが確実だろうという結論に至った。
最短距離で王都を目指すことは出来ないが、イグドラシル兵に見つからず安全に王都まで行くにはこの方法しかない。
「でも、兵の数が増えたのはどうしてかしら。明らかに増えているわよね?」
数日前までは街道を見回るほど兵数がいなかったはずだ。それが突然増えたのには何か理由があるはず。
「はい、聖王の尋ね人と言えど探すだけでこのような数の兵を使うのは考えられない事態かと……。しかしあの街に尋ね人がいると言う確固たる証拠があるのなら兵を集中的に置くことも考えられます」
「尋ね人がいる証拠……? 目撃者がいる、とか?」
私があの街にいるという足取りを掴んだのなら、その話しも納得できる。もしそうならば、どうやって、何が証拠となり得たのか。孤児院から情報が行ったのか、祭りで怪しまれたのか。コレット院長が私の存在に違和感を覚えたのはつい今朝のことだし、祭りで怪しまれたのだとしてもすぐに兵力増強には至らない。
だとすれば、思い当たるのは―――
「もしかして、あの赤髪の男……」
「可能性としては、そうですね。あの男が一番怪しいです。何者なのかわかりませんが一般人には見えませんでした」
確かに、目の前で消える一般人がいるわけがない。恐ろしくも不思議な雰囲気で、人なのに遠く手の及ばない存在にすら思える。
「考えてもわからないことばかりね……」
私は重くなり始めた頭を押さえて、考えるのをやめた。思わず溜め息が漏れる。
「お姉さん、落ち込まないで。悲しい気持ちなら一緒に寝てあげるよ」
「そうだよ、僕達の真価を発揮するいい機会だね。こっち来て?」
アレスとベレスはこっちにおいでと指示するように自分達の座っている岩の辺りを叩く。彼らは人の心を癒す仕事をしているらしいので、確かに慰めてもらうのもいいかもしれない。しかしどんな方法かは聞いていないので気が引ける。
「お前達はすぐにジュモーの街へ帰還しろ。レティシア様に近づくな」
ノエルが苛立ち、口調を強めた。口調もさることながら、私の隣にぴったりと隙間なく座り、アレスとベレスを遠巻きにしていた。街を出てから終始こんな感じなので私も遂には慣れてしまった。
慣れてしまっていいのかしら……。
アレスとベレスも、文句を言うのかと思いきや自分達の扱いを受け入れているようだった。理由は定かではないが、ノエルが握り拳を作ると大人しくなるので私もそのままにしている。
「大丈夫よ、ありがとう。でも、本当に貴方達には悪いことをしてしまったわね。身支度もしてないのにこんなところまで同行させてしまって……」
彼らは筒状の鞄をそれぞれ一つ持っているだけでかなり身軽だ。私達も多くの荷物は持っていないが、彼らよりは多い。
「大丈夫大丈夫、僕達はこの商売道具さえあればどこでもやっていけるしさ」
「あとは資産だね。お金は命より大切だよ」
どうやらあの鞄には女性ものの衣服や小道具、お金が入っているらしい。彼らは仕事をするとき、何故か女性の装いで行う。何とも謎めいている。
謎、といえば彼らには尋ねなければならないことがある。何となくこの話題に触れるのは避けたかったが、彼らは私に魔力がないということを知っていた。このことについて、どうしても言及しなくてはならない。
でも、ノエルがいるとややこしくなりそうね。また物騒なことを言い出しそうだわ。どうにか三人だけで話しが出来ないかしら。
私は上手くノエルを引き離す方法を考えてみるが名案は思い付かない。
思考が煮えきってしまった私は一度頭を冷すことにした。
「ノエル、ちょっと水浴びをしてくるわ」
食事の前に近くに湖畔があるのを確認していたので、そこで体を洗ってついでに頭もすっきりさせるのだ。
「レティシア様が行かれるのならば私も―――」
「あー! ずるい、僕達も一緒に行く!」
「お姉さんと一緒に水浴びするー!」
な、何で皆一緒に行こうとするの?
