第41話 ほうせい病院
翌日僕たちは、昼過ぎにホテルを出発した。車には、メンバー全員を乗せた。それぞれが緊張した面持ちでいる。
ヤクザのドライバーと異常に強い中年女性。小早川は彼女の神業的剣術をしっかり見たのだ。そして夜逃げをしてしばらくぶりに顔を見せた佐伯と、同級生でもなかった自分。経緯を知らなければ、まったく妙な取り合わせだと思うに違いない。
ホテルを出てすぐに雫石川を渡ると、前方に奥羽山脈が広がっていた。背の低い建物ばかりになり、そのうち広い牧草地が道の両側に現れる。
懐かしい光景だった。普段東京で暮らしていると、随分次元の違う世界に見える。これが僕と佐伯の故郷だ。
佐伯は事情を抱えてこの地から離れたためか、そうした光景を感慨深げにじっと見つめていた。
こうして地元の風景に触れていると、つい高校時代を思い出す。夏の盛り、校舎裏の空き地で佐伯に手紙をもらったことだ。
思えばあれが始まりだった。それから彼女と仙台で再会し、そこを脱出して東京で同じバイトをし、今こうしてまた二人で故郷に帰ってきた。ふと、この終わりはどこになるのだろうと考えた。その想像の中には、不吉な予感も含まれる。
車は登坂に差し掛かり、道幅がぐっと狭くなった。木々がトンネルのように空を覆い、道路に落ちた影が揺れている。目的地は近い。
この先の病院で、人生に幕を降ろしたように暮らす一人の女性がいる。倉本三千代、倉本龍二の母だ。
知人に調べてもらうと、彼女は篠原和夫の死をきっかけに精神異常をきたし、離婚されてこの先のほうせい病院へ入院していた。
そこは閉鎖病棟を持つ精神科病院で、入院当初倉本三千代は極度のうつ状態と自傷行為のため閉鎖病棟へ入ったが、今は落ち着いて開放病棟に移っている。
僕と佐伯は盛岡に着いたその日にこのほうせい病院を訪れ、倉本三千代の担当医と直接会話をした。東京から電話をし、来院の許可を得ての訪問だった。
当初医師は、自分の訪問を頑なに拒んだ。精神科への訪問ならば当然のことだった。それで僕は、篠原和夫の実父である篠原信之に連絡を取った。何度も電話で事情を説明し倉本の母親を救いたいと訴えた結果、ようやく彼から病院の医師へ頼んでもらったのだ。
離婚後も彼は、度々病院を訪れているようだった。息子が死んで自暴自棄になり、同時に始まった妻の精神的疾患。
彼の心もぼろ雑巾のように傷んだ。彼は現実から逃避したい一心で離婚したけれど、心の平静を取り戻すと自分の浅はかな行動を後悔し、相変わらず三千代のことを気に掛けている。
担当医は五十半ばで白髪頭の小柄な老年医師だった。かけている眼鏡は老眼鏡のようで、こちらを見るときは顎を引いて、ずらした眼鏡の上からこちらを覗き込む。
盛岡へ訪れた初日、その担当医から話しを聞き、本人の様子を陰からこっそり覗かせてもらった。
倉本三千代は、頭髪が綺麗に整えられ身なりもすっきりしていたけれど、焦点の合わない目付きで当てのない視線を宙へ固定し、椅子に座わって全く動こうとしなかった。
放っておくと、一日中そうしているようだ。実年齢が五十五であるはずの彼女は、それより十歳も多く年輪を刻んだ人のように見えた。
佐伯はその姿を見て涙を流した。
自分の母親の友人は、山岳事故で息子を亡くし、そのショックで失明した。人の身体はそれだけ大きな負荷がかかると、理屈では考えられない症状が出るようだ。
自分たちはそこへ毎日通う。それで死んだ和夫の代わりに倉本三千代の身の回りの世話をする。自分たちが息子の代わりになることで、彼女の回復に役立てないかと思ったのだ。
医師から彼女と接する際の注意事項を聞かされた。
相手が怖がることをしない、驚かせてもいけない、無理強いをしない、話はいつでも静かに落ち着いて、といったようなことだ。一度でも彼女の病状が悪化することがあれば、それ以降の面会は一切許可しないという約束だった。
倉本三千代に会うのは自分と佐伯だけで、他のメンバーはボランティアで病院内の雑用を手伝う。病院に行く前、彼らにも多くの注意事項をしつこく伝えた。
