命の染色
サナギソラ
第1話
こめかみに当てた拳銃の引き金を引けば、死ねる。分かってはいるけど、引ける訳がない。誰が自分から喜んで死ぬと言うんだ。僕は死にたくない。そう、まだ生き足りない。足りなさすぎる。
何冊かの本が倒れている古びた本棚、カビた匂いのするベッド。部屋に窓がないせいでやたら暑い。隠れる為だったんだ。生きる為ならこれくらいなんて事はないんだ。なかったんだ。
この部屋唯一の扉にへばりつく、得体の知れない赤茶色の肉塊。繭が自らの位置を固定するかのように、肉の繊維が扉や床に伸びている。肉塊はさっきから蠢く速度が上がってきた。そのたびに、肉塊の内側から何かの輪郭が浮き上がっている。中に、いるんだ。
僕は出られない。僕より一回りも二回りも大きい肉塊が部屋の入口を塞ぐその対角線上で、ただ座り込んで、隅でずっと踏ん切りが付かずにいるだけだ。もう何時間も経って、疲れて、ただただ絶望が心を飲み込んだまま。雨に濡れて壊れた腕時計は曇って何も見えやしない。
本当に、なんでこんな事に巻き込まれたんだろう。いや、今更理由が分かったってどうしようもないのか。チャンスだと思ったのに、ラッキーだと思ったのに。罠か。餌か。モルモットか。
「くそ、くそ、くそ!!」
思わず叫んでしまった事に気付いた時には、もう遅かった。
声に反応したのか、肉塊の蠕動が激しくなる。波打ち、前部が突き出て伸び切り、みぢみぢと、繊維と膜がちぎれる音と共に、表面が裂け、中から出てきたのは、怪物だ。得体の知れない粘液を纏って、皮を剥いた目のないトカゲみたいな、怪物が、産まれた。
肉塊から力なく這い出していくそれに、僕は手に持った拳銃を向ける。けれど、撃てない。当たり前だ。だって、だって。拳銃を持つ手が震え、涙で視界が滲む。怖いのか悲しいのかもう分からない。ただ、僕は嫌だった。
震える手から力が抜け、拳銃が床に落ちる。目のない怪物はその音に顔をこちらに向けてきた。近付いてくる。迫ってくる。殺してくる。僕は慌てて拳銃を拾い直して、もう一度こめかみに当てた。何も考えない。殺される前に死ぬ。僕はそのまま拳銃の引き金を引いた。
かちっ。
銃声は、鳴らない。
怪物は牙が何重も並んだ口を僕に見せつけるように開き、飛びかかる。その腹部からは、ああ、見覚えのある血に染まった布が覗いていた。
命の染色 サナギソラ @sanagityu
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