「一つ言っておくけれど、私は一応乙女なのよ? 男性は禁止!」
太っても乙女、されど少女、なのよ。しかも婚姻前の。
外野がやいやいとうるさいので、私は手布を荷物から取り出すと、さっさと湖畔に向けて歩き始めた。暗いので足元には注意しつつ、木に手を添えながら進む。
乙女の水浴びに男性が付いてくるなんてどういうことなの? 危ないからノエルが付いてこようとしたのはわかるけれど、アレスとベレスは絶対に付いてきたいだけだわ。
若干の呆れを感じながらしばらく歩くと、もう誰の声も聞こえなくなり、目の前に開けた空間が現れた。同時に、森の木々に覆われていた空がぽっかりと姿を見せる。
あんなに暗い森だったのに、月が見えるだけですごく明るいわ。
開けたその場所には夜空を切り取ったような湖畔が静かに水面を揺らしていた。その湖畔を柔らかな草が縁取り、風が涼やかに通りすぎる。
「気持ちいい……でも、早く終わらせないと心配させちゃうわね」
私は衣服を脱ぐと近くへ放り、足先から安全を確かめつつ水へ入る。冷たい水がじわじわと皮膚から体温を奪うが、焚き火で火照っていた体には心地よかった。
太腿くらいの深さへ来て水を手に取り、腕や間接部、首筋を丹念に洗う。月明かりが水滴に穏やかな輝きを与え、湖面に浮かぶ夜空へと還っていく。
こんなに綺麗なところ、初めてだわ。水も濁っていないようだし、星空がこんなに近く見える。
夜空を見上げると、眩しいほど輝く満月と煌めく星々が私を見下ろしていた。それは私の太った体さえも小さなものに感じてしまうほどだった。空を見上げていると喪失感に駆られ、届かない月へと手を伸ばしてしまう。
「どうして、私には魔法が使えないの……?」
―――だから父上は私を幽閉したの? なかったことにしたの?
誰しも魔法が使えるこの世界で、魔力を有しない自分が異質なものに思えて仕方がなかった。加えて、痩身に励んでもなかなか痩せないこの理不尽な体は、自分の存在を否定したくなるには十分過ぎた。
私は精霊祭でノエルから初めて感じた魔力を思い出し、どうにか魔力を出せないか精神集中してみるが、あの暖かい感覚を感じることは出来なかった。
やっぱり、無いものはないのね。
「……もうおしまい! 無い物ねだりしたって手に入るわけじゃないわ!」
私は水面を乱しながら水から上がり体を拭くと、さっさと着替えて来た道を戻った。
一人でいると余計なことばかり考えてしまうわ……早く皆のところへ戻らなくちゃ。
私は一人じゃない、そう思うと不思議と笑みが溢れ、足取りも軽かった。すぐに焚き火の明かりが見え、ノエル達の所へ戻ってくことが出来た。
「ただい、ま……?」
私が戻ると、アレスとベレスは草の上にごろりと寝そべり、ノエルはピリピリとした雰囲気を漂わせて木に寄りかかって立っていた。
怒っているわけではなさそうだけど……どうしたのかしら。
「あ、おかえり! 早かったね」
「もっとゆっくりでも良かったのに。でも、早く会えて嬉しいな」
「おかえりなさいませ、お体の調子はいかがですか?」
ノエルは私に近付いて丁寧に頭を下げた。顔を上げるとそこにはいつもの柔和な微笑み、でもどこかぎこちない。何かあったのだろうか。
「とてもさっぱりしたわ。それより、どうしたの? 何だか変よ」
「いえ、問題ありません」
さらりと答えたノエルの言葉には違和感があった。しかし、私に言いにくいこともあるだろうと思い、言及するのは止めた。ここで何かあるとすれば、少年達が文句を言ったとかそんなところだろう。彼らの仲が良くないのは理解している。
仲良くしてくれたら嬉しいけれど、無理強いすることではないものね。
私は黙って草の上に座り、ちりちりと燃え続ける火を見つめた。集めた薪も残り僅かとなり、心許なくなってきた。
「薪、少ないわね」
