5日目 春を告げる

彼曰く、年間ティッシュ消費量1位の人間(自分調べ)。


 ***


”大洪水、警戒命令発生中”


脳内緊急アラートがけたたましく鳴り響く。

頭にこだまする甲高い音とは裏腹に、空模様は清々しい。

目を見張るような青が頭上いっぱいに広がっている。

でもその青が水を連想させるから、だんだんと吸い込まれるような気分になる。

洗面所で排水口に流されていく水のように。

回って回って、繰り返し流されていく。

全身に漂う無力感。

心に侵食してくるどうしようもなさ。


朝からけだるい気分が蔓延している。

世界の酸素濃度は人口の増加とともに低くなり、

植樹運動が叫ばれるうちに空気の構成要素は以前よりも大分偏ったものになった。

生物の増加で増えた二酸化炭素は様々な異変を世界にもたらした。

オゾン層の破壊によって紫外線が地上に降り注ぎ、

気温上昇によって海面が上昇、地表露出面は狭まっている。

ちなみに海面が1m上昇すると日本全体の砂浜の9割が消失するらしい。

大気は汚染されて肺を侵し、酸性雨によって建造物は洗い流され、

大陸の土環境は物も育たないほどに枯渇している。

どこもかしこも最悪と言っていい状態になっているのだ。


ところで、汚染された空気の中には厄介なものが存在している。

空気と同じ顔をしているが、それは空気ではない。

要は微粒子レベルで滞空している物体。

四季を持つ日本では、特に秋と春によくみられる。

自然に潜む犯罪者予備軍。

それが花粉だ。


もっとも奴らに犯罪者という自覚はない。

奴らはもっぱら生死を謳歌するために生まれ、

自然を賛美し、自己の繁栄を祈りながら世界に生まれ出る。

彼らにとって生も死も、等しく訪れる平等な運命。

自らの意志でどちらかを選び取ることはできない。

風に揺蕩い、雲に乗り、水面をかすめ、地表に撃ちつけられ。

様々な運命を繰り返しながら、夢にまで見た相手と駆け落ちをする。


人間であればなんて運命的な瞬間だろう。

かつて出会っていたかのようなデジャヴ。

袖振り合うも他生の縁。

現実にはまずありえない2人の遭遇、恋路。

世界のすべてに背を向けてでも強く生きる、

そんなハートフルラブストーリーが巻き起こるだろう。


でも花粉にはそれもない。

たとえ相手がかつてその葉をかすめたものであれ、

その時の記憶などなく、ただ目の前の事象に引っ張られるまま、

次代を育むか、自死するか。

実に単純な生活をしている。


人間の登場はきっと彼らにユーモアを与えただろう。

自死を選ぶ代わりに圧倒的な肉体に空気とともに取り込まれれば、

二度と外を拝むことはできない。

花を咲かせることもなければ、実ることもなくその生を終える。

その終わりは、皮肉にも豊かなものだろう。

生物としては圧倒的に劣る相手に対し、自死を以て一矢報いる。

代償として、墓場の主を苦しめることができるようになったのだから。

炸裂する大爆発と同時に起こる大洪水。

死に目にあったような奇声が暗い体内をこだまする。

それはきっと花粉にとっての大喝采に違いない。

春を告げる鳥の鳴き声に似た、大きくためた一声。


「は~、はっくしょん!!」

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