10日目 環境
彼曰く、環境を変えるには二つの要素が必要だ。
***
試練とは、急に降りかかってくるもの。
今までにない大きな仕事を任されて、己の実力を試される機会は、人生にはいつ何時訪れてもおかしくない。
人生万事、塞翁が馬、というやつだ。
試練にいつぶち当たるかは人それぞれらしい。
だが、試練には急に降りかかってくる以外のものもあるのだという。
上司の言葉だ。
「試練っていうのは確かに急に投げられる大きな仕事のことを指すこともある。一方でこういう試練もあるってことに最近気づいたんだよね」
なんとか出たらしいボーナスの金額を書いた紙を裏返して、色の薄い赤ペンで線を書いていく。
”試練”
縦書きの二つの漢字の間に、小さく”レ”を入れる。
「練って、試す・・・」
「そう。大きな試練とは別に、こういう試練が毎日あるんだよ。一日一日に転がっている小さなことをきっかけに考え始めて、それを実際にやってみる、っていう流れ」
言いながらそれぞれの字を丸で囲む。
「ようは、目の前の状況に対しての対策だとか計画だとかを練って、それを実際にやってみるっていう練習試合みたいなもんだよ。大会に行く前に相手のことを分析して得意な戦法を探ったり、手癖を知っておいて、それに対してどう反応すればいいかをイメージする。それを何度も繰り返す。脳内でもいいけど、できれば実践がいい。我々社会人で言えば、普段の仕事でのことだ。試行回数を増やして成功と失敗を積み重ねれば、対策のパターンも自ずと増えるだろ。その貯金ができるかどうかなのよ」
ぐるぐると丸を重ねながら続ける上司は、やはり楽しそうだ。
こういう話をするときの上司はよく笑う。
「で、ふっとデカい大会に投げ込まれて勝ち残れるか。これがいわゆる大きな試練ってやつ。君が入社したタイミングで放り込まれた班がそれにあたるね。残念なのかは人によるかもしれないけど、ここ2年でうちに入った子たちはその経験がない。だから急に降ってわいた試練に対してどうすればいいかわからない。その上小さな試練も不十分だから、上手くいかないことが多くて混乱しちゃうんだよね」
彼の屈託のない笑顔を思い出す。
出社するたびに元気に挨拶していた彼の姿を、もうしばらく見ていない。
無邪気に、晴れやかに挨拶する最年少の男の子は、今何を考えているのだろうか。
「彼の場合はその精神的に参っているタイミングで、運悪く体の方にもガタがきちゃったってわけなんだけど。ま、こればっかりは彼の運が悪かったともとれるし、今までのツケが回ってきたってことかな」
「ツケ、ですか」
「そう、自分の力で解決するべき問題を自覚しているのに避けてきたっていう現実。自分にとっての弱点、ともいえるかな。私はね、このツケを解消できていないうちは現状に対するやりづらさをずっと感じることになると思うよ」
身が固まる。
私についての話ではないはずなのに、最近の居心地の悪さを指摘されているような気がした。
「ツケに向き合えるかどうかはその人次第。私はそこに積極的に介入しようとは思わないけど、当人が現状を打破したいとか、気持ち悪さから抜け出したいと思うなら、早いところ向き合う時間を自分で作らないといけないんだよ」
「・・・彼に今その問題に向き合うメンタルがあるかは微妙ですけど」
「確かに今は体と心を休めた方がいい。無理に働いても気持ちよくないから、劣等感に押しつぶされて戻ってこれなくなるくらいだったら、一回全部忘れてさっぱりした方が生きやすいでしょ」
コツコツ、とペンが鳴る。
二つ折りのA4用紙には”試練”の文字の下に”ツケ”と大きな四角が書かれている。
「ツケを自分の基礎にするかゆるゆるに腐らせるか。どんな状況でも生きていける人間になるにはしっかりとした土台を作らないといけないね」
彼には試練が向けられている。
今までの人生で避けてきた問題が根っこにある、大きな試練だ。
この試練は今の班にもはびこっている。
後輩にも、先輩にも、そして私にも。
後輩の試練と同じように、私の試練も膨らみすぎた。
大きく、ぷっくりと膨れている。
これが弾けてしまうと、きっと会社にも居づらくなってしまう気がする。
今まで見ていなかった現実が、急にふっと明るみに出た。
てっきり自由な立場にいると思っていたけれど、透明な壁に押しつぶされていただけらしい。
週明けの私は、きっと試されているんだろう。
今の環境をこれ以上悪くしないためにも。
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