6日目 『教育』感想

彼曰く、目を瞑り、時間をかけて何度も深呼吸をする。


 ***


『教育』遠野遥 読了。


とても不思議な世界観の小説でした。

まるで今まで自分がいたところが現実ではないような、奇妙な感覚を覚えて妙な高揚感を覚えている。

大きくて、進路がねじ曲がって大小さまざまな異物が流れていく川をはしゃいで渡った反対岸から、微妙な顔をしたもう一人の自分が見える感じ。

『不思議の国のアリス』で、帰ってきたアリスが土手から走り去っていくのを見送るお姉ちゃんの気分はきっとこんな感じだったのでは。

「ああ、この物語を最後まで読んでいろんな想像をした彼は、きっと想像力豊かな大人に育つんだろうな。制限とか、抑圧とか、現実のつまらない制約から解放された世界で、自由な思考を広げて生き生きとした顔で明日笑っているんだろうな」

確かに抑圧からの解放、ストレスフリーな生活が描かれている場面は多い。

けれど、主人公が生活している場所の実態はとてもいびつなものだ。少なくとも私の視点で見る現実と比べると、だけども。


舞台となる施設で生活している人々は描写されている人間だけでも大半が青年期の少年少女。

定期的に実施されるテストによって成績が計測され、一定の基準を越えれば進級、満たなければ降級が言い渡される。所属するクラスによって施設での暮らしは成績によって決まる。

最高の特進クラスであれば、三十帖の個室が与えられ、特大モニター、正方形のベッドなどの優遇措置がある。下のクラスであれば2人、4人、6人とルームメイトが増え、プライベートはほぼなくなり、上のクラスへの挨拶を忘れてはならないなど、厳しい上下関係も存在する。

施設全体では、共用ジムやプール、運動グラウンドや体育館、食堂など、運動食事にかかわる施設利用は自由であり、道具の貸し出しも自由、食事バランスも整っているというすばらしさ。

一方で各個室ほか、廊下や施設のそこかしこに監視カメラが仕込まれており、警棒を携えた巡視員が生徒たちの動向を監視している。この施設での絶対的な存在である「先生」には誰も逆らえない様子。

飴と鞭が同居し、個人の意思にゆだねられた制限と自由を謳歌する「私」、佐藤勇人の視点で語られる施設での生活。

彼は施設での生活を自分なりに楽しみ、友人である女生徒・真夏とセックスをすることで成績を維持していた。

ある意味オープンだが、同時に厳しい制約もある、現実社会を凝縮したような世界観。読み進めるのはなかなかの根気が必要でした。


中でも異質さを放っているのが、「1日3回のオーガズムに達すること」が成績向上のために推奨されている点。

補助教材的な形でポルノ・ビデオが各自に支給され、セックスを咎める存在もいない。ルームメイトがいても互いの性器を触りあう生徒たち、挨拶を交わす感覚でセックスを続ける生徒たち。

この風景は小説の中だからこそ許されているのか、それとも現実で私たちが目をつぶっているだけのものなのか。欲望と理性の狭間に立たされている気分になって、それが読書中の妙な高揚感の起点になっている気がする。現実では多くの人間が咎める行為を、日常の中に取り入れている歪さがある種の説得力を持って描写されているから、上手く拒むことができない。

例えば「私」のルームメイトである羽根田の発言。

「筋トレをすると、体が大きくたくましくなる。そうすると、自分に自信が持てる。そうするといつも積極的で上機嫌でいられる。加えてセックスの時もよりパワフルに、いつまでも動くことができる。相手も満足する―――」(一部略)

著者の前作『破局』でもこんな描写あったらしいですね、まだあちらは読めていないので詳しくは知らないのですが。

確かにこの論理はわかる。現実でも多くの研究者が言っていることでもあるし、実際に成功者や名声を得ている人は適度な運動とバランスの取れた食事の重要性について語っている。しかも羽根田も「私」も実際に成績が上がっている。

結果を出されては、納得せざるを得ないじゃない。

一部の成功者が大々的に公表するテクニックを信じると、他の民衆もそれに従い世間にだんだんと伝播していく。従来とは違う考え方がプロパガンダを通して浸透していく。半ば公的に認められた行為を咎める者はなく、構築された新体制の中で成長できない人間だけが取り残され、省かれ、調教の対象としてつままれてしまう。

まるでナチス、狂信的な宗教団体みたいな違和感を感じました。


ある意味現実からの脱却ともとれる一方で、単に見つめるべき現実から目を背けているだけとも言える。

というのも、「私」を通して語られる内容は実際には風景描写くらいしかなく、他の登場人物や作中小説の描写も過分にある。

最初に挙げた『不思議の国のアリス』のほか、架空小説『ヴェロキラプトル』、催眠部の未来が語るアルバイトの話や遊園地に行くカップルの話、物語終盤で描写される「私」の友人・真夏の舞台。これらは広く妄想の類とまとめてしまっていいと思う。

日常の中に潜む闇や細かな幸福、それらを文学や演劇、語りの中で消化することで、小説内の歪な設定に目を瞑る。「私」を通じて、読者も同じ体験を施されている感覚。まるで自分が宗教に染まってしまったかのような錯覚が、一章読み進めるたびに生じていた。

「私」がとりつかれたように真夏や海に勧める適度なジムやプールでの運動、用意された食事の完食、そして日常にはびこるセックス。これらも小難しいことに対する思考の放棄を促す要因になっている。抑圧された空間に対する疑問、思考を廃棄し、妄想や文学、事務的な作業やルーティンによってより「正しい」人間へと成長するための生活態度。

一方で、セックスを強要されることへの抵抗や、成績が伸びないことへの不安から、何を信じればいいのかわからない真夏。逃げるように耽る運動も空回り、付き合いだした先輩とのセックスは良好とは言えず、新しいことをと挑戦した初脚本の舞台も先生に書き直しを言い渡されていた。

結果的に成績を落とし降級した彼女は終盤、成績不良者への補習から逃れようと、先生と巡視員から「私」に助けを求める。すがるように涙を浮かべた真夏に対して「私」は彼女を安心させるために肩を叩く。

「ダメじゃないか、補習はちゃんと受けなきゃ!」


果たしてこの小説の中でより「人間的」なのは誰なのか。

思考を放棄した「私」と、疑問を持って思考を続けた真夏の対比が何とも言い難い結末を導いて、言い知れない読後感の尾を引いている。

畢竟、様々な制約と自由が同居した世界で自分がどう生きるか、ということが肝要だということなのだと思う。作者らしい世界観で語っているところに、物語の幅の無限性を感じた気がする。

まだまだ、微妙な感覚が残っているんだよなぁ。

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