彼らは最初、意味が分からないと文句じみたことを口々に言った。それに対して僕は、文句を言える立場ではないだろうと冷たく断じた。
そして病院を訪れた初日、陰からこっそり、みんなに倉本三千代の姿を見せてやった。
「よく見ろ。あの女性の人生をあんなふうにしたのは誰かを考えろ。もう篠原は生き返らない。それでも少しでも償う気持ちがあるなら、文句を言わずにまずは働け」
もう誰も文句を言わなかった。みんなが口を奪われたように黙り込んだ。
彼らは誰がどんなふうに奈落の底へ落ちたのか、それまで具体的なものを見てこなかったのだ。おそらく見たくもないと思っていたのだろう。それを目の当たりにすることは、とても怖いはずなのだ。
自分たちの責任を思い知らされ、しかし死んだ人間はもう生き返らない。どうしようもない状況で、それでもおそらく実を結ばない償う努力をしなければならない。そんな状況から、これまで彼らは逃げ続けてきたのだ。
倉本が、そんな奴らを許せるはずがない。他人の自分でさえ許せないのだ。血のつながる身内ならば、血液が沸騰するほどの怒りを抱いているはずだ。
早速僕たちは、作業を始めた。病院の中には様々な雑用があった。花壇の手入れや床や窓の清掃、食事トレイの回収と食器洗い、トイレやバスの清掃などだ。患者と接する仕事は一切しない。しかし使い走りの仕事は何でも引き受ける。
雑用組の隊長は貞子さんだ。彼女が何かを気付けば指示を出し、同時に看護師の要求に対する窓口的役割を果たした。
そして僕と佐伯は倉本三千代の傍にいつでも寄り添い、家族のように身の回りの世話をした。最初は看護師が心配して様子を頻繁に見にきたけれど、四日目辺りで少しは信頼されるようになり、チェックの回数も減った。
肝心の倉本三千代は、僕たちが彼女の視界に入っていないかのように、まるで無反応だった。話しかけても返事はないし、もちろん彼女から話しかけてくることは皆無だ。
佐伯は彼女の着換えを手伝い、髪をとかし、化粧をしてあげた。僕は散歩の介添えや部屋の掃除をして、彼女に小説を読んで聞かせ、そしていつも彼女に何かを話しかけた。彼女が孤独や寂しさを感じる暇を与えないようにした。
それでも彼女は、全く反応を示さなかった。まるで、魂のない人形のようだった。
一週間もその状態が続くと、倉本三千代は単に精神的病を患っているのではなく、頭の部品が物理的に壊れているのではないかと疑いたくなった。そうであれば、僕たちに彼女の状態を改善するのは無理ということになる。
そういった焦りが芽生える中で、元々一朝一夕に解決できるものではないのだと自分に言い聞かせ、顔を覗かせる苛立ちや焦りを封じ込めるよう努めた。
病室外へ散歩に出ると、病院敷地内のどこかで仕事をしているメンバーの誰かと遭遇した。
彼らは恐る恐る倉本三千代の顔を見るだけで、約束した通り話しかけてはこなかった。彼らは篠原和夫の死に深く関わっているため、倉本三千代にとって刺激が強過ぎる可能性があったのだ。よって直接面会をするのは、倉本三千代に改善が見られてからということにしていた。
彼らの倉本三千代に対する目付きには、明らかな変化があった。
最初は怯えていた。おそらく倉本三千代に怯えていたわけではない。自分たちのしでかしてしまったことに対する怯えだ。それが彼女を心配し応援する、暖かみを感じる顔になっていった。それは自分が抱える不幸の芽を早く摘み取ってしまいたいという利己的なものではなく、罪の意識に裏打ちされた贖罪の気持ちを含んでいることが伺えた。
病院での作業が終わってから行うホテルでのショートミーティングの中でも、彼らに明らかな変化が見えていた。当初のような投げやりで無責任な発言や態度は消え、毎日の作業内容に対する成果や改善提案のような発言が大半を占めるようになった。
このミーティングの中で僕は、倉本三千代の様子を報告していたけれど、彼女にまるで改善の様子が見えないことは、彼らの心に影を落としているようだった。彼らは既に、自分たちが倉本三千代を壊したことを、すっかり自覚していた。
