声
亀子
第1話
叔母にあたる人が怪談、というかジャンルを問わず気味の悪い話が好きな人だった。幼い頃、彼女はよくその手の話を聞かせてくれたものだ。
遠い昔に行われた残酷な拷問や処刑から、学校など身近な場所で起こった不思議な話。その中で、やけに頭に残っているフレーズがある。
お化けや幽霊は、人の声を真似るのが得意。だから姿の見えない、声だけのものを信用してはだめ。
なるほど。確かに私の知る限りだが、扉越しに生きた人間に話しかける幽霊の話は多い気がする。それも近親者などを装い、彼らは生者と自分たちを隔てる扉を開けさせようとするのだ。
そして、この話を思い出すたび、一緒になって呼び起こされる記憶がある。今から十年と少し前。暑い夏の最中に、更に暑い南を旅したときの話だ。
大学生だった私は、夏休みを利用して日本の南にある、ある島を訪れていた。自然に溢れ、民家もまばら。ビル群などを当然ない。なぜか山羊を多く見かけたが、もしかしたら彼らは人口より多かったかもしれない。そんな島だ。
島の民宿に予約を入れていたが、連れて行かれたのは普通の民家だった。どうやら宿が満員だと、何人かはオーナーの親戚の家に回されるらしい。少し驚いたが、迎えてくれた家人は慣れた様子だ。多分、よくあることなのだろう。
その民家に泊まることになったのは3人組の女の子、いかにも都会から来たらしい垢抜けた雰囲気の男、それに私。5人とも同世代だったせいか、すぐに打ち解けた。特に同性である都会人氏とはすぐ仲良くなった。見た目よりずっと気さくで、はなしやすかったのだ。
私達にあてがわれた部屋は2階にあった。私と都会人氏ー彼の名は仮に山田としておくーの部屋はそれぞれ3畳ほどの個室。狭いが寝るためだけの部屋なので問題ない。古いが清潔で、決して悪くない部屋だ。ただ案内してくれた、この家の主人と思われる老齢の女性に言われたことは少し気になった。
「夜中に誰かから声かけられても、襖は開けんといてね。襖、開けさえしんければ、平気だから。」
なぜか彼女は私と山田だけに、小声で言った。
「どうしてですか?」
山田は問うたが、返事はなかった。山田も私も、それ以上は何も聞かなかった。因みになんの注意も受けていないらしい女の子たちは、3人一緒なので大部屋だ。とはいえ、8畳ほどの広さだったが。
私達はレンタサイクルで島中を回り、真っ青な海や広いサトウキビ畑に興奮してはしゃぎ回った。大広間(正確には普通の居間)での夕食後も興奮は冷めず、私達は道端に寝転がって夜空を眺めた。そこで初めて、空にこれほどまでにたくさんの星があるのだと知り、皆が溜息を漏らす。しかし道に寝転がっているのに誰の邪魔にもなっていないことに気づくと、また全員が笑い転げた。今思えば、何がそれ程までに可笑しいのかと、疑問に思うほどに。
夜が更け、そろそろ寝ようと自室に戻る前に、互いの連絡先を交換した。また明日も、一緒に島巡りをしようと笑い合う。本当に楽しいひとときだった。
皆で部屋に戻る途中、山田が女の子たちに聞こえぬよう、小声で話かけてくる。
リカちゃんいいよなあ。あの子、すげえタイプだわ。帰ってからも連絡先とろうと思ってるんだ。
私は彼の台詞に少し動揺した。リカに好意を持っていたのは、私も同じだったからだ。
それまでとは打って変わって、悶々とした気持ちで私は布団に入った。私も帰ってから、彼女を誘おうと思っていた。しかし今、その気持ちはすっかり萎えている。元々、ダメ元で…という気ではあった。しかし目の前に具体的なライバルが現れると、振り絞ろうと思っていた勇気も、どこかに消えてしまった。こざっぱりして明るい山田に、如何にも大人しい文系男の私が勝てるとは思えない。第一、山田がいなければ私は彼女たちと交流をもつことも、まして連絡先を交換することなどできなかったに違いない。
諦めるしかないのか。最初から縁のない相手だったと、自分にいいきかせるしかないのか。ぐるぐると後ろ向きな考えばかりが頭を巡り、眠れない。
どれだけ時間が経っただろう。私の耳に小さく戸を叩く音が聞こえた。反射的に上半身を起こす。
「ねえ、起きてる?」
その声に、私の心臓は飛び出しそうになる。
ーリカだ。
信じられないくらい激しく胸が鼓動した。どうして彼女が訪ねてくるのだろう。それもこんな時間に、多分、一人で。
