ハナクレ【試読版】

ひつじ綿子

EP1.0 #01 wake up

 覚えているのは、死を拒絶する言葉と狼の遠吠えのような叫び声。

 わたしを抱きしめる腕。

「いやだ――だめだ、ハナ。死なないで」

 体がだるい。目もよく見えない。ただ、ぼんやり思う。

(……そうか)

 わたしが死ぬと、おまえが泣くのか。


   01. wake up


 ベッドの上で意識を浮上させたハナは、見える範囲でまわりを確認した。

 殺風景で生活感のない室内だった。カーテンはアイボリーカラーの無地。ベッドのシーツも個性のない白。家具も家電もなく、かわりに心電図らしき機械が据え置かれている。心電図、と解釈したのは、配線のない筒状の胴体の上にホログラムのような画面が浮かび、やや早い律動を記録しているからだ。電極が貼りつけられている感覚はないが、心拍は一致している。なんらかの方法で生体データが採取されていることはまちがいない。

「あ、おはようございます」

 だいじょうぶですか、と柔和に呼びかけられ、寝たまま頭をやや右へかたむけた。

 ベッドのかたわらには白衣の女が立っていた。チェリー・ブロンドの、めずらしい髪の色だ。とがった耳も、しっぽも生えていない、ただの人間。もしここが予測どおり病院だとしたら、彼女は医師か看護師であると見当できる。

「驚かないでください、ここは安全ですから。私はメロディ。これでも医者なんです。どうぞよろしくお願いします」

 聞きとりやすい世界共通言語ワールドカバーだった。きれいなイントネーション。ゆったりと余裕のある発語。育ちの良さがうかがえる。

 差し出された右手を見つめて迷ったものの、ハナは体を起こして握手に応じた。ゆっくりと感触を確かめるように握る。夢ではなさそうだ。ついでに彼女になんの敵意もないことを認めた。慎重なたちのハナを納得させるほどに、彼女の笑顔は一点の曇りもなく、友好を求める純良さしかなかった。

 部屋にもうけられた扉が自動でスライドしたのは、そのときだ。

 新たに男が現れる。軍の略服に包んだ屈強な体躯は人間ではなく獣人のものだった。獣体はハイイロオオカミで、耳は尖っており、長いしっぽがはえている。灰銀色の毛は全体的に短かく、瞳はサファイアのように蒼い。双眸がこちらを見据みすえる。

「クレメンス司令官」

 メロディが獣人を見て軽く目を瞠った。「なにかご用ですか?」

 クレメンスはハナから視線をはずし、豊かなバリトンを披露した。

「彼女と話がしたい」

「いま目覚められたばかりですよ。それに規則では、 」

「わかっている。だが、頼む」

 懇願こんがんには切実な響きがあった。

 メロディが戸惑いを見せる。彼女の目はそのままハナに向いた。顔色や姿勢など、ハナの状態は悪くないのだろう、医者の目が思案にあまる様子に変わった。

「気分は悪くありませんか? 必要以上にどきどきしたり、不安だったりしませんか?」

「いや」

 ハナの否定によって異議は消えたようだ。メロディは深入りせず、短い時間にとどめるよう注意して病室を去った。

 扉が完全に閉まると同時に、太い腕に抱きすくめられた。逃げる余地もなかった。ハナは観念して自分の細腕を彼の背中に回した。長く、深く、思いやりに包まれながら、彼が満足するまでじっと待った。言葉ではなく吐息で交感し、存在を確かめる。

 その一方で、どうにもぬぐえない違和感に悩まされた。がまんし続けていたが、とうとう不満にあえぐ。

「……やけに手足が短くなった気がするが」

「ああ。すこし――だいぶちいさくなった」

 クレメンスの体にまわした両腕は背中まで届いていなかった。以前は余るほどであったのに、いまは背広筋までで精一杯だ。

「体を修復するのに若くてちいさいほうがいいからと言われて、オレが許可した」

 ここに至ってようやく満足したらしい。クレメンスの力が緩んだのを見計らい、ふたりはようやく離れた。

 目線をあわせようにも、以前と同様に、とはいかない。背丈はほとんどハナと同じで、どちらかというと細身だった彼は、いまやがっちりとした筋肉を身につけて上背も伸ばしていた。

