30日目 5月末
彼曰く、何事にも終わりが来る、そしてはじまりの時が来る。
梅雨の空気がまとわりつき、蒸した天気が続いている。
昨日雨が降ったと思えば、今日はカラッとした陽気。青い空は底抜けに明るく、昨日の暗い雰囲気が嘘のよう。
遠くに大きな雲が見える。灰白く大きな塊の下では、昨日の私のような気分の人がいるかもしれない。
上手に気分転換できる人は、見知らぬ土地にはいるのかしら。
そんなことを思いながら、愛用の自転車を走らせる。少し前まで桜の咲き誇っていた道。今では鮮やかな緑が日の光を反射して、進む道を照らしてくれている。
春の匂いは遠のいて、蒸し暑い季節がやってきた。
5月も末。平日も今日が最後。1つの月がまた過ぎて、新たな月がやってくる。
5月は不安な日々だった。
ちっとも解除されない戒厳令によって、著しく外に出ることが制限された。大好きな買い物も、友人との食事も、好きな人との外出も、やりたい行動が縛られる。出られたとしても時間を気にしなければならず、楽しい気分にも影が差した。たまの気分転換のつもりが、露骨に気にする人の視線のおかげで興奮が冷めることも度々あった。
楽しむつもりで出かけたのに、なんでこんなに悲しくなるんだろう。
不安を募らせた視線に囲まれて、楽しい気分がオセロのように裏返る。いくら気分転換に自信があっても、四面楚歌では防ぎようがない。
何より不安だったのは、初めて職場に入ったこと。
慣れない土地、慣れない生活。ただでさえ人に慣れるのに時間がかかる、緊張しいな性格なのに、その時間まで制限される。同僚とは入社前に顔を合わせているのでまだいい。しかし指導係としてつけられた人は違う。相手は当然のように優しく接してきてくれるけれど、それさえ不安をあおるような仕草に感じられた。
いつから自分はこんなに不安を感じる人間になったのか。自粛期間で、感情の表し方を忘れてしまったのか。
不安に染まる新生活。初めて尽くしの勤務先。荒くなる呼吸のまま走らされ、過呼吸寸前になるほどに心がつらくなる。家に帰ったら、今日知ったこと、会った人との話が薄れていく。それが怖くて不安が増す。
誰にも見られることなく散った春の花のように、純粋な気持ちがはらはらと心を離れていく。
私はこのままで大丈夫なのかな。
会社には決められた提出物が存在する。
入社時の契約書。経費が発生した際の申請書。退職するときに退職願を出すまで、何かしら渡すものがある。
月末の今日、月報を書いた。
月報とは当月の作業内容、それぞれに従事した割合、それらの感想を書く。備品の不備や、組織体制に対する意見、提案の欄も用意されている。初めから大きなことを言いづらい新人でも、自分の考えを自由に物申すことのできる機会と言える。
私は正直に、不安だ、と書いた。
不要と言われたが、指導係の先輩にも言った。自然と出る言葉が熱を帯び、次第に感情をはっきり言っていた。先輩は静かに聴いてくれた。
「大丈夫かなって、時々言ってたもんね。わかるよ」
自分も不安だったと、はっきりしていて優しい声が胸にしみた。
頷きながら答える先輩の表情は大げさにも見えたけれど、前とは違い共感を得やすくなっている。1日おきとはいえ一緒に過ごすことが多かった。お互いの波長に慣れたのかもしれない。感情を出すことを苦に思わなくなっていた。
自分なりの意見を言って、ぶつかり合いながら解消していった学生時代を思い出す。毎日が大変で、色々な話をしながらイベントを進めたみんなの姿が、すでに仕事が動き出した同僚たちの姿に重なる。
「もうじき君もああなるよ。仕事があるんだから、いつまでも自粛してるわけじゃない。会社の自粛期間が終わるころには、始まる前の今を懐かしく思うよ」
そう話す先輩の顔は、初めて会った時と同じように楽しそうだった。
新たな始まりに心躍らせた表情。新天地に出向く前、鏡で見た顔の輝きに似てる気がした。
小さな独り言も気にして、気遣ってくれる人がいる。初めは不安しかなかったけれど、見知らぬ人はいつしか頼れる存在になっていた。
遠くに見えた雲がなくなっている。空に散ったか、さらに遠くへ行ったか、自然のことは分からない。
雲の下にいた人は、雨を避けられたかな。へこまず、元気でいてくれたらいいな。
おそらく会うこともない人を気にして、一緒の気持ちだったらいいなと思う。同じ心持ちの人がどこかにいてくれたら、なんだか頑張れる気がする。想像はタダなのだ。時が過ぎれば不安も終わってくれる。
5月が終わり、6月が来る。やっと来た梅雨は終わりに向かい、夏の始まりへ僕らは向かう。次に待つ新たな不安を乗り越える自分を想像しながら、静かで温かな風を感じていた。
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