私がぽつりと呟くとノエルは周りを見渡し、少し考えているようだった。
「では、少しお時間を頂戴できますか?」
「えっ? もしかして薪を取ってくるの? そこまでしなくても……」
「いえ、火が消えた後、獣が寄って来ないよう周りに結界を張って参ります」
結界といえば、以前洞窟に施されていたものが思い出されたが、そんな簡単に出来るものなのだろうか。私が内心驚いていると、少年達が飛び起きて共鳴する。
「結界!?」
綺麗に重なった大声に私は驚き体がびくりと跳ねた。
「冷血お兄さんって結界張れるの!? びっくりだよ……」
「そんなにすごいことなの?」
私は驚く少年達にあっけらかんと聞いた。すると彼らは目を丸くさせ、ノエルと私を交互に見た。
「いやいや、だって結界を張るには、空の魔法適正がないと出来ないでしょ? この属性の希少価値を知らないで一緒にいたの?」
「すっごく珍しいから国の魔法師として遣えるらしいよ。隣国ではそうしてるんだって。この国でもそうしてるって聞いたよ」
「へぇ、そうなのね」
随分珍しい属性みたいだけれど、あまり驚きが湧かないわね。ノエルが優秀過ぎるからかしら。
「でもノエルは魔法以外もすごいのよ。力持ちだし、器用で家事全般も得意なの。特に料理は絶品なのよ!」
そう、ノエルは余り物の食材でも上手く調理できる。くず野菜も余すことなく使いきり、段取り上手で器量良しだ。
「私は、ノエルのことを誇りに思っているわ」
「へ、へぇ……凄いね」
「気遣いも出来て、勉学の指導も上手なのよ。そうだわ、貴方達も一度受けてみるといいわ!」
「いや僕達は足りてるよ、ありがとうお姉さん……」
私の称賛をノエルは伏し目がちに聞いていたが、小さく咳払いをしたと思うと森の方へ向かってしまった。
結界を張りに行ったのね、後でたくさん褒めてあげなくちゃ。
「ノエル! 早く帰ってきてねー!」
私は暗闇に消える背中に声を掛ける。今までも野宿の時には結界を張ることがあったが、しばらく時間がかかりそうだ。
その間は、この小悪魔達と一緒なわけだ。
何を話せばいいのかしら。
他人と話すのは好きな方だが、話題の選出は苦手だ。色んな人に出会って来たが、適切な話題とか距離感とかそういったものは未だにわからなかった。
すると、どちらかといえばお喋りな彼らが先に口を開いた。
「ねぇねぇ、王都で父親に会うって言ってたけどどんな人なの?」
「もしかしてお金持ち? 僕達のこと雇ってくれないかなぁ?」
道中、差し障りのない範囲で王都へ行く目的を話していた。父に会いに行くことを話すと興味がなさそうにしていたのに、また話しを掘り返してきた。
「父は……そうね。いい人、かもしれないわ」
今まで、父の人物像を想像してこなかったわけではない。朧気な幼い日の記憶と、聖王としての評価を噂で聞いて、それを混ぜこぜにして作り出した偶像。それが私の父だ。
私の漠然とした返答に、アレスとベレスはぽかんとしていた。
「いい人って……他人じゃないんだからもっとこう、具体的な話しはないの?」
「そうだよ。仕事とか、性格とか。思い出あるんでしょ?」
「ごめんなさい、わからないの。父とは物心付く頃には別離していたから……母はもう亡くなっているし、本当にわからないことばかりなの」
「ふーん、そうなんだ」
彼らは父上がお金持ちではなさそうと悟ったのか、興味がなくなってしまったようだ。
「私も聞きたいことがあるのだけど」
ノエルがいない今が好機だわ。
「どうして私に魔力がないってわかったの?」
心臓が身体中を震わせ、じんわりと汗をかく。あまりの緊張に声が震えた。魔力がないのは大精霊の加護がないということ、それは即ち悪を宿す異端者だ。ともすれば、処刑されてもおかしくはない。
「あぁ、それね。僕達は見えるんだ」
「そう、見えるんだよ―――」
見える? 一体何が?
