27日目 予感
彼曰く、何かが始まるときはいつでも胸躍るもの。
***
世界がざわつく。
比喩でもなく、現実でもなく、ただ脳を揺さぶる衝撃となって、それは訪れる。
それは例えば聴いたことのない音楽を聴いたときだったり。
話したことのない誰かの力強い演説だったり。
先輩との何気ない会話の一言だったり。
寒くもないのに肌が粟立ち、怖くもないのに背筋が凍る、全身の血が熱を帯びる。
感じたことのない変な感覚。
自分の生きている範囲の数メートルで小さく巻き起こる衝動。
普段なら見過ごししまうような他愛もないことが、いやに大きく見えてしまう。
「ねえ、今日はどこに行こうか」
「え?」
静寂に包まれた教室に素っ頓狂な声が響く。
ここではないどこかに耳を預けていたものだから、急に声をかけられてびっくりしてしまった。
変な反応をしてしまったことに気恥ずかしくなり、頬を少し引きつらせる。
普段は落ち着いていると自他ともに認めている自分の大きな表情変化が珍しいのか、先輩は小さくふっと笑って見せた。
「なにボーっとしてんの、何か悩み事?」
「いや、全然、そんな、ことないです」
「フフ、変なやつ」
また笑う。
長いまつげが小さな瞳にかかり、どこか色っぽい。
白い肌に浮かぶ笑みは薄いけれど、私以上に感情が顔に出づらい先輩にとってはそれこそ珍しい。
二人きりの教室に茜色の光が差し込んでいる。
掃除のときのままなのか、開けっ放しにされた窓から夏の終わりの涼やかな風が入り込んでカーテンを揺らしている。
ゆらゆらと怪しく動く裾が机に座っていた先輩の胸元まで迫る。
何ともなしに白い布の先を手で押さえたり、軽く握って見たりする先輩につい見とれてしまう。
再び、胸に迫る異様な感覚に襲われる。
いつもと同じ放課後、いつも無為な時間を過ごしている教室、いつもと変わらない先輩との短い会話。
ふいに訪れるこの感覚は何だろう、うれしいような、哀しいような。
つかんでいたいのに、つかむことを許されないような。
先輩を見る。
透き通るような茶色い髪。
髪と同じ色の瞳を際立たせる白い顔。
視線を下げると目に留まる喉仏は先輩が男だということを示している。
すらりと伸びた腕はませたクラスメイトの女子よりも白く、なのに弱弱しさを感じさせないしなやかさを持っている。
以前にプールに一緒に行ったときに初めて見た、均一に鍛えられた胸や足を思い浮かべる。
それらを隠すように白いカッターシャツの上にベストを重ね、黒い学生ズボンに包まれた片足を抱え込んで机に陣取っている。
昼の残暑を含んだ空気が髪を揺らし、鼻からゆっくりと吸い込み、そして吐く。
これはもう、奇跡なんだなぁ
放課後、誰もいなくなった1時間。
先輩が私のもとに来るようになってからの習慣になった二人の時間。
もともとは落とした生徒手帳を先輩が届けてくれたことから始まった。
いつも同じ電車に乗っていたこと、実は降りる駅も同じだったこと、得意科目が同じこと。
スポーツ特待生として入学したけど、怪我が原因で夢を諦めたこと。
挫折を繰り返して、毎日を無為に過ごしていること。
好きなアーティスト、嫌いな食べ物、ついやってしまう癖、不満に思っている家族のこと、一日の中でお気に入りの時間が夜なこと。
いろんなものが似ている二人だった。
気付けば一緒にいる時間が一番長い人になっていた。
友達付き合いの少ない自分が、話すことを覚えていられるのはきっと先輩のおかげだ。
そのことに気付いた、知ってしまった。
「ね、今日はどうしようか」
再び先輩の声が耳を衝く。
すっと染み入って離れない、ずっと聞いていたい心地いい響き。
夕焼け沈む浜辺の波のようだ。
安心して、安らいで、このまま時間が止まってしまってもいいと思う。
一度しか言っていないはずなのに頭の中で同じ言葉を反芻する。
またざわつく。
でも怖くない、嫌じゃない。
気持ちよさそうに風を浴びる横顔に向けて、私は少しばかり上ずった声で言うのだ。
「先輩と一緒なら、どこにでも」
夕日を受けた顔が振り向いて優しく微笑む。
頬を抜ける夕風がいつもよりも涼しく感じた。
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