「おまえはだいぶ・・・大きくなった」

「そうだな、けっこう時間が経ったから」

「どれくらい?」

「…………五十、くらい?」

(この無頓着系時間感覚……さすが獣人)

 めまいに似た呆れに襲われる。が、すぐに意識を切りかえる。

「……わたしは死ななかったんだな」

「なんとか。……かなり、ぎりぎり。危なかった」

 痛みをこらえるような彼の表情を見て、ハナは意識が消える直前の罪悪感を思い出した。

 あんな思いをさせるくらいなら、身をていしてかばうんじゃなかったと後悔もした。かといってあのとき、かばわないという選択肢はなかった。おなじことが起きたらきっとまたおなじことをするだろう。

「命はとりとめても、人間の体の修復は繊細だとかで、薬とか電力とか、足りないものがたくさんあったんだ。それで起こすのに時間がかかった。すまない」

「いや。むしろ生きていてびっくりした」

「そうか」

 力のない微笑の一端に、彼のこれまでの努力と疲労が見え隠れした。どんな魔法を使ったかは知らないが、多大な労力と代償を払ったのだろう。

「ではここは、あの森の近くか?」

「近くはない。いまのあなたの足ではかなり……まさか帰るつもりか?」

 途中でなにかを察したとばかりに声音が変わった。驚きと恐れをふくんだ調子になる。

 目覚めたばかりで帰宅の算段などついているはずもないが、もしも治療が済み、出て行くとなったら、そうせざるを得ないだろう。

「ほかにあてはない」

「だったら!」

 大きな手がハナの両肘をがっちりとつかんだ。

「ここでいっしょに暮さないか?」

 ハナは目を丸くして、しばし彼を見つめる。ぴんと硬直したしっぽ、瞬きを忘れるほどの緊張と気恥ずかしさ、それらを上回る必死さが意味するものを理解するのに、それだけの時間が必要だったのだ。

 理解したあとの決断は早かった。

「いいぞ」

 いかめしく首肯すると、獣人の顔は喜び一色になった。

「どうせリハビリのあいだ住む場所が必要だ」

 つけ加えると、彼の尖った耳がしおれ、無念一色になった。

「いや、あの、その……」

「じょうだんだ」

 ハナのひと言でころころと色を変える。

 図体は大きくなってもまるで変わらない中身がかわいくて、ハナは頬を緩めた。


 動物でも植物でも菌類でもない彼ら――ユマには、高度な学習機能と寄生能力があった。とくに動物に寄生した個体は二本足で歩行し、巧みに言語を操るため、獣人と呼びならわして他とは区別された。

 遠くない未来、彼らは独自の文化を発展させて、人類が独占してきた歴史の決定権を手に入れるだろう。彼らの知性は人類を凌駕する可能性をも秘めている。

 人類は混乱をきわめた。

 ユマは自然発生した生命ではなく、どこかの国の研究機関が作り出したとか、宇宙から飛来したとか、憶測じみたさまざまな説が流布した。

 それらの流言を根拠に――実際は以前からの腹案を、獣人を言いがかりに実行に移しただけであっても――あっちの国とこっちの国が仲良くなったり、そっちの国とどっちの国が戦争を始めたり、そっちの国とあっちの国が古い協定を理由に結びついたり、離れたりして。

 統一と分裂、協調と対立が、日ごとにひっくり返り。

 為政者も衆庶しゅうしょも、判断の根拠や正統性を見失って、疑心が蔓延し。

 ――人類はすこしずつ、確実に、縮退し。

 そしてあるとき風が通り過ぎるように特異点シンギュラリティをむかえて、二種族の立場は逆転した。

 科学技術は獣人たち主導のものとなって久しい。

 世界の主要都市は、主意を同じくして集まった獣人のコロニーで占められている。

 過去を過去として置き、獣人と人類の融和が進む一方。

 旧時代の思想や意見を根強く残し、かたくなに拒絶する自治領もあり……。


 かんたんにまとめれば、獣人主導の、平和であるが楽観はできない――そんな時代に、ふたりは出会ったのだ。

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