まずはそれを自覚することが大切だった。それがなければ倉本三千代を救いたい、そして謝りたいという気持ちが芽生えることはないのだから。
転機の兆しが見えたのは、病院に通いだしてから、二週間が過ぎようとしたときだ。初めて倉本三千代が話しかけてきたのだ。
それはふとした拍子に起こった。
「その本を取ってくれない?」
倉本三千代はベッドに横になったまま、僕が毎日読んで聞かせる小説を指さしてそう言ったのだ。初めて聞いた彼女の声は、意外と澄んだ若い女性のものだった。
僕と佐伯は思わず顔を見合わせてから、慌てて本を取って彼女に手渡した。
彼女は「ありがとう」と小さく言って、横たわったまま小説を広げて読み始める。あとは何事もなかったように、彼女は本を読み続けた。
彼女が自ら本を読むのことも初めてだった。いつもは僕が読み上げ、その横で彼女はぼんやりと天井を眺めている。聞いているのかどうかも怪しい状態なのだ。
こちらから再び声をかけるかどうかを迷い、しばらく様子を見守ることにした。
彼女は黙って本を読み続けた。時々ページをめくっているから、きちんと読んでいるのだろう。一時間もそうして、彼女は居眠りを始めた。
彼女の寝顔を確かめてから、僕はすぐに担当医の元へ駆けつけた。ノックをしてドアを開けると、先生も老眼鏡をかけ何かの本を読んでいた。
「先生、倉本さんが話しました。しかも自分で本を読みました」
先生は眼鏡の
「自ら進んで何かをするというのは、よい徴候ですな。しかも彼女がここへ来てから、そんなことは初めてかもしれない」
それを聞いて、僕はますます高揚した。
「こんなときは、どうすればいいんでしょうか? もっとこちらから話しかけた方がいいでしょうか?」
先生は「ふむ」と言い、手に持っていた本を閉じて机の上に置く。どうやら読んでいたのは医学の専門書のようだ。
「まあ慌てないで、少し様子を見て下さい。急にたくさん話しても疲れますから、いつも通りでいいんです。また話しをしても、興奮せず普通に接して下さい。患者は急激な変化を嫌います」
なるほど、今の先生のように、普通にしていればいいということだ。
僕は先生に礼を言い、再び病室へ戻った。
倉本三千代はまだ寝ていた。微かな寝息が静かな部屋の中に響いていた。佐伯はベッド脇の丸椅子に腰掛け、彼女の寝顔を見つめている。
普段の僕たちは倉本三千代を刺激しないよう、病室での余計な会話を慎んでいた。だからいつでも部屋は静まり返っている。図書館の静けさとは異質の静寂で、そこにはいつでも、人や物の気配を感じさせない静けさがある。
僕はなぜか緊張していた。倉本三千代が目を覚まし、再び何かを話しかけてきたら一体どうすればいいのだろうと身構えていた。
望んでいた彼女との会話が実現するかもしれないのに、いざその可能性が見え始めると突然怖くなったのだ。しかし結局彼女は、僕たちがホテルへ帰る時間まで目覚めなかった。
翌日病院を訪れると、昨日の短い会話は幻かと思うくらい、倉本三千代はいつもと全く変わらなかった。やはりこうした病気は簡単ではないのかもしれない。
しかし今回は、少し期待した分いくらか落ち込んだ。二週間も、自分は全く見込みのないことをしていたのかという徒労感に襲われた。
一方で、自分が彼女を利用しよう目論んでいるわけではないことを自身に言い聞かせる。この行為に何かを期待してはならないのだ。
そうならば、徒労感を覚えるのは筋違いというものだ。誠意を尽くし、相手の心に響いたら嬉しいという話であって、例え響かなくても決して相手を恨んだり疲れたりすることではない。
佐伯と二人で、不毛とも思える彼女の世話が、振り出しに戻ったかのようにまた始まる。
しかし時間には限りがある。一生ここで、倉本三千代の世話をするわけにはいかない。
いつ何を判断すべきかが難しい。
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