恥ずかしい話だが、私は一瞬にしてかなり都合のいい妄想をしてしまった。実は短期間の間に彼女が私に激しく恋をし、気持ちを抑えがたくなってここに来たのだと。ありえないと、今ならば冷静に考えられる。が、そのときの若かった私は、自分を客観視できなかったのだ。女性が夜中に男の部屋を訪ねて来たということは…と考えると、胸も股間も希望で膨らんだ。
「ねえ、起きてるんでしょう。開けて。」
返事をして立ち上がろうとしたとき、舞い上っていた私の頭に、叔母の声が響く。
声だけのものを信用してはだめ。
私は体の動きを止め、出かかっていた声も押し戻す。
いや、そんなまさか。小学生でもあるまいし、そんな話を信じるなんて。けれど叔母の声は私の中で何度も繰り返される。
そして、家の主人である老女の言葉も甦ってきた。襖を開けさえさなければ平気。平気?何が?襖を開けてしまったら、どうなるというのだ。
「ねえ開けて。いるんでしょう。起きてるんでしょう。」
最初は小さかった戸を叩く音が、声と共にだんだん大きくなってくる。
ねえ開けて、いるんでしょう。とんとんとん。
起きてるんでしょう、聞こえてるんでしょう、どんどんどん。
開けてねえ開けてここを開けてどんっどんっどんっ。
開けてってばねえ開けて開けてここを開けてよどん!どん!どん!
開けて開けて開けて開けて開けてよねえ開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けて開けてどん!!!どん!!!どん!!!
私は頭から布団をかぶり、見動きひとつせずにいた。全身が汗でじっとりとぬれてきていたが、決して暑さのせいではない。私は目の前の古く、頼りない襖を見つめる。もしこれが外れてしまったら。いや、それ以前に、こんなもの簡単に開けることができる。向こう側にいるそれが、この襖を開けてしまったら。どうなるかわからないが、わからないことが怖かった。それとも老女の言うように、こちらから開けさえしなければ平気なのか。
叩かれるたびに、襖がしなる。呼吸をすることすら忘れてしまいそうになるほど、私はそれを一心に見つめていた。どうか開きませんように、外れたりしませんように。
部屋の外のそれは、かなり長くそこにいたと思う。いつ去っていったかはわからない。外が静かになってからも、足音などはしなかったからだ。
私は結局、眠れずに朝を迎えた。
朝食は、昨夜と同じように大広間で全員で摂ることになっていた。最初に席に着いたのが私。次いで女の子たち。山田は、まだ来ない。
私は何気なく彼女たち、特にリカを観察した。変わった様子はない。よく眠れたかと問うと、3人は笑いながら「あんまり」と答えた。
「なんか興奮して眠れなくて。」
「結局、朝までおしゃべりしてたんだ。」
「あ、もしかして、うるさかった?」
いや、と私は首を振る。やはり昨日のあれはリカではなさそうだ。しかし不思議なのは彼女たちが何も気づいていないことだ。薄い壁を隔てただけの隣室にいた彼女たちが、昨日のことに気づかないなどあるだろうか。深く眠っていたならば、それもあるかもしれない。けれど、起きていたのに。
「山田くん、遅いね」
一人がそう言ったとき、私はハッとして時計を見た。私達が席に着いてから、30分以上経っている。
結局、私達が先に食事を摂り身支度を整えても、彼はやって来なかった。心配になって部屋を覗くと敷きっぱなしの布団と、残されたままの彼の荷物が目に入った。
そのあと、山田がどうなったか私は知らない。財布もケータイも持たずにどこかに行くなどありえないが、彼は見つからなかった。腑に落ちないのは、山田のことを知った時のオーナーをはじめとした宿の関係者の反応だ。焦った様子が全く見られなかった。ただ溜息をつき肩を落として「そうですか」といっただけだった。宿泊客が消えたというのに。
それから長い時間が過ぎた。あれから私は一度だけ、山田に連絡しようとしたことがある。やはり彼のことは気になったからだ。しかし結局、私はそれをしなかった。叔母に止められたのだ。
「やめときなよォ」
叔母は如何にも面倒くさそうに私に言った。
「誰かが電話に出ても、それが本物の山田かどうかわかんないじゃん」
今でも私は時々、彼を思い出す。そして考える。彼の元にも、何かがやって来たのだろうか。そうして彼は、襖を開けてしまったのだろうかと。
声 亀子 @kame0303
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます