21日目 『かがみの孤城』感想

 彼曰く、子供のころ、誰もが抱える闇がある。


 ***


 大人にはわかってもらえない、理解してもらえない、黒い気持ち。

 わかってほしいのに、それでもできれば話したくない、知ってほしくない。

 弱い自分を見てほしくない。自分の子供が他の子にいじめられたり、暴力を振るわれたり、しかとされたり、ハブられたりしていると、思ってほしくない。

 そんな自分を、それでも察して助けてほしいと期待している。


 認めたくないけど、自分にもそういう時期があったと思う。

 私の場合は学校に行かないという選択肢がそもそもなかったから、こころたちの気持ちをちゃんと理解できているかはわからない。

 でも、自分にとって大事なこと、一番気にしていることを、親に言えない気持ちはとても身に染みた。

 恥ずかしい話、今でも言うことができないからだ。


 登場人物と同じくらいの中学生のころ、最初から私が言ってやったことは、覚えている限り、多分ない。

 あれをしたい、これをしたい。そういうたびにお金を使ってもらったり、親に連れて行ってもらったり、友達とそろって出かけたりするクラスメイト達をうらやましく思った。

 自分の意志で、何をしたいかを言って、実際にすることができる環境にいることを。

 私はそうではなかった。親がやっていたからという理由で地元のスポーツクラブに参加し、字が下手な子はバカにされるという理由で習字教室に行き、体力づくりのためとスイミングスクールに連れていかれ、計算能力は何かと便利だからとそろばんの教室にも行った。純粋に、自分で、心の底からやりたいと思ったことはその中に一つもなかった。

 学校には行くものだと思っていたし、休んではいけないと信じていた。特に理由はない、しいて言うなら「親に怒られるから」「親の機嫌が悪くなるから」とかだと思う。

「だれだれのことが気になる」ということをいじられて恥ずかしい思いをしても、学校に行きたくないとは思わなかった。黙っていれば、子供は忘れるものだったから。

 幸か不幸か、自分の周りは、自分のことをそれほど気にしない人が多かったんだと思う。相手を傷つける暴力を乱雑に振り回すこともないし、図ったような害意をむき出しにして接する人も記憶にない。

 こころたちのような日常からはかけ離れた、あまりにも普通の日常。


 それでも、読み進めていて一つだけ、思い出したことがある。

 珍しく先生に呼び出されて、「隣の席の子が君の癖を気にしている、怖がっている」と言われたことだ。

 何のことかさっぱりわからなかった。隣の席の女の子。引っ込み思案っぽくて、隣だっただけで話したことも全然ない。ちゃんとした名前も忘れてしまった。そんな子が、私が無意識にしているという癖を気にしていたらしい。

 ただの小さな舌打ちが、その子の心をとげのようにつついていたのだ。

 そのころの私は勉強ができる方だった。妙に自分の実力を鼻にかけていて、でもだんだんと成績に周囲との差がつくようになると、認めたくない気持ちが先行してしまっていた。成績表をもらうときの顔にも出ていたかもしれない。席に着いてから点数を見る瞬間、思っていたよりも低い点数を取ったときには毎回出てしまっていたかもしれない。その時の癖が、普段の授業や掃除の時間にでも出てしまったのかもしれない。成績表を返してもらうときに、いつも出席番号順に並んでいたから、そのたびに無意識の舌打ちを受けていたということだ。

 先生の注意を受けても、私には何のことかわかなかった。さっぱり記憶にないことだし、そのつもりもないくらいに、その子のことは気にしていなかった。

 ただ、なぜか自分が「いじめた」側のレッテルを勝手に貼り付けられ、ちょっと問題児として認識されたことには腹を立てた。

 舌打ちはしたかもしれないけど、その子を傷つけたくてやったことではない。自分の実力不足を自分で呪っているだけの行為で、音に出しているつもりでもなかった。勝手にその子がそうだと受け取ってしまっただけで、私は悪くない。

 そう言いたかった。

 真剣な目を向けて、深刻そうに言う先生に「気を付けます」とだけ、小さな声でつぶやいて思った。

 私のことをわかってくれる人はいないんだろうな、と。

 家に帰っても、両親は共働きで帰ってくるのは遅いし、次の日も仕事に行くのが早いから、わざわざ話すこともなかった。それ以降も、親に話すことはなかった。


 子供の抱える心の問題としては、こころやアキたちのように、害意を向けられて、耐え切れなくて学校に行かなくなってしまった、というものとは違う。

 けれど先生のこともそこからは不信に思っていた気がするし、一度親に相談しようと思ってはばかられてしまうと、二の足を踏んだまま話さずじまい。

 次第に全部を自分でやらないといけないと思うようになって、結局大事なことを誰にも言えない人間になってしまった。

 誰かに私の気持ちを知ってほしい、でも人に言うとどう思われるかわからない。

 もしかしたら馬鹿にされたり、けなされたりするかもしれない。何かが相手の傷に触れて、暴力を振るわれるかもしれない。一緒に働きたいと思っても仕事をしてくれないかもしれないし、気軽に遊びにも行ってくれないかもしれない。

 それでも、自分の本当の気持ちを察して助けてほしいと、どこかで期待している自分がいる。

 子供のころ解決できなかった宿題を、いまだに抱えて生きている。

 心の奥底の私は、こころたちと同じ気持ちでいると感じた。


 でも同時に、そのことを理解できている存在がいることにも気づいた。

 客観的に自分のことを見ることが多い私には、自分を肯定しようとする自分がそうだった。

 こころやウレシノ、マサムネに寄り添っていた喜多嶋先生みたいなものだ。フリースクールで学校に通えない子供のケアをしている、柔らくて優しい雰囲気の先生。自分の気持ちにちゃんと向き合ってくれて、進もうとするときには背中を押してくれる、つらいときには手を握ってくれる、頼りになる存在。そんな風に思える自分がいるだけで、何となく心が上を向く。頑張ろうという気持ちになる。

 大人になっても、一人舞台にすっかり慣れていたけれど、そこにはちゃんと観客はいてくれた。私以外に、もう一人。

「あんたがもう戻ってこないとしても、母さんはずっと応援してるから。自分の生きたいように生きなさい」

 実家に久しぶりに帰って東京に戻る朝、駅前まで送ってくれた母が言ってくれた。目頭が熱くなった。何年も流していない涙が、じわじわと一人で閉じこもった心を温かく包んでいく感覚。私にとっての喜多嶋先生は、母だった。


 いつの日か、部屋の小さな鏡を光らせて、ひょっこり現れた狼面の小さな女の子が、フリフリのフリルのついたドレスの裾を揺らしながら私に駆け寄って、「おめでとう!あなたは選ばれました!」なんて言いながら小さな温かい手で私の手を握って、自分をこのつまらない理不尽な世界から連れ出してくれるんじゃないか。

 おとぎ話の始まりのような。あるいはファンタジーの冒頭のような。奇跡みたいな出会いも別れもないけれど、この世の誰かは私のことを肯定してくれるかもしれない。

 本当ならここで、友人とかをあげるとなおいいのかもしれないけれど、まだ踏み込んだことを言える相手は現れない。でももしかしたら、今後の人生で私を肯定して、応援して、手を握ってくれる人が現れるかもしれない。そんな気がする、というだけで、目の前が何だか開かれている気がしてくる。

 心の問題は、心を閉じ込める自分自身を解放することから始まるんだと、自分にしかわからない鏡の中に閉じ込めた気持ちを、『かがみの孤城』を解放することで、ちょっとはいい方向に進むんだと思う。


 こころたちとは違うけれど、私は私で救われた気持ちになった。

 小さな心のつっかかりを取り除いて、支えやすくしてくれる、そんな物語だ。

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