第41話 彼女のお願い

 恥もパンツも捨てて姉の部屋から鏡を手に入れることができた俺は、約束通りそれを枕もとにセットした。

 寝る前にと綾音は言っていたが、彼女がいつ寝るのかなんてわからないので、俺は見逃さないようにいつもより2時間も早くベッドに潜り込んで待機する。気になることは山ほどあるが、一番気がかりなのは……


「本当にちゃんと現れるのか、これ?」

 

 頼りなく枕もとで立っているスタンドミラーを見つめながら俺はボヤいた。鏡の中では、眉間に皺を寄せた男がこちらを睨んでいる。

 風呂場で突然出会ってしまったせいであの時は慌てて飛び出してしまったが、この鏡を使って綾音ともう一度会える保証なんてない。まして会える機会が減っている中、さっきの再会が最後だったかもしれないという考えたくもない可能性だってあるのだ。

 そんなことを考えて居ても立ってもいられなくなった俺は、少しでも綾音が現れやすくなるようにと試行錯誤を繰り返す。指紋一つ残らないように鏡を磨いてみたり、置いてある位置や鏡の角度を変えてみたり。

 さすがに、ベッドの上で正座してパンパンと手を叩いて鏡に向かって頭を下げた時は、自分でもおかしい奴だと思ってしまい一人咳払いをして誤魔化した。

 そんな試行錯誤を繰り返しているうちに疲れ果ててしまった俺は、大人しく待っていようと諦めて布団の中に入った。結局俺がどうこうしたところで、何も変わらないのだろう。


「はぁ……」

 

 疲れ切った声でため息を吐き出してぼんやりと天井を眺めていると、これまで綾音と過ごしてきた時間が無意識に頭の中で回想される。

 今思えば最初に出会ってからまだ数ヶ月しか経っていないのに、俺はかなりの時間を彼女と過ごしてきたのだ。学校だけでなく、家や風呂場まで現れてくる綾音は、ある意味家族よりも近い存在になっていた。

 けれど、俺と綾音の関係は本来ありえないもので、不確かなもの。だからこれから先もずっと会えるなんて保証はどこにもない。なのに俺は、いつしか綾音がいる日常が当たり前だと思っていた。

 たとえそれが指一本触れることができない繋がりだったとしても、俺にとって綾音はもう……

 思い出の延長にそんなことを考えていた俺は、そっと両目を閉じると小さくため息を吐き出す。その時、どこからともなく声が聞こえた。


『直人』


「うわッ!」

 

 突然頭の中で名前を呼ばれて驚いた俺は、慌てて上半身を起こした。すると今度はクスクスと笑い声が聞こえてくる。目を丸くしたまま手元の鏡を見ると、そこには枕に頭を乗せた綾音が映っていた。

 そのあまりに無防備な姿に、思わず心臓がドキリと跳ねる。


『寝てたでしょ?』

 

 少し悪戯な口調で聞いてくる綾音に、『寝てないって』と俺はついムキになって言葉を返す。どうやら約束通り、自分たちは本当に会えたようだ。

 枕から頭を起こしたものの、元の位置へと戻せなくなった俺に、綾音が不思議そうに尋ねてくる。


『寝ないの?』


「…………」

 

 くるりとした大きな瞳を上目遣いで向けてくる綾音。俺は恥ずかしくなってそんな彼女から一瞬視線を逸らすと、ぎこちない動きで頭を枕の上へと戻す。そりゃそうだ。いくら鏡の中とはいえ、女の子が隣にいて堂々と寝れるわけがない。

 そんなことを意識してしまい頭を横にすることもできず、俺は意味もなく天井をじっと見つめる。するとクスリと笑う綾音が口を開いた。


『本当に会えたね』

 

 その言葉にチラッと隣を見ると、彼女は嬉しそうに唇で弧を描いた。思った以上に近過ぎた距離感に驚いた俺は、『そ、そうだな……』と返事をした後、すぐに視線を天井へと戻す。

 そこから俺たちは、今までのように取りとめのない会話をぽつりぽつりと始めた。最近学校であったことやお互いの友人のこと、そして家族の話しなど。

 時々綾音が咳き込んで話しが中断することはあったが、それでもお互い今の時間を少しでもたくさん共有しようと、話す話題が尽きることはなかった。そして、そんな会話を続けながらも俺の頭の片隅にずっとあったのは、さっき風呂場で綾音が話したいことがあると言っていた件だ。

 一体何の話しなんだろうと疑問に思っていた時、ふと会話が途切れて静寂がお互いの部屋を包んだ。偶然というより、まるで綾音が俺の心を読んでタイミングを見計らったみたいに。

 しばらくの間沈黙が続き、違和感を感じた俺はチラリと綾音の方を見る。するとさっきまで楽しそうに話していたはずの彼女が、何故か少し悲しそうに睫毛を伏せていた。

『綾音?』と気になった俺が言葉を掛けようとした時、そんな俺の視線に気づいた綾音の方が先に口を開く。


『私ね……手術することになったんだ』


「え?」

 

 まったく予想もしなかった綾音の突然の話しに、俺は思わず言葉を失う。慌てて頭を起こして鏡に映る彼女を見ると、綾音は俺からそっと視線を逸らした。


『今日、病院に行ってきたら先生にそう言われたの』


『……』

 

 綾音の話しに、俺はどんな言葉を伝えればいいのかわからず黙り込んでしまう。手術、という言葉と綾音のイメージがまったく結び付かず、どこまで踏み込んでいいのかわからない。


『そんなに……悪いのか?』

 

