ある男の非日常
湯灯し詩葉
第1話
そいつを目の前にした瞬間から、私にはもう戦う覚悟が出来ていた。
顔を合わせただけで分かる強大な力。これから私がどれだけのカードを切って戦おうとしているのか、すべて見透かされているかのようだ。
大人一人分ほどの体躯の割に、親指一本も通らないのではないかと感じるほどの小さな口。そのおちょぼ口にこれまで何人の挑戦者が無残にも食い殺されてきたかは、今となっては知る術もない。
不安はない、と言えばウソになる。だがそれでも挑むのは、この怪物を倒した先に待つ絶頂と快感を知っているからだ。
仲間はいない。正真正銘の一対一。戦況は圧倒的に不利。
しかし私は信じている。可能性が数パーセントでもあるのなら、必ず勝利を引き寄せられる。勝つか負けるかは二分の一。五十パーセントなら通せると。
ハンドルを握る手に力が入る。
今私が出来るのは、自分の分身とも言うべき銀の弾丸を、呼吸をするように、しかし呼吸より速く打ち込み続け、降り注ぐ弾丸の雨の一滴が、悪魔の心の臓を貫かんとする瞬間を、物乞う愚者のようにひたすら祈ること、ただそれだけだ。
そして私は勢いよくハンドルを右に回した。
「チャンス!」
ぐるぐると数字が目まぐるしく回る。こんな数字如きに運命が左右されるのは滑稽でならないが、かの数学者ピタゴラスが「万物の根源は数である」と言ったように、常に私たちは「数字」という訳の分からない記号に踊らされているのだ。
両端の数字が揃う。テンパイというやつだ。何処からか「チャンス!」などという幻聴が聞こえた気がしたがこれは決してチャンスなどではない。チャンスとは一概にして自分で手繰り寄せるものであって、与えられるものではない。要するに「チャンス!」と聞こえた時点でそれは悪魔の囁き。つまりははずれなのである。
大方の予測どおりチャンスは手から滑り落ち、それからはただ待つだけの時間が始まった。
なるほど、聞いていた通りの怪物らしい。
この曲者は自身に備わる無数のギミックを用いて私の放つ攻撃をひらりと躱し、いざ胸に突き立てた刃もその身体を貫くには至らない。減っていくのは上皿で出撃を待つ残機たちと、私のか細いメンタルだけ。
勝負の世界というのは実に非情だ。運のない者が負ける。そして敗者は去るのみ。引き際を誤れば次に取って食われるのは間違いなく私だ。
財布をちらっと確認し、次に上皿の残機に目を移す。
撤退するならここだな。なに、今日は半分偵察だ。攻略は次の機会としておこう。惜しむらくは「虹」が見れなかったことか。
なかば強引に自分に言い聞かせ、上皿の玉を消費して席を立とうとした。
その時。
「激熱!」
その言葉と共に、私の脳髄に雷に撃たれたような電流が走った。
「激熱」という言葉は実に良い。直訳すれば「very hot」だ。すごく熱いのだ。期待しない訳がない。言うなればこれは悪魔の断末魔だ。心臓を銀の弾丸で貫かれ、地獄の業火によって灼き葬られる悪魔の最期の咆哮。
そして間髪入れず、メーカー公式キャラクター「デブにゃん」の登場。そうプレミア演出である。
かつて人々は虹を求めた。七色に輝く光景を、希望という名の神秘を。
悪魔によって固く閉ざされた扉、その先に待つもの。それが虹。
数字などとうに超越したところで、私は悪魔との最終決戦に挑む。一体ここに辿り着くまでにどれだけの時を過ごしたのだろう。だがそんな時間もう些細な事。このわずか数秒後には、私とこやつの雌雄が決するのだ。
私は勝利を信じて疑わなかった。これまで何千、何万と打ち込んだ弾丸たち、これまで何十、何百とつぎ込んだ諭吉たち。そのすべてが無駄ではなかったのだと証明するために。
既にハンドルからは手を離した。右手に力溜める為だ。
「私たちにとって虹は眺めるものではない。掴むものだ」
誰かから聞いた言葉が脳裏によぎる。
そう、私は確かに、虹を掴める所にいる。そして、今、掴む。
悪魔、お前が私に倒される道理があるとすれば、それはいままで辛酸を飲み散らせた犠牲者の報いと知れ。
力は溜まった。今振り下ろさん、正義の鉄槌。
効果音が早まる。勝負のときだ。
テンテンテンテンテレテレテレテレレレレレー………。
沈黙、そして。
「PUSH!」
「天誅!!!」
目一杯の力を込めて、私はPUSHボタンを押し込んだ………。
「なあ聞いてくれよマスター。あれが外れたんだぜ。遠隔だよ遠隔」
「その話三回目、あんまり店の中でパチンコの話しないでよ竜ちゃん」
「何度でも言ってやるさ、もう絶対あの台は打たん!」
「んなこと言って、どうせ一週間後にまた打ってんでしょうが。あと竜ちゃん、これだけは言わせて」
「ん、なんだよ」
遊技台は大切に扱いましょう。
おわり。
ある男の非日常 湯灯し詩葉 @youta7777
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