私は彼らの言葉を静かに待った。少しの間の後、彼らは口を開いた。
「―――魔力」
声を揃えて言い放つ。私は緊張を忘れ、目を丸くして驚いた。
「ま、魔力が見えるの?」
「そっ。こう、もやぁっとした感じの。属性もわかるよ」
「見ようとしなければ気にならないけど。結構うっとおしいんだ」
抽象的過ぎてよくわからないが、事実として受け止めるしかなかった。
「じゃあ、出会った時から……初めからわかっていた……ってこと?」
「そうだね。魔力がない人なんて初めてだったし、なんか面白そうって思って」
「でもさ、あの冷血お兄さんはわかりにくかったんだよね。隠してるっていうか、抑え込んでるみたいであんまりもやもやしてなかったんだ。ずるいよね!」
彼らの様子を見る限り、私を脅すとかどうにかしようということは頭にないようだ。
念のため、確認してみようかしら。
「貴方達は、私を……その、変に思わない? あと、イグドラシル兵に突き出すとかしないの?」
恐る恐る尋ねると、彼らは無邪気にころころと笑って答える。
「何かするつもりなら、もうしてるよ。安心して? 僕達はただ優しいお姉さんと一緒に居たいだけ」
「そう、ただ好きなだけ。それに、お姉さんこそ僕達のこと怖くないの?」
怖い? この子達が?
少女と見間違えるほど愛らしい顔が不安そうにこちらを見ている。焚き火で揺らめく炎は彼らの表情に陰を落とす。
「怖くないわ」
強がりなんかじゃない。だって、こんなに不安に満ちた子供を怖がる理由なんかない。確かに悪戯に関しては度が過ぎるし加減がないけれど。
私の言葉に彼らは戸惑っているようだった。お互いに顔を見合せ、不信感と期待感が入り交じった様子で言う。
「ほんと? だって、魔力が見えるなんて聞いたことないでしょ……気味悪くない?」
「大丈夫、見えるだけだもの」
「でも僕達この力のせいで、悪魔だって言われて親からも捨てられて……嫌いだって言われて……」
「私は嫌わないわ。そもそも貴方達は人間よ、悪魔なんかじゃない」
私は彼らの言葉をすべて否定し、許容した。驚いたのは、彼らが涙ぐんでいたことだった。普段のひょうひょうとさえしている生意気な態度からは想像が出来ない。
「ありが……とう……」
「ありがと……」
消えてしまいそうな震えた声。無意識の内に私は彼らの頭を撫でていた。
孤児院でコレット院長やエキドナが子供達を慰める時、こうして優しく頭を撫でていたわね。今、あの気持ちが痛いほどわかるわ。
「ここには貴方達を疎ましく思ったり蔑んだりする人はいないわ。だから安心して」
「うっ……お、お姉さ―――」
二人が私に両手を勢いよく伸ばし抱き付こうかとした瞬間、動きは首根っこからぐんっとひっくり返りそうなほど強制停止した。
同時に冷ややかな声が落ちてくる。
「お前達、大人しくするよう躾たはずだが……まだ足りないようだな」
「うわっ! 僕達まだ何もしてないよ!」
「苦しい……服で首が締まる……」
「あらノエル、おかえりなさい」
いい時に戻ってきてくれて良かった。
「ただいま戻りました。範囲を広げて結界を張りましたので、明日の朝も水浴びは可能です」
「ありがとう、やっぱりノエルは頼りになるわ。明日はノエルも水浴びしましょうね」
「は、はい」
ノエルは軽々とアレスとベレスを捕まえながら返事をした。
「今、お姉さんと一緒に入れると思って想像しただろー」
「うわーむっつりだ」
二人の冷やかしに私は苦笑いをした。どう考えてもノエルが私と水浴びしたいわけがない。
それに人に見せられる体ではないもの。こんな醜悪な体なんて。
「レティシア様、本日はあちらの柔らかい草の上でお休みください。私のローブで申し訳ないのですが、布団代わりになさってください。この者達に無礼な態度を改めるための躾をしてからすぐお側に参ります」
「わかったわ。……程々にしてあげてね……」
「かしこまりました」
ノエルは文句を垂れる少年達を軽々と引きずりながら、ぎりぎり見えるところだが離れた場所へ行ってしまった。声もほとんど聞こえない。
大丈夫かしら……。
あまり見ては失礼だと思い、背を向けて体を横たえた。ノエルのローブは畳んで近くに避けて、自分のローブを体にかける。
汚したら悪いものね。
そう思って目を瞑ると、森を歩き通した疲労からかすぐに眠気が襲ってきた。結界もある安心感から私はその眠りに静かに身を委ねた。
深い眠りの手前、背中に僅かな暖かさを感じ意識が戻り掛けるものの、私が強い眠気に勝つことはなかった。
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