 ゴクリと唾を飲み込んでからやっと口を開くと、綾音はチラリと俺の方を見て小さく微笑む。


『もう、なんで直人がそんなに深刻そうな顔するのさ』


『だって手術って聞けばそりゃ……』


『そんなに心配しなくても大丈夫だよ。それに、たいした手術じゃないから』


『……』

 

 クスクスと笑いながら話す綾音に、なんだか俺の方が勝手に心配し過ぎたのかと恥ずかしくなってしまう。

 そんな気持ちを誤魔化すように咳払いをすると、俺は再び綾音に尋ねた。


『手術はいつなんだよ?』


『来週の月曜日』


『来週のって……もうすぐじゃねえか』


 驚いて目を丸くする自分に、『そうだよ』と綾音はまるで他人事のように言葉を返す。その声が、どこか魂が抜け落ちたみたいにざらりと乾いているような気がして、胸の奥底で黒いものがまた疼く。

 それがどうしても気になってしまった俺は、恐る恐る口を開く。


『なあ綾音……』

 

 本当に大丈夫なんだよな? と尋ねようとした言葉を、俺はすんでのところで飲み込んだ。今自分がこの言葉を口にしてしまうと、俺と彼女を繋ぐ何かが崩れ落ちてしまう。そんな気がしたから。

 中途半端に話すことをやめてしまった自分に、『何よ?』と綾音がわざとらしく目を細めた。いつもと変わらない彼女の反応に、俺はほっと胸を撫で下ろした。さっき感じた胸騒ぎは、たぶん俺の気のせいだろう。

 そう自分自身に言い聞かせた俺は、『何もない』と言って脱力するように再び枕へと頭を預ける。綾音は話しを途中でやめてしまったことが不服なようで、ぷいっと俺に背を向けてしまった。けれど、すぐにクスクスと肩を震わせる。


『ねえ直人』


『何だよ』

 

 背を向けたまま優しい声で名前を呼んできた相手に、俺は恥ずかしさを誤魔化すように少しぶっきらぼうに返事をする。すると、一呼吸置いた綾音がそっと口を開いた。


『直人から見て、私ってどんな人?』


『え?』

 

 またも予想もしなかった言葉に、ほとんど『げッ』に近い声が出てしまった。仕方ないだろう、手術をするという深刻な話しの後にこんな質問をされてしまったら。

 てっきりいつものようにからかわれているだけかと思ったが、綾音は本当に俺の返答を待っているようで何も話さない。一向に口を開こうとはしない彼女を見て、俺は諦めてため息をついた。


『……努力家』

 

 投げやりにも似た口調で話し始めた俺に、今度は綾音の方が『え?』と声を漏らす。そんな彼女の様子をあえて気にしないフリをしながら、俺は言葉を続ける。


『自分の目標持ってて、ちゃんとそこに向かってる凄いやつ。俺と違って勉強もできるし、友達も多くて誰よりも優しいやつ。そのくせ変なところは負けず嫌いで、譲らないところは何があっても絶対譲らない。だから……』


 ぽつりぽつりと話し始めたつもりが、いつの間にか自分の声には熱がこもっていることに気づいた。伝えたい言葉が胸の奥からとめどなく溢れてきてしまい、うまくまとめることができない。


『だから……負けんなよ』

 

 少し考え込んだ末に出てきたのは、そんな言葉だった。

 手術することに対して、彼女が心に抱えていることに対して、そして、向かい続けている夢に対して。

 綾音ならきっとどんなことでも乗り越えていけるはずだというつもりで言ったのだけれど、言葉足らずどころか、やっぱり俺も姉と一緒で不器用みたいだ。

 そんな俺の話しを綾音は黙ったまま聞いていた。素直に話したものの返事がないのが非常に気になり、俺はチラリと綾音の方を見る。すると彼女はまた笑っているのか、背中を向けたまま少しだけ肩を震わせていた。


『……』

 

 俺はこれ以上どんな言葉を続ければいいのかわからず、とりあえず視線を天井へと戻すと黙り込む。


『……ありがと』

 

 ふいに綾音の囁くような声が心の中に響いて、俺は再び彼女の方を向いた。


『私、頑張るよ』


『お、おう……』

 

 真剣なのか、それとも冗談なのか。彼女の背中を見るだけではどちらなのかわからず、俺はついぎこちない返事を返してしまう。するとまた綾音の声が聞こえてくる。


『最後に一つだけお願いがあるんだけど……聞いてくれる?』


 改まった感じで聞いてくる綾音に、『何だよ?』と俺はぎこちない口調で返事をする。一体どんなことをお願いされるのかと身構えていたら、再び綾音の柔らかな声音が届く。


『私がねむるまで、起きてて』

 

 どこか甘えたような、綾音にしては珍しい口調に、俺は一瞬ドキリとしてしまう。綾音が寝るまで鏡に映ることができるのかどうかわからないけれど、俺は『わかった』とだけ言葉を返した。

 そこから綾音は一言も話さなかった。

 もう寝たのだろうか? と背中を向ける彼女の姿をチラチラと見てはそんなことを思いつつ、俺の方はまったく眠れそうな気がしなかった。綾音と話したことがぐるぐると頭の中で回るたびに妙な胸騒ぎは感じてしまうし、隣で綾音が寝ていると思うと、それはそれで落ち着かなかったからだ。

 それでも俺は自分の心を落ち着かせようと、ぎゅっと瞼を閉じてみる。暗闇の中、ほんの一瞬綾音の姿が見えなくなっただけで、その繋がりが何だかまた不確かなものに感